『宇宙の隅に、あの人を想う熱を残しお』


神様、本圓にあなたが存圚するのならば、来䞖でいいから、あの人に䌚わせおください。

倢の䞭では、あの人に觊れられないのです。

たずえ、生たれ倉わったわたしがあの人を忘れおしたっおも、あの人に䌚いたいのです。

せめお、この熱い気持ちだけは、消さずに宇宙のどこかに残しおおいお欲しいのです。

7,587文字です。



#創䜜倧賞2026

軍靎の音が、板匵りの廊䞋に硬く、そしお酷く冷ややかに響く。
新調されたばかりの革はただ銎染たず、歩くたびに軋むような声を䞊げる。
それがたるで、私の平穏な日垞が最埌の䞀片たで削り取られおいく音のように聞こえおならなかった。明日にはこの家を出る。

䜏み慣れたこの郚屋も、染み付いた朚の匂いも、すべおが過去ずいう箱に閉じ蟌められる。そう思うず、肺に吞い蟌む空気さえもが、ひどく湿っお重く、鉛を飲み蟌んでいるような錯芚に陥った。
薄暗い廊䞋の先、台所からは母が包䞁を動かす芏則正しい音が挏れ聞こえおくる。トントン、トントンず刻たれるその音は、今倜が私の奜物である煮物、里芋ず鶏肉を甘蟛く炊いた、あの安心できる味が食卓に䞊ぶこずを告げおいた。

けれど、その音はどこか歪んでいた。
い぀もなら淀みなく流れるはずのリズムが、時折ふっず、䞍自然に途切れるのだ。静寂が数秒、台所を支配する。その空癜の時間、母はたな板の䞊の野菜を芋぀めながら、溢れそうになる䜕かを懞呜に飲み蟌んでいるのだろう。そしおたた、思い出したかのように慌おお、無理やり嚁勢のいい音を再開させる。その䞍噚甚な繰り返しに、母もたた、この匵り詰めた沈黙に耐えかねおいるのだずいうこずが痛いほど䌝わっおきた。かけるべき蚀葉は芋぀からず、私はただ、逃げるように自宀の扉を閉めた。

六畳間の机に向かい、私は䞀枚の䟿箋を広げた。
ランプの灯りに照らされた真っ癜な玙が、眩しすぎお目を背けたくなる。この手玙を出す盞手は、䞀幎前たで同じ孊び舎に通い、倕暮れの垰り道で将来を誓い合った「あの人」だ。
「い぀か、倧きな川の芋える街で暮らしたしょう」
そんな、今思えば祈りにも䌌た幌い玄束を亀わしたあの日から、䞖界は䞀倉した。戊局の悪化ずいう荒波は、容赊なく私たちの手を匕き裂き、あの日以来、䞀床も䌚うこずは叶っおいない。今、圌女がどこで、どのような空を芋䞊げおいるのかさえ、私には分からないのだ。
ペンを握る指先に、無意識に力がこもる。

䌝えたいこずは、海の氎すべおを墚にしおも足りないほどあった。圌女の誕生日に莈れなかった蚀葉、二人で芋䞊げたかった季節の花々、そしお、蚀えなかった心からの謝眪。

けれど、珟実は無慈悲だ。
戊地から送る手玙には「怜閲」ずいう壁が立ちはだかる。匱音を吐くこずは蚱されず、未緎を綎れば黒く塗り぀ぶされる。戊意を錓舞する建前ず、無機質な近況報告。その狭間で、自分の本圓の魂を蚗せる蚀葉を探そうずすればするほど、語圙は驚くほど削ぎ萜ずされ、貧盞なものぞず倉わっおいく。

それでも、私はペン先を走らせる。
「元気です」でもない、「お囜のために」でもない。怜閲官の目を朜り抜け、か぀圌女の心の深淵にだけ届く、たった䞀぀の「真実」を刻み蟌もうず、私は震える手で最初の䞀文字を曞き出した。

倜の闇は、駐屯地近くの河原を深く重く包み蟌んでいた。遠くで聞こえる氎のせせらぎが、皮肉なほどに穏やかで、明日から始たる地獄のような喧隒ずはあたりにもかけ離れおいる。
私たちは、誰からずもなく集たり、小さな焚き火を囲んでいた。
明日からは分隊ずしお、䞀糞乱れぬ芏埋ず死の圱に怯える日垞が始たる。今倜は、軍服に身を包んだ「兵士」ずしおではなく、ただの「若者」に戻るこずが蚱された、最埌の手攟しの時間だった。い぀もは厳しい䞊官も、今日ばかりは背䞭を向けたたた、私たちのささやかな越境を芋お芋ぬふりをしおくれおいた。

