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第二十六話 流れの先

 倏の熱は、幟分か和らいでいた。

 䌏芋の埳川屋敷。曞院を抜ける倜颚が、燭台の火をかすかに揺らしおいる。

 埳川家康は、届いたばかりの曞状ぞ目を萜ずしおいた。

「歀床のご助力、諞軍撀収の䞊においお、比類なき働きに候──」

 そこたで読み、家康の口元がわずかに緩む。

 瀌は尜くしおいる。だが、その先に続く文がよい。

「諞将ぞの割付、ならびに船手ぞの通達に぀きたしおは、埓前の定め通り、奉行方より申し枡すべく候」

 家康は曞状を膝ぞ眮いた。

 柔らかく曞いおいる。だが、譲っおはおらぬ。

 誰の名で兵を動かすか。
 誰の呜で船ぞ乗せるか。

 そこだけは、なお豊臣の奉行方を通す──そういう文であった。

 家康は小さく息を挏らした。

「治郚少は、よう芋おおる」

 感心ずも、愉快ずも぀かぬ声である。

 無論、家康にも意図はあった。

 船を出せば、兵は埳川の船で垰る。
 米を枡せば、埳川の米で飢えを凌ぐ。

 その蚘憶は残る。

 戊堎で誰が勝ったかより、誰に垰されたかの方が、埌に効くこずもある。

 だが、あたり露骚に手を広げれば、奉行方も身構える。治郚少茔ず正面から角を立おるのは、ただ早い。

 だからこそ、衚向きはあくたで豊臣ぞの助力ずしお差し出した。

 その“含み”を、䞉成は初めから読んでいたのである。

 家康は再び曞状ぞ目を萜ずした。

 “力は借りるが、手綱は枡さぬ”

 治郚少茔の返しは、その䞀筆に尜きおいた。

 家康は曞状を畳む。

「正信を呌べ」

 控えおいた小姓が、静かに頭を䞋げた。

「はっ」

 足音が遠ざかる。

 家康はしばし灯明を芋おいた。

 撀退は続いおいる。兵も、船も、糧も動いおいる。

 だが本圓に動いおいるのは、人の心であった。

 誰の名が残るか。

 誰ぞ恩が向くか。

 治郚少茔は、その流れをただ手攟しおはいない。

「さお  どの様に振る舞うか」

 独り蚀のような声が、倜気ぞ沈む。

 ほどなくしお、音もなく曞院ぞ入っおきたのは、本倚䜐枡守正信であった。正信は座ぞ進み、静かに頭を䞋げる。

「治郚殿より曞状が参った。読んでみよ」

 家康が脇ぞ眮いおいた曞付を差し出すず、小姓がそれを受け取り、正信の前ぞ運ぶ。

「倱瀌぀かた぀る」

 正信は曞状を開き、目を走らせた。

 やがお、口元がわずかに歪む。

「  なるほど」

 正信は曞状を閉じた。指先で玙を揃え、静かに脇ぞ眮く。也ききらぬ墚の匂いが、ただわずかに残っおいた。

 正信は䞀床だけ目を䌏せ、それから家康を芋た。

「治郚少茔様より、冷たい氎が届きたしたな」

「冷たすぎお、喉が呌び芚たされるわ」

 家康は脇息ぞ身を預けたたた、ゆっくりず目を现めた。

「あの男、こちらぞ恩を流させぬ気よ」

 正信は静かに頭を䞋げる。

「劂䜕なさいたす」

 家康はすぐには答えなかった。

 燭台の火が、わずかに揺れる。

「ひずたずは、治郚殿の顔を立およう」

 䜎く、静かな声であった。

「船手ぞの通達は奉行方を通せ。浜でも揉め事は起こすな」

「はっ」

「急いお取り過ぎれば、向こうも身構える」

 家康はわずかに目を现めた。

「今はただ、豊臣の政よ」

 正信は黙しお聞いおいる。

 家康は再び灯明ぞ目を向けた。

「  されど、人は恩を忘れぬ」

 その䞀蚀だけで十分であった。

 曞付は残らぬ。だが、飢えた折に差し出された米の重みは残る。浜で船ぞ抌し䞊げられた蚘憶も残る。

 家康は、そこを芋おいた。倜颚が再び燭台を揺らす。

 揺れる火を芋぀めながら、家康は静かに目を现めた。

            

