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土の中に潜る魚

2026年6月、夏至の近づく頃に、ブルキナファソの北西部に位置する、マリとの国境の都市ヌナへ旅行した。そこからさらに、ケメナという村へ向かう途中のことだった。バイクで広々とした原っぱのような場所を通り過ぎざまに、マブドゥが「ここは雨季になったら大きな池になって、魚がいっぱい捕れるんだよ」と言った。今年も雨季に入ってはいるが、ほとんど雨が降らず、原っぱは乾き切っている。ここに大きな池が出現するなど、想像し難かった。「乾季には魚たちはどこにいるの?」と訊くと「土の中に潜っているのさ。よく知っている人が近づいて見ると、独特の穴が見つかるんだけど、その奥に潜っている」

へぇーっ!いったいどれほど深く潜り、どうやって長い乾季を生き抜くのか、生物ってつくづく凄いものだなと驚くばかりである。
そこでふと思い出したのが「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」という言い回しだった。皆さんは聞いたことがおありだろうか?

私がこれを初めて聞いたのは5年前、ブルキナファソへ来てようやく1年半が過ぎようとする頃。元JICAで働き、その後ブルキナファソで事業を始めた人の口から出た言葉だった。その界隈、つまり、国際開発協力事業関係者の間でよく遣われている言い回しのようだった。その時は、ずいぶん「上から目線」な言い方だなぁと感じただけで、さほど気にも留めなかった。

初めてヌナへ旅行したのもちょうどその頃だったが、今回は計6回目になる。ヌナは私の仕事仲間の(私がブルキナファソで制作したオペラの主演歌手で、共同作曲家でもある)マブドゥの故郷で、私のオペラのバンドのメンバーはほとんどがその地方の出身だ。だから、マブドゥの末弟が亡くなった時、メンバーのお母さんが亡くなった時にも弔問に訪れた。しかし、2022年頃からテロリストたちが頻繁にこの地方の村々を襲撃し、また、ワガドゥグからデドゥグ経由で来るバスを襲って乗客を殺害する事件も多発した。そのためバスの運航は停止され、行き来が非常に難しくなってしまった。近頃は政府軍の健闘で国全体で多くの地域が奪回され、このバスの運航も再開され、ようやくまた旅行できるようになった。

ヌナの家々には大抵、6〜7メートル程のかなり深い井戸が掘られているが、乾季には汲めるほどの水は溜まっていないので、もっと深く掘られている井戸まで汲みに行かなければならない。乾季と雨季の繰り返しの気候、そのリズムで変化する生活というものに馴染みのない私には、先ほどの魚の話もそうだが、驚く事が多い。

考えてみると、その土地の魚の釣り方をよく知っているのは、当然現地の人々のほうだろうに、日本からやってきて、そもそも農耕も、採集も、釣りの経験も乏しい協力隊やJICAの若い職員が「魚の釣り方を教える」とあえて言うからには、それは比喩に違いない。ではいったい何の比喩で、どうして他のものではなく「魚」を引き合いに出すのだろう?

一般的に魚は飼育するものというより、天然に「在る」ものというイメージだから、それを「釣る」というのは、苦労して何かを育てることの比喩ではなさそうだ。私はなぜ、この表現が国際開発協力界隈で好まれたのかに、次第に興味を持ち始めた。

正直に言うと、ちょっと引っかかる感覚もあった。そもそも、現代日本人の私が「釣る」と聞いて連想するのは、フィッシング詐欺や釣り広告、SNSの釣りタイトルなどでもあるから。


今回のヌナ旅行の目的は弔問ではなかった。8日間の旅程で、最初はケメナという村に、その後はスォンという別の村に滞在し、最後の数日だけ、日本で言うところの県庁所在地であるヌナの、マブドゥの実家に滞在した。

皆さんはアフリカでも最も貧しいと言われるサヘル地域に位置するブルキナファソの、そのまた田舎の人々の日常生活をどのように想像されるだろうか?驚かれるかもしれないが、それは私の目にはまさに「社交中心生活」、ヴィクトリア朝の上流階級も、ある意味こんな感じの生活だったかと想像させるものなのである。ヌナ滞在中にヴィクトリア朝のロンドンに思いを馳せるというのはなかなか皮肉で、自分でも思わずクスッと笑ってしまった。

(実は「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」をネット検索したところ、1885年に出版されたアン・イザベラ・サッカレー・リッチーの『Mrs. Dymond』が確認できる一番古い、この言い回しの出典だとしている資料に行き着いたのだった。だとすると、この言い回しは、19世紀イギリスの慈善思想の中から出てきた可能性が高いようだ。元は英語だったというわけだ!)