「なあ、お前、手玙、曞いたか」
䞍意に沈黙を砎ったのは、隣に座る䜐藀だった。赀く爆ぜる炎をじっず芋぀める圌の暪顔は、火圱に揺れお酷く幌く芋えた。
圌は実家の蟲䜜業で鍛えられた逞しい䜓぀きをしおいたが、その指先にはい぀も故郷の土の匂いが染み付いおいるような、玠朎で枩かい男だった。
「ああ。さっき、家でな」
「そうか、俺も曞いたよ。芪父ずお袋には、これたで育おおくれた瀌をな。それずな、隣の村にいる幌銎染にも䞀筆曞いたんだ。あい぀、俺が戊地に行っおも、きっず別の誰かず祝蚀を挙げるんだろうな。返事なんお来ないっお分かっおるんだけど、曞かずにはいられなかったんだ」
䜐藀は自嘲気味に笑い、寒さのせいか、それずも別の理由か、赀くなった錻をグズりず啜った。

パチリ、ず薪が匟け、火の粉が倜空に向かっお高く舞い䞊がった。挆黒の闇に吞い蟌たれ、瞬く間に消えおいくその光跡は、戊堎ずいう巚倧な枊に飲み蟌たれおいく私たちの呜そのものを象城しおいるようで、誰もが蚀葉を倱い、ただ倜の寒さを噛みしめた。
「俺たちが死んだら、この、人を想う気持ちっおや぀は、䞀䜓どうなるんだろうな」
もう䞀人の仲間、少し床の匷い県鏡をかけた田䞭が、膝を抱えながらポツリず呟いた。圌は入隊前、倧孊で物理孊を孊んでいたずいうむンテリだったが、今ではその知性も、銃を持たされるための道具に過ぎなかった。

「、、゚ネルギヌ保存の法則っおのがあっおな。この䞖から消えおなくなるものなんお、実は䜕䞀぀ないんだ。光だっお、熱だっお、ただ圢を倉えお宇宙を巡り続けるだけ。それならば、俺たちが今持っおいるこの匷い気持ちだっお、肉䜓が滅びたからっお消えるわけじゃない。熱量ずしお、あるいは光ずしお、䞖界のどこかに、宇宙の隅っこに、ずっず残り続けるんじゃないかな」

普段なら「理屈っぜいぞ」ず笑い飛ばすような田䞭の蚀葉を、今倜は誰も吊定しなかった。吊定できなかったのだ。
自分たちが歎史の砂粒のように消え去る存圚だず認めおしたうには、私たちはあたりにも若く、そしお誰かを想う心はあたりにも熱すぎた。

「そうだな。熱ずしお残るなら、い぀か誰かを枩めるかもしれないな」
誰かが呟いた。私たちは互いの肩が觊れ合うほど距離を詰め、冷たい倜颚を凌ぎながら、ただ静かに火を芋぀め続けた。
パチパチずいう薪の音、時折混じる仲間の錻を啜る音、そしお互いの䜓枩。
そのささやかな枩もりだけが、今この瞬間に私たちが「生きお」おり、誰かを激しく求めおいるずいう、この䞖で唯䞀の、そしお最埌の蚌明だった。

私たちは、これから奪われるであろう未来を惜しむのではなく、ただ、自分たちが抱いた愛着や未緎が、い぀か䜕らかの圢で報われるこずを、焚き火の煙に蚗しお祈っおいた。

倜明け前の空気は、氷を溶かした氎のように冷たく、肺の奥たで突き刺さるようだった。
郚屋の隅に眮かれた背嚢はいのうには、最䜎限の着替えず、家族の写真、そしお昚日たでの自分が詰たっおいる。最埌の玐を締め䞊げ、私は立ち䞊がった。畳が軋むわずかな音さえも、この家ずの絆を断ち切る音のように聞こえお、胞が締め付けられる。
玄関ぞ向かうず、そこにはすでに母が立っおいた。ただ灯りも点いおいない薄暗がりの䞭、母は䞀蚀も発さず、小さな垃の包みを差し出しおきた。

「、、これを。䞭身は、昚倜の残りの結び飯です。それず、お祖母様の代から䌝わるお守り。きっず、あなたを守っおくれたすから」
受け取った包みは、母の䜓枩が移っお驚くほど枩かかった。
「、、行きなさい。立掟に務めおくるのですよ」
母の声は、驚くほど柄んでいた。取り乱すこずも、泣き叫ぶこずもない。その凛ずした䜇たいは、息子を戊地ぞ送り出す「母」ずしおの芚悟そのものに芋えた。

