『オークストリートの異変』は、なぜ見慣れた物語なのに新しく見えるのか|感想・考察
恐竜映画は、もう見慣れた題材だと思っていました。
遺伝子で蘇らせた恐竜のテーマパークで安全装置が解除され、恐竜が脱走して人間を襲う。遺伝子組み換えの新種恐竜が脱走し、パニックを引き起こす。など、ジュラシック・シリーズを代表にかなり強いイメージがすでにできあがっていました。
正直、『オークストリートの異変』も、予告を見た時点では、そうした見慣れた物語に見えたんですが、すこしだけ導入部分に違和感があったんです。主人公たちは恐竜ってわかっていなそうだな、と。
予告編で出てくる、恐竜、郊外、普通の家族。どれも恐竜映画では、脇役で襲われ、食べられてしまう側ですが、いうても恐竜映画だから、知ってるモノだろうと。
でも、観終わったあとには、まったく新しいものを見た感覚が残りました。
では、なぜ新しく感じ、見えたのか。
🚨ここから先は、物語の仕掛けと結末を含むネタバレがあります。
そしてこの映画はネタバレせずに鑑賞することをおすすめします☝️
それではネタバレ部分にはいっていきます。
🎙️このnoteの無料記事はポッドキャストでも聴けます。合わせてどうぞ。
新しいのは題材ではなく置き方
わたしは、物語は「借りるなら遠いところから」と考えています。
例えば異世界転生ものって、異能バトル系だと「空からゲートが開いてモンスターが溢れ出し、人類側にも能力が発現して、強いキャラがランカーとして前線に立ち、モンスターたちと戦っていく」、ざっくり言うと、だいたいこんなあらすじが多いですよね。
もちろん、その中での能力の設定や、世界観のファンタジーレベルには作品ごとの違いがあります。でも、どうしても大筋が似ているな、と感じてしまう。似ていること自体が悪いわけではなくて、むしろそうしたフォーマットだからこそおもしろくて、ヒットしている作品もたくさんあります。ただ、それでも「どこかで見たことがあるな」と思ってしまうのも事実です。
一方で、同じ「異世界転生」を扱っていても、『ブラッシュアップライフ』のように日常系の文脈で、転生系のテーマである「人生やり直し」で描かれると、新鮮に感じるんですよね。しかもTVドラマで転生ものってあまりないタイミングでもあった。
つまり、題材そのものよりも、「どこから何を借りてきて、どこに混ぜるか」という距離のほうが、新しさを生むのではないか。そんなふうに思うんです。
話を戻しましょう。
本作は、恐竜映画、時間SF、郊外ホラー、1980年代のファミリー映画、そして離婚寸前の夫婦をめぐるホームドラマを、ひとつの住宅街に集めています。
最初は、この題材の掛け合わせこそが新鮮さの正体だと思いました。
ただ、「恐竜×時間移動×家族」という材料そのものには先例があります。
『Terra Nova/テラノバ』では、家族が8500万年前へ移住し、恐竜のいる世界で再出発します。1974年のテレビシリーズ『Land of the Lost』にも、家族が時間の入口を通って恐竜世界へ迷い込む設定がありました。

それでもなお本作に惹かれたのは、使われている題材そのものよりも、何を動かしたか、何と何を隣り合わせたか、そして古いジャンルの向きをどう変えたかです。
面白かったポイントを並べていきます。
主人公ではなく、日常ごと移動する

一般的な異世界ものでは、主人公が日常を離れて別世界へ向かいます。
本作で動くのは、家、庭、道路、車、隣人関係まで含めたオークストリート一帯です。住宅街の日常が、まとめて切り取られるんです。
『ジュラシック・パーク』では、人間が恐竜のいる島へ行きました。本作は、郊外の暮らしを恐竜のいる世界へ丸ごと置いています。
その瞬間、見慣れたものの意味が変わります。
庭は遊び場から狩場へ。柵は隣家との境界から、逃走を妨げる障害物へ。家は安らぎの場所であると同時に、外へ出られない檻になります。静かな袋小路は、世界そのものの行き止まりになります。
本作は、観客がすでに知っている場所から始め、その意味をずらしていきます。恐竜がいるのは、芝生、玄関、カーペット。その近さが、怖いんですよね。
能力なしのサバイバル

もうひとつ面白いのは、主人公たちが外的な力を何ひとつ獲得しないことです。能力も武器も称号も手に入りません。仕事や社会的な立場はすでに揺らぎ、異変が始まると、電気、水道、通信、道路、家の安全まで奪われていきます。
文明に守られていた家族は、恐竜に狙われる獲物へ引き戻されます。
物語が進むほど、電気も水道も、家の安全も消えていきます。なのに、家族の信頼だけは少しずつ戻ってくるんです。
異変が起きる前から、プラット家はすでに断絶していました。グレッグは失職や飲酒の問題を隠し、デニースは家族に見せていない小説を書き、子どもたちは両親が離婚するのではないかと恐れています。互いを心配しているのに、肝心なことを話せません。
通信も道路も断たれていく街は、互いに話せない家族がそのまま形になったように見えました。異変が暴くのは、恐竜が来る前からあった問題です。
本作で特殊能力に相当するものがあるとすれば、秘密を打ち明け、それぞれの知識や得意なことを持ち寄る力なのかもしれません。
恐竜は、ただ生きている
本作の恐竜には、人間を憎む理由も世界征服の目的もありません。
彼らは食べ、排泄し、繁殖し、火から逃げます。監督も、恐竜を単なる怪物ではなく、生きた動物として見せたかったと説明しています。造形には近年の科学的知見を取り入れながら、映画的なアレンジも加えられました。
ここで、侵入者の立場がひっくり返るんですよね。
恐竜は、自分たちの生態系で暮らしているだけです。そこへ住宅街ごと割り込んできたのは人間でした。
この作品で「よそ者」なのは、恐竜よりも人間のほうです。
物語だけでなく、観客も1982年へ戻る