村では、朝起きると、まず、たっぷりの砂糖を入れた紅茶が振る舞われる。それに添えられるのは、うっすら甘い揚げ菓子である。戸外でのゆったりとした朝食が済むと、数人で連れ立って、挨拶回りに出かける。特定の1〜2軒ではない。村のあちこちを巡り、道ですれ違う一人一人とも、いちいち握手を交わし、長い挨拶口上のやりとりをする。相手の健康について尋ね、家族の様子を尋ね、仕事が順調かどうか尋ね、相手のために神のご加護を祈る…それを互いにやってお礼を言い合うのだから、かなりの時間がかかる。子どもにもちゃんと挨拶する。赤ん坊ですら、握手のために手を差し出す!よその家の庭に入って行っては、家族の一人一人と挨拶を交わし、そうすると「どうぞ座っていってください」と言われることもままあり、そうなると腰掛けてひとしきり世間話をしてから立ち去る。これほど優雅な時間の使い方は、今まで訪れた数多くの国々でも経験したことがない。
私たちは訪問客だから、当然この挨拶回りは欠かせないわけだけれども、住人同士にしても普段からこのような習慣がある。

ケメナへは、フェティッシュにお参りするために訪れた。「フェティッシュ(fetish)」を体験していない人に説明するのはかなり困難だ。私自身、何度もその場に居合わせて、おぼろげに概要を掴んでいっている途中である。あえて説明するならば、西アフリカの伝統宗教で用いられる、霊的な力を宿すと考えられる物や場所を指す言葉だ。木像や石、仮面、護符、祭壇なども含まれるらしい。ただし、この語はもともとヨーロッパ人が現地の信仰を外部から分類するために用いた言葉であり、「伝統宗教の祭具」「霊的な依り代(よりしろ)」「神聖なオブジェ」などと説明する方が、実態に近いかもしれない。これらは単なる偶像ではなく、祖先や精霊との関係を保ち、共同体の安全や豊穣、病気の治癒、裁きの場などで重要な役割を果たしている。フェティッシュは「呪物崇拝」と訳されることがあるが、実際には物そのものを拝むというより、その物を介して精霊や祖先、自然界の力と関わるという考え方に基づいている。
(このような場での録画録音は固く禁じられている。以前、隠し録音を試みたフランスの友人のiPhobeは直後に壊れてしまった。)

私の訪れたフェティッシュは、ケメナのグリオ(伝統芸能を継承する家系で、マブドゥも、バンドのメンバーも皆グリオである)にとって最大の、3箇所の呪物だ。3月には毎年、これら3箇所で大規模な犠牲の儀式が催される。今年は私も参加して、ワガドゥグで始める新しいプロジェクトの加護をお願いするために、各所で鶏2羽ずつを捧げて祈った。満願成就の際には、あらかじめ約束しておいた犠牲動物を持参して御礼参りをするルールだ。

今回はまだ、その段階ではない。プロジェクトはやっとスタートを切ることができた。地味でありながら、表には見えないところで着実に根を張る、将来性のあるプロジェクトに育ちそうな手応えを、私は感じている。そこで途中で一度お礼と、さらなる加護を祈るためにお参りしたいと思ったのだ。

地元の深い信仰に関わる行事を重んじ、参加することはとても大切だと私は思っている。とはいえ、今まではすべてマブドゥに代行してもらってきていて、自分自身で犠牲を捧げるのは、この3月が初めてだった。3月には3日間ぶっ続けで犠牲の儀式が行われ、無数の人々が願い事をしに訪れていた。今回は、私単独である。それでも14人の男性が儀式に奉仕してくれた。3月の大掛かりな儀式の時とほぼ変わらない人数である。そしてこの人々は、私から報酬を受け取るわけではない。私が今回捧げた3羽の鶏を、各儀式の直後に焼いて、皆で分け合って食べるのみである。つまり、これは純粋な儀式であって、商売ではないのだ。このために皆、それぞれの仕事や用事を差し置いて、来てくれている。