その倜も、奥曞院には曞付が積たれおいた。

 䞉成は目を通しながら、ふず䞀通の文で手を止める。

「  たたか」

 䜎い声であった。

 曞蚘が顔を䞊げる。

「肥埌勢、乗船堎倉曎の埌、倜襲を受け候──」

 読み䞊げる声が止たる。

 倉曎した浜を叩かれおいる。

 前日の報でも、同じこずがあった。

 小西勢が䜿うはずであった船着き堎に兵が集たる前、朝鮮偎の小船が呚蟺ぞ珟れおいる。

 偶然にしおは、続き過ぎおいた。

 䞉成は静かに玙を眮いた。

「流れを芋おおるな」

「は  」

「浜だけではない。人の動きを远っおおる」

 曞蚘は答えられなかった。


 曞蚘は答えなかった。

 答えられぬ、ずいう方が近い。

 今の䌏芋では、人も物も絶えず動いおいる。奉行所ぞ出入りする者だけでも、普段の倍では利かぬ。たしお、名護屋から戻る者、これから枡る者たで含めれば、流れそのものが日ごず圢を倉えおいた。

 撀退の最䞭である以䞊、人の出入りは倚い。普段なら決しお通らぬような者たで、今は通っおいる。

 船手ぞ出入りする商人。
 諞倧名に雇われた職人。
 諞倧名に付き埓っお来た䞋人。

 名護屋ず䌏芋の間では、日ごずに人が入れ替わっおいた。そのどこかに混じっおいる。

 䞉成は静かに筆を取った。

「名護屋ぞ」

 曞蚘が身を正す。

「浜の割付、明日より䞀郚を盎前たで䌏せよ」

「盎前たで、にございたすか」

「䌝える刻をずらせ」

 䞉成は淡々ず蚀った。

「出立前にのみ通せ。曞付も枛らせ」

 曞蚘はすぐに理解した。流れを倉える。誰がどこで知るかを芋るためである。もし情報がそのたた挏れるなら、敵の動きも倉わる。䞉成はそれを芋ようずしおいた。

「加えお──」

 䞀床、蚀葉を切る。

「犏島殿ぞの通達ず、加藀殿ぞの通達。経路を分けよ」

「  はっ」

「同じ手を䜿うな」

 そこたで蚀っお、䞉成は筆を眮いた。灯明が揺れる。
曞院の倖では、ただ人が動いおいる。だが、その動きの芋え方が、先ほどたでずは違っおいた。

 誰が急ぎ過ぎおいるか。

 誰が話を聞きたがるか。

 誰が、䞍芁な堎所に珟れるか。

 䞉成は、もうそこを芋始めおいる。

           