1982年という舞台設定は、懐古趣味以上の役割を持っています。
登場人物が太古へ移動する一方で、観客が戻るのは、『E.T.』や『ポルターガイスト』に代表される1980年代の郊外ファミリー映画の文法です。
わたしには、物語の中だけでなく、映画の見せ方まで時間移動しているように見えました。
本作は、懐かしい映画の文法に、現代の感覚で描く家族、流血、科学的に更新された恐竜、不穏な時間分岐を入れています。
昔の映画を、現在から書き直しているんです。
デニースが書き直したもの

恐竜との戦いでは、父親のグレッグが目立ちます。ただ、物語のもっと静かな中心にいるのは、小説を書こうとしている母親のデニースです。
物語の冒頭、彼女が密かに書いているのは、家族のもとを離れ、新しい人生へ進もうとする女性の物語です。現実では選べない人生を、架空の人物に先に生きさせています。
わたしには、冒頭の小説が、現実では選べない別の人生をフィクションの中で試すためのものに見えました。
ところが太古の世界で、グレッグは家族を守り、デニースたちの目の前で命を落とします。
デニースは、それまで家族から離れる人生を想像していました。しかし夫の死によって、「夫のいない人生」を空想ではなく現実として経験します。自分から手放すことと、取り返しのつかない形で失うことの違いを知るんです。
彼女が太古から持ち帰った最大のものは、グレッグを失った記憶です。恐竜の攻略情報ではありません。
その記憶を持って戻ると、夫も、彼の仕事も、自分の家庭も、以前とは違って見えます。
異変前へ戻ったデニースは、世界を救う大作戦を立てません。彼女がするのは、ピザを注文し、配達員のグレッグをオークストリートの外へ出すことです。
それまでデニースには、彼の仕事が失敗や不甲斐なさの象徴に見えていました。その仕事が、今度は彼を救う手段になります。
たった一本の電話で、夫が死ぬ筋書きを変えます。
タイムリープは、デニースにとって人生の書き直しだった。
デニースは過去へ戻り、失いたくない人を救います。自分が生きたい結末を、今度は現実のほうで選び直したんです。
さらに二年後、デニースは体験を『The End of Oak Street』という本にして出版し、作家になっています。
冒頭のデニースにとって、創作と家族は二者択一でした。作家になるには、家族から逃げなければならないと思い込んでいたんです。
しかし最後には、家族と生きながら、創作も手放していません。
創作の役割まで変わっています。
家族から離れる人生を想像するためのものが、自分の経験に意味を与えるものへ変わりました。
デニースが、自分の人生には別の結末を書けると知る場面が、彼女の物語の感情的なクライマックスです。
書き直した先に、初稿が残る
ただ、本作は気持ちのよい家族再生だけでは終わりません。
監督は結末について、表面的には家族が再びそろったと受け取れる一方、手がかりから別の層を組み立てられるようにしたと説明しています。

ちなみに監督・脚本を務めたのは、『イット・フォローズ』(2014)『アンダー・ザ・シルバーレイク』(2018)で独創的な映像世界を築いてきたデヴィッド・ロバート・ミッチェル。製作には『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』(2015)などのJ・J・エイブラムス
ここからは、わたしの仮説です。
時間が一本の線ではなく、途中で枝分かれしたと考えてみます。すると、デニースが救ったのは、異変直前の、まだ何も知らないグレッグです。
変化したデニースは、変化する前のグレッグと、もう一度関係を始めることになります。
さらに、帰還が元の時間を上書きしたのではなく、別の枝へ移ったのだとすれば、帰還先には異変前のデニースや子どもたちがいたのかもしれません。
もし彼らが住宅街とともに太古へ送られたのなら、画面の中の幸福の外側に、取り残された別の一家がいることになります。
映画はこの仮説を明言していません。ただ、そう読める余地は残されています。
小説なら、書き直したときに古い原稿を捨てられます。
でも人生では、選ばなかった可能性や、すでに起きた痛みを完全には消せません。
デニースは人生を書き直しました。けれど、消したはずの初稿も、どこかで続いているのかもしれません。だからあのラストは、見ているあいだは幸福なのに、考え始めると少し怖いんですよね。
本作は、主人公ではなく住宅街を動かし、力を与える代わりに文明を奪い、恐竜ではなく人間を侵入者にしました。
見慣れた材料でも、置き方と向きで物語は変わるといういい映画体験でした。ただ、わたしに映画館でエンドクレジットを見ながら考えていたのは、デニースが救わなかった家族のほうでした。消したはずの初稿にも、別の一家が残っているかもしれない。
その可能性が見えた瞬間、幸福なラストが少し怖くなりました。
それでは。
朝日けけ。
このnoteではエンタメ・ポップカルチャー・テクノロジーについてプロデューサー視点で発信しております。すこしでもこういった話題に興味があれば、ぜひスキ・フォローをよろしくお願いします。
メンバーシップは月980円で、毎週2本以上の限定記事と、過去の記事もぜんぶ読み放題です。1本だけ買うより、ランチ1回ぶんでぜんぶ読めるほうが、ずっとお得です。気になる方は、覗いてみてください。
いいなと思ったら応援しよう!
少しでも心が軽くなったり、新しい視点が役に立ったと感じてもらえたなら、とても嬉しいです。いただいたチップは、記事執筆時のコーヒー代やリサーチの質を高めるために使わせていただきます。あなたの応援が、本当に励みになります。