スォンへの訪問は、この時期行われる、村々で仮面の祭りに参加するためだった。各地の仮面祭りが一堂に会する、いわゆるフェスティバルというものも大都市で開かれるが、私の訪れたのは伝統的な、スォン村での仮面祭りだ。そして今年はマブドゥの長男のウセーニーが仮面を纏ってデビューする。

このスォンという村は、ヌナからたった7キロしか離れていないが、数年前にテロリストに占拠され、村人たちは大切な家畜をテロリストに差し出し、わずかな家財道具を携えて村を後にせねばならなかった。その後、政府軍の奮闘でテロリストが追い出され、去年あたりから村人たちが徐々に戻って来たらしい。昨年、戻った少人数で仮面の祭りを再開したという。今回は多くの村人たちが戻って来て、本格的な再開となった。

これは特筆に値する。村人たちが戻ったとはいえ、学校は未だに閉校されたままだし、送電も停止されたまま復旧していない。そんな状況でも、祭りを再開することは彼らにとって大切なのだ。

仮面とは、前日までに手作りで用意される、特殊な木の枝を編んで作ったもので、衣装は当日早朝に摘みたての薬草で作られる。仮面の祭りも、やはりフェティッシュへの雨乞いと、豊穣を祈る儀式である。だから日程もその年の雨の状況によるわけで、直前まで発表されない。

スォンでの歓迎ぶりは実に暖かなものだった。先ほど説明したような朝食が済んだと思ったら、村外れにある家から、また、紅茶のたっぷり入ったポットと揚げ菓子が差し入れられる。訪問先で夕食が振る舞われ、お腹いっぱいになってホストファミリーの家に戻ると、そこでも夕食が準備されていて、そこへまた別の人から魚のシチューが届けられる、といった具合だ。供されたものにまったく手を付けないのは失礼に当たるので、ひと口でもいいから食べるようにマブドゥから言われていた。食事だけではない。事あるごとにお酒を奢ってくれようとし、果てには「村に来てくれて、本当に嬉しいから」と言って、飼っている鶏までプレゼントしてくれたりする。数キロの穀物までいただいてしまった!

考えてみれば、ここは被災地である。こんなにしてもらって良いのだろうか!?

夜、皆が寝静まってから、つらつらと、いろいろな事に想いを馳せる。「魚の釣り方を教える」が、ヴィクトリア朝の慈善思想から出てきたらしいということについて、よく考えてみたかったのだ。

そこでそもそも、「慈善」という日本人にはあまり馴染みのない概念と、現在の国際開発協力事業がどう繋がっているのかをちょっと整理してみることにした。

1. 古代・中世の慈善 ――「施しは善である」

慈善(charity)の語源はラテン語の caritas で、神への愛、隣人への愛を意味するという。キリスト教世界では、飢えた人に食べ物を与え、病人を看護し、孤児を保護し、巡礼者を泊めること自体が、宗教的な善行とされた。この時代は、なぜ貧しいのかを考えるより、単に困っている人を助けることが神の御心として重視された。つまり、「魚を与える」ことはまったく問題ではない。むしろ与えるべきなのだ。


2. 宗教改革以後 ―― 貧困への視線が変わる

16世紀以降、特にプロテスタント圏では、勤勉、自助、節制が重視されるようになり、徐々に「 なぜこの人は貧しいのか」が問われ始める。ここで初めて、貧困を個人の行動や生活態度と結びつけて考える傾向が強まる。


3. 18〜19世紀 ―― 慈善から「改良」へ

産業革命の影響で、都市に貧民が大量流入する。ロンドンやマンチェスターでは、スラムが形成され、従来の教会の施しでは対応できなくなる。そこで登場するのが、「慈善は依存を生むのではないか」という議論だった。例えば、毎日パンを配れば、その人は永遠にパンを待つだけになる。それなら、仕事を得られるようにした方が良いのではないか。
ここでcharity(施し)から self-help(自助)へ重心が移動する。