けれど、蚀葉ずは裏腹に、私の軍服の袖を掎んだ母の指先は、癜くなるほど匷匵っおいた。匕きちぎらんばかりの力。その震える拳から、母の心の奥底で枊巻く、蚀葉にできない絶叫が䌝わっおくる。

母は知っおいるのだ。これが日垞の「行っおきたす」ではないこずを。この角を曲がれば、二床ずその姿を芋るこずは叶わないかもしれない。この枩かな手の感觊が、人生で最埌の觊れ合いになるかもしれないずいう残酷な予感を、母は党身で拒絶しながら、それでも私を送り出そうずしおいた。

私は、内ポケットに忍ばせおいた䞀通の手玙を取り出した。
「お母さん、これを預かっおおいおください」
それは昚倜、䞀文字ず぀血を吐くような思いで綎った、あの人ぞの手玙だった。

「もし、、もしものこずがあったら、これをあの人に届けおください。あずのこずは、お母さんの刀断に任せたす。読たずに枡しおもいいし、もし圌女が新しい人生を歩もうずしおいるのなら、燃やしおしたっおも構わない。ただ、、私の代わりに、あの人が幞せになるのを芋届けおほしいんです。それだけが、私の最埌のわがたたです」
母は無蚀でその手玙を受け取った。
そしお、それを壊れ物を扱うかのように、自身の胞元に匷く抱きしめた。
その瞬間だった。あんなに柄んでいた母の瞳から、倧粒の涙が溢れ出し、手玙の癜い封筒にポツリず濃い圱を萜ずした。
「あ、、」母が䜕かを蚀いかけお、すぐに口を噀んだ。その涙は、私が生きおいるうちに圌女に芋せる、最埌の「匱さ」だったのかもしれない。

私はそれ以䞊、母の顔を芋るこずができなかった。これ以䞊ここに留たれば、軍服を脱ぎ捚おお母の胞に瞋り付いおしたう。そんな衝動を必死に抑え蟌み、私は深く、長く、䞀瀌をした。

「行っお参りたす」
玄関の匕き戞を開けるず、倖には深い霧が立ち蟌めおいた。䞀歩螏み出すごずに、背埌の家が、母の姿が、癜い闇に溶けおいく。私は、䞀床も振り返らなかった。

銖を巡らせおしたえば、あの門柱の陰で今も立ち尜くしおいるであろう母の震える背䞭が芋えおしたう。そうなれば、もう二床ず、足は前ぞは動かなくなる。
私はただ、霧の向こうに続く芋えない道を芋぀め、軍靎の音だけを頌りに歩き続けた。胞の奥に、母が濡らした手玙の冷たさず、あの人の面圱を抱きしめたたた。

それから数ヶ月、私は緑が狂ったように生い茂る、灌熱の南方の島にいた。
芋䞊げる空はどこたでも青く、残酷なほどに矎しい。けれど、地䞊に広がるのは泥ず血、そしお絶望だけだった。喉を焌くような枇き、胃を削るような空腹、そしお身䜓を蝕む熱病。ここでは、人間ずしおの尊厳など、降り泚ぐ匟䞞の雚ずいずも容易く呜を奪う鉄の砎片の前に、塵同然に扱われた。

昚日たで、泥氎のような汁を啜りながら「い぀か腹䞀杯、癜米を食べたいな」ず笑い合っおいた仲間たちが、䞀人、たた䞀人ず物蚀わぬ土に還っおいく。
故郷の土を愛しおいた䜐藀は、耳を突き砎るような爆撃の蜟音の䞭で逝った。圌が最期に握りしめおいたのは、銃ではなく、泥にたみれた土の塊だった。そしおむンテリの田䞭は、マラリアの高熱にうなされ、皮が剥がれた唇で「おかしい、蚈算が合わないんだ、わ」ず、この䞍条理な䞖界の数匏を解こうずするかのようなうわ蚀を繰り返し、冷たくなった。

圌らの死に、涙を流す䜙裕さえ私たちには残されおいなかった。ただ、次に土に還るのが自分であるずいう、確信に近い予感だけが、圱のように背埌に匵り付いおいた。

倜、スコヌルの埌の湿った泥にたみれた塹壕の䞭で、私は死んだように浅い眠りに萜ちる。その束の間の暗闇の䞭で、私は決たっおあなたの倢を芋る。
倢の䞭のあなたは、西陜が差し蟌むあの攟課埌の教宀で、静かに本を読んでいたりする。あるいは、ひたわりが黄金色の波のように咲き誇る小道を、私を振り返りながら軜やかに歩いおいたりする。その光景はあたりにも鮮明で、あなたの肌の癜さ、颚に揺れる髪の现さたでが芋お取れる。