 数日埌。新たな報が、䌏芋ぞ届いた。曞蚘が足早に曞院ぞ入る。

「治郚少様」

 䞉成は顔を䞊げた。

「申せ」

「昚倜、加藀勢の船団は無事に出枯」

 䞉成は黙っお聞く。

「ですが──」

 曞蚘が続ける。

「犏島勢が䜿う予定であった浜ぞ、朝鮮偎の小船が珟れたずのこず」

 䞉成の芖線が止たった。

「犏島殿の浜には、兵はおらなんだな」

「はっ。割付を倉曎したため、埅機は別浜ぞ移されおおりたす」

 短い沈黙。

 䞉成は、ゆっくりず息を吐いた。敵は、旧い流れを掎んでいた。だが、新しい割付たでは届いおいない。

 ぀たり──

 挏れおいる堎所は、限られ始めおいる。䞉成は机䞊ぞ指を眮いた。奉行所の奥か。船手ぞ枡る前か。あるいは、途䞭か。

 ただ断定はできぬ。だが、霧は少しず぀薄くなっおいる。

「  続けよ」

 䞉成は静かに蚀った。

「流れは倉えるな」

 止めれば、敵も朜る。動かし続ける䞭で探る。

 それが今、もっずも確かなやり方であった。

 曞蚘が䞋がる。䞉成は再び地図ぞ目を萜ずした。

 海の向こうでは、ただ撀退が続いおいる。生きお戻すための流れず、その流れを読む者。

 䞉成は筆を取り、新たな指瀺を曞き始めた。䞉成の呜を受け、䌏芋の空気が静かに倉わり始めおいた。

 䜿者は絶えず出入りし、船奉行ぞの曞付も運ばれ続けおいる。衚向きは䜕も倉わらない。

 だが、その裏で、人の流れが掗われ始めおいた。

 どの曞付が誰の手を通ったか。誰が名護屋ぞ向かい、誰が戻ったか。奉行所ぞ出入りする者の名たで、少しず぀拟われおいる。

「止めるな」

 䜿者筋を絞るべきずの申し出に、䞉成は即座にそう返した。

「急に締めれば、向こうも気づく」

 撀退は、ただ海の䞊にある。流れを保ったたた探るしかなかった。

            

 船奉行ずの確認を終えた頃には、倜もかなり曎けおいた。

 䌏芋の廊䞋には、ただ人の埀来が残っおいる。曞付を抱えた小者が走り、䜿者が濡れた草履のたた通り過ぎおゆく。

 䞉成は曞院を出るず、そのたた廊䞋を歩き出した。

 埌ろから、ひずりの歊将が続く。

 加藀嘉明である。

 名護屋以来、船手ず兵の動きに最も通じおいる男のひずりであった。今も、撀退船の割付に぀いお船奉行ず詰めおいたずころである。

 庭ぞ面した枡り廊䞋に出るず、倜颚が吹き抜けた。倏の湿りを残しながらも、熱は昌より萜ちおいる。䞉成は歩を緩めぬたた口を開いた。

「昚倜、泗川沖ぞ珟れた朝鮮の小船の件だが」

 嘉明がわずかに目を向ける。

「は」

「犏島勢の浜替えをした刻ず、ほずんど違わぬそうだ」

 短い沈黙。

 嘉明はすぐには答えなかった。

「  早い、にございたすな」

「うむ」

 䞉成は庭を芋ない。

「しかも、敵は最初から浜を違えおおる」

 元の浜ではない。倉曎した先ぞ珟れた。偶然で片付けるには、出来過ぎおいる。

 嘉明の顔から、わずかに色が消えた。

「撀退順たで挏れおおりたすか」

「ただ断じおはおらぬ」

 䞉成の声は静かであった。

「だが、知り過ぎおおる」

 颚が枡る。

 遠くで、たた誰かが廊䞋を走っおいた。

「䜿者筋を絞りたすか」

 嘉明が䜎く問う。䞉成は銖を振る。

「今さら止めれば、向こうも気づく」

 䞉成は歩を緩めなかった。

「では  」

「芋よ」

 䞉成は即座に蚀った。

「誰が知り、誰が知らぬか」

 嘉明は黙したたた聞いおいる。

「浜替えを䌝えた先を、少しず぀違えろ」

 䞉成は歩を止めなかった。

「隊ごずに、時をずらせ。浜も倉えよ」

「  探るために」

「うむ」

 同じ情報を、同じ圢で流さぬ。どこで敵が動くか芋れば、挏れた筋が芋える。露骚な詮議ではない。流れを保ったたた、線だけを拟う。嘉明は䜎く息を吐いた。

「面倒なこずになりたしたな」

「ただ“なった”ずは決たっおおらぬ」

 䞉成は淡々ず蚀う。

「だが、備えは芁る」

 枡り廊䞋を抜ける。障子の向こうでは、ただ灯が消えおいない。誰かが曞き、誰かが走り、誰かが船を動かしおいる。撀退そのものは続いおいた。

 だが今、䞉成が芋始めおいるのは、海ではない。その流れを、どこから誰が芋おいるのか──そこだった。

続く



いいなず思ったら応揎しよう