4. サミュエル・スマイルズの『自助論』

1859年、『Self-Help』が出版され、ベストセラーとなる。明治時代には中村正直が『西国立志編』として翻訳し、福沢諭吉の『学問のすゝめ』と並んで、「立身出世思想」の形成に大きな影響を与えた。この本の中心思想は「成功は努力によって得られる」である。今日の感覚では当たり前に聞こえるかもしれないが、当時としては画期的だったようだ。そしてこの思想こそ、後の『Mrs. Dymond』の”Teach a man to fish”とかなり親和的だ。

5. ヴィクトリア朝の慈善事業

1885年の『Mrs. Dymond』が書かれた頃。当時の慈善活動家たちは、単なる施しよりも、職業訓練、教育、節約指導、家庭管理指導を重視するようになる。つまり、「貧しい人を助ける」ではなく、「貧しい人を改良する」方向へ向かう。

(ここまで来て、私が心の奥底で感じている違和感に触れた気がした。Teach a man to fish は「生きる技術を教える」の比喩のようだが、単純にそう納得してよいのだろうか?

日本語で考えてみると「釣る」に近い表現として「狩る」も候補になり得る。「狩る」「罠を仕掛る」「釣る」はそれぞれ異なるが、「釣る」は「狩る」より「罠を仕掛ける」に近い面がある。狩猟のイメージは「自分が獲物を追う」。追跡し、接近し、仕留める。つまり、主体が積極的に動く。一方で釣りは「餌を置いて待つ」。魚の側が自発的に近づいてくることが前提になっている。だから構造的には「罠を仕掛けて獲物が引っかかるのを待つ」に近い。

この違いは言語表現にも表れていて、日本語で「客を狩る」とは言わず、「客を釣る」と言う。客は追いかけて捕まえるものではなく、広告や宣伝で来てもらうようにするものだからだ。つまり「釣る」には相手の欲望を利用してこちらへ誘導するというニュアンスがある。

社会活動においてそれは、農耕よりも商業、生産よりも流通、職人技よりも起業家精神に近いのではないか。

そうなると少し皮肉めいているが、開発援助で言われる Teach a man to fish を現代の市場経済的な感覚で読み直すと、自然の恵み(本物の魚)を得る技術というより、チャンスを見つけ、人を引き寄せ、利益、すなわちお金を得る技術という響きを帯びてくる。

そして、この読み替えが可能だからこそ、この言い回しは19世紀の慈善思想から21世紀の起業支援まで、驚くほど長く生き残ったのかもしれない。

「釣る」という表現と、市場経済への参加、マーケティング、ブランディングなどの概念との結び付きもおもしろい。現代の市場で成功するために重要なのは、必ずしも「良い物を作る」だけではない。むしろ人を引き寄せる能力が重要になる。広告もブランドも、ある意味では「餌」である。構造としては、相手に見つけてもらうのではなく、相手が食いつくように仕掛ける、ということではないだろうか。)

6. 植民地主義との結合

この時代は大英帝国の最盛期だった。イギリス人は、植民地にしたアフリカ、インド、東南アジアの人々に対しても、我々が文明を教えるという態度をとった。これを後世の研究者はCivilizing Mission(文明化の使命)と呼ぶ。

7. 戦後の「開発援助」へ

第二次世界大戦後、表向き、植民地支配は終わる。しかし考え方の一部は残った。今度は文明化ではなく、「開発」という言葉になる。すると、19世紀の自助、教育、能力形成という思想が、国際援助へ流れ込む。そこで「魚を与えるな、釣り方を教えよ」が理想的な標語になった。

こうして辿ってみると(これは私なりの論理構築に過ぎないが)、私が感じている違和感は、慈善事業はいつから、「 困っている人を助ける」ことより、「困っている人を変える」ことに関心を持つようになったのかという点だと気づいた。
その転換点は、まさに19世紀イギリスにあるのではないだろうか。