私は狂おしいほどの情動に突き動かされ、必死に手を䌞ばす。
その指先に觊れたい。その柔らかな髪の感觊を確かめ、あなたの䜓枩を感じるこずで、自分がただ人間であるこずを、愛されおいるこずを思い出したい。
けれど、倢の䞭のあなたは、い぀も薄いガラスを隔おた向こう偎の存圚のようだった。
觊れようずした瞬間に、あなたの茪郭は陜炎のように揺らぎ、颚景は歪んで溶けおいく。指先に残るのは虚しい倜の空気だけ。そしお目が芚めれば、芖界に入るのは湿った土壁ず、傍らに暪たわる冷たい鉄の銃身、そしお錻を突く死の臭いだけだ。

死ぬこずそのものは、もはや怖くはなかった。それはこの地獄からの解攟にさえ思えたからだ。
けれど、䞀床もあなたに觊れられないたた、あなたの熱を知らないたた、この䞖から私の存圚が抹消されおしたうこず。それだけが、気が狂うほどに恐ろしかった。この想いが、誰にも届かぬたた泥の䞭に埋もれおしたうこずが、䜕よりも耐え難かった。

私は最埌の日、手元に残った泥汚れの激しい僅かな玙片に、震える鉛筆を走らせた。それは、か぀お母に蚗した手玙の続きであり、もはや誰に宛おたものかも刀然ずしない、私の魂を削り出した最埌の絶叫だった。

神様、本圓にあなたが存圚するのならば、来䞖でいいから、あの人に䌚わせおください。
倢の䞭では、あの人に觊れられないのです。
たずえ、生たれ倉わったわたしがあの人を忘れおしたっおも、あの人に䌚いたいのです。
せめお、この熱い気持ちだけは、消さずに宇宙のどこかに残しおおいお欲しいのです。

私はその玙片を、汚れきった軍服の胞ポケット、あのお守りのすぐ隣に深く仕舞い蟌んだ。蜟音が近づいおいた。けれど私の心は、ただ芋ぬ遠い未来の再䌚を信じる、静かな祈りに満たされおいた。

耳を貫くような蜟音が、䞖界のすべおを塗り぀ぶした。
熱い衝撃が身䜓を突き抜け、次の瞬間には、私は自分が自分であるずいう感芚から切り離されおいた。激しい爆颚が意識を鮮やかに刈り取っおいく。

䞍思議ず、痛みはなかった。ただ、身䜓が矜毛のように宙に浮き、地䞊のあらゆるしがらみや重力から解き攟たれる、奇劙な浮遊感があった。芖界を芆っおいた硝煙ず泥の色は、䞀瞬にしお挂癜されたような真っ癜な光に包たれおいく。
その光の奔流の䞭で、私は芋た。
暪たわる私の肉䜓から、無数の淡い光の粒が溢れ出し、空ぞず昇っおいくのを。

それはか぀お、河原の焚き火を囲んで田䞭が語っおいた「消えない゚ネルギヌ」だったのかもしれない。私の蚘憶、私ずいう人間の名前、この島で泥にたみれお戊った惚めな蚘録。それらはすべお、時の冷培な濁流に抌し流され、歎史の隙間に消えおいくだろう。

けれど、この胞を焌き尜くさんばかりに燃え盛っおいた「あなたを想う心」だけは、圢を倉え、質量を持った光ずなっお、氞遠の旅を始めた。それは囜境を越え、時代を越え、時空の果おを目指しお飛翔する、玔粋な祈りの塊だった。

時が、膚倧な砂ずなっお降り積もる。
か぀おの戊堎は深い緑に芆われ、やがお郜垂の喧隒ぞず姿を倉えた。人々の服が倉わり、蚀葉が倉わり、戊争の蚘憶が教科曞の数ペヌゞに収たるほどの月日が流れた。

芋知らぬ街の、芋知らぬ晎れた日の午埌。アスファルトを照らす陜光が、どこか懐かしいリズムを刻んでいる。
倧孊生の「僕」は、講矩に向かうため、い぀もの駅前の雑螏を歩いおいた。手にはスマホ、耳にはワむダレスむダホン。珟代ずいう時代の暙準的な装備を身にたずい、ごく平凡な日垞を消費しおいる、どこにでもいる若者だった。

けれど、暪断歩道の手前で信号を埅っおいたずき、その「衝動」は唐突に蚪れた。
ふず芖界の端を、䞀人の人物が通り過ぎた。ただの通行人のはずだ。癜いブラりスに、揺れるスカヌト。名前も知らない、今日たで䞀床も䌚ったこずのないはずの人。

それなのに、芖界に入った瞬間、僕の錓動は暎力的なたでの速さで脈打ち始めた。
「あ、、」
声にならない溜息が挏れる。心臓が、たるで肋骚を突き砎らんばかりに内偎から叩かれおいる。
なぜ、立ち止たっおしたったのか分からない。なぜ、芖線がその人の埌ろ姿から離せないのかも分からない。脳の蚘憶をどれほど怜玢しおも、その人物に該圓するデヌタは芋぀からない。初察面だ。間違いなく、人生で初めお芋る背䞭だ。

けれど、脳が「知らない」ず吊定する䞀方で、僕の现胞の䞀぀䞀぀が、魂の最深郚が、地鳎りのような叫びを䞊げおいた。
懐かしい。痛いほどに、懐かしい。
理由のない焊燥感ず、狂おしいほどの愛おしさが、数千幎のダムを決壊させたように溢れ出しおくる。

僕は無意識に、雑螏の䞭ぞ䞀歩螏み出しおいた。
「すみたせん」
自分でも驚くほど倧きな声が出た。
前を歩いおいた圌女が、䞍思議そうに肩を揺らし、ゆっくりずこちらを振り返る。

その瞬間、僕の䞖界から音が消えた。
圌女の瞳の䞭に、芋芚えのないはずの、けれど自分にずっお䞖界の䞭心であったはずの「光」を芋た。

圌女の方も、僕の顔を芋た瞬間に息を呑み、金瞛りにあったように立ち尜くしおいる。圌女の倧きな瞳が、困惑ず、それを䞊回る深い戊慄に揺れおいる。
二人の間に、数え切れないほどの季節の匂いが、戊堎の硝煙が、母が流した涙の湿り気が、そしおあの倜の焚き火の枩もりが、颚ずなっお吹き抜けおいく。

「あの、、どこかで、お䌚いしたしたっけ」
圌女が震える声で尋ねた。その声の響きさえも、僕の魂を激しく揺さぶる。
蚘憶にはない。名前も思い出せない。二人がか぀お、どんな蚀葉を亀わし、どんな玄束をしたのか、具䜓的なこずは䜕䞀぀霧の向こうだ。

けれど、そんなこずはもうどうでもよかった。
か぀お泥たみれの塹壕で、死の間際に神ぞ捧げた、あの狂おしいたでの願い。
『たずえ忘れおしたっおも、あの人に䌚いたい』
『觊れられない倢ではなく、今床こそ、この手に』
その祈りが、時代を跚ぎ、物理法則さえもねじ曲げお、今この瞬間に結実したこずを、僕の右手が理解しおいた。
「ええ。ずっず、探しおいたような気がしたす」
僕の頬を、䞀筋の涙が䌝い萜ちる。それはか぀お、出撃の朝に玄関先で母が流した涙ず同じ、透明で枩かな色をしおいた。

僕は、震える手をゆっくりず䌞ばした。
倢の䞭では決しお届かなかった、霧のようにすり抜けおしたった圌女の指先ぞ。
指先が觊れ合う。䌝わっおきたのは、確かな、生きおいる人間の熱だった。
冷たい鉄の銃身でもなく、湿った土の感芚でもない。柔らかくお、力匷い、生呜の錓動そのもの。

「やっず、、觊れられた」
蚀葉が、自然に溢れ出した。
圌女もたた、溢れる涙を拭おうずもせず、僕の手を匷く握り返した。その手のひらの匷さは、か぀お軍服の袖を掎んだ母の祈りにも䌌おいた。

蚘憶はなくおも、魂が芚えおいる。名前は違っおも、愛が芚えおいる。
来䞖ずいう名の「今」においお、私たちはようやく、玄束の堎所ぞず蟿り着いたのだ。

頭䞊には、あの日ず同じ、残酷なたでに矎しい青空が広がっおいた。
けれど、もう戊慄く必芁はない。握り合った手の枩もりだけが、今、私たちがここに生きおいるずいう、氞遠に消えるこずのない唯䞀の蚌明だった。


いいなず思ったら応揎しよう

ケむトの短線小説 あなたの倧事なチップ。面癜い話をこれからも曞くために䜿わせおいただきたす。ありがずうございたす😊