ホストファミリーがテラスに用意してくれた寝床で、蚊帳を通して満天の星空を眺めながら、こんなことを考え続けていると、不思議な気がしてくる。

日本人としての私は、本来ここへは来られない建前だ。外務省はこのあたりを未だにリスクレベル4、つまり最も危険なエリアとし、地図上では真っ赤に塗っている。諸外国政府も似たような認識だ。ブルキナファソ政府は、現在は外国人の旅行は可能だと言っているから、実際に私が旅行する際にはどの検問所でも全く咎められたりしない。バスでデドゥグからヌナへのわずか1時間ほどの走行区間に5箇所の検問所があるが、任務に当たる兵士たちは私と、私のパスポートを見ると一様にニッコリして、親しげな笑顔を見せてくれる。

危険情報というのは「旅行の判断材料」として作られるが、その社会的・経済的な波及効果は非常に大きいということが、しばしば指摘される。
例えば、観光客が来なくなる、ボランティアが撤退する、NGOが保険の条件などから活動を縮小、民間企業が投資を見送る、などという連鎖が起こり得る。ワガドゥグでは、ブルキナファソの地図が未だに真ん中だけオレンジ、後は真っ赤に塗られている事を、「事実と異なる」「これには何かの意図がある」と悲しげに首を振りながら話す人々を見かける。
でも、スォンの人々が異邦人の訪れをこんなに喜んでくれるのは、素朴な気持ちからなのだと感じる。村人のほとんどは農耕をしていて、自給自足に近い暮らしだ。自分たちの食糧を育て、たくさん穫れた分は売るという。毎年雨が降るのを当然だとは思っていないから、丁寧に雨乞いの儀式を行うし、村にはRain Masterと呼ばれる人が2人いて、彼らが雨を操るのだともいわれる。

3日目の朝、美味しい揚げ菓子ですっかりお腹がいっぱいになったマブドゥと私は、木陰の肘掛け椅子でくつろぎながら、お喋りしていた。
数年前に、村の英雄的存在で、テロリストとの戦いに奉仕するボランティア兵たちを手厚くサポートしていた猟の名手が、村の中心部のトイレに入ったところを、どこからか現れた銃を持ったテロリストグループに襲われ、トイレの壁を飛び越えて逃げ回り、村中を追い回され、遂には射殺された事件があったという。どこの村でもそうらしいが、村の中にテロリストグループとの内通者がいるから、このようなことが起こってしまう。
3〜4年前にこんな事件があったというなら、リスクレベルが高く設定されているのも無理はないのかもしれない。

なぜ村人たちがマブドゥにこの話をしたのかというと、前夜、村の広場で、私たちの大阪・関西万博でのオペラ公演のビデオ上映会をしたことがきっかけだった。マブドゥのラップトップの小さな画面に多くの人が熱心に見入って、オペラを鑑賞した。その後、オペラの中のシーンが、あまりにも現実に酷似している、と言って村人がその事件をマブドゥに話したそうだ。

そこへ2人の「紳士」が連れ立ってやってきて、私たちに声を掛けた。「ここにいらしたんですね!今朝は我が家へお見えにならないから、もしかしたらもうヌナへ帰られたのかと思いましたが、探しに来てみたのです」それは失礼しました、では早速お言葉に甘えてお宅へ伺いましょう!ということになって、一緒に村の反対側へ向かった。

ところが道半ばでまた別の人々にばったり会って「ドロ(地酒)をご馳走したい」と言われ、地酒の店で歓談するうちに、早くも仮面たちがやって来た。紳士の家を訪問する時間はなくなり、そのまま仮面たちに付いてあちこちを巡り歩く。当の紳士たちもマブドゥも、代わる代わる太鼓を手に取って「お囃子』に参加する。

時々、女たちがバケツに汲んだ水を仮面の一人一人に、勢いよくザーッと投げかける。すると、濡れた薬草から清々しい香りがプーンと漂って、汗まみれの私たち見物人たちも一瞬癒される。私は500セーファーフランのお札を何枚か畳んで握りしめており、時折仮面の一人や、太鼓打ち、笛奏者などにご祝儀として差し出す。

巡行のほぼ最後の場所で仮面たちが踊る間、私は少し脇の方で立って見ていた。すると、ある男性が自分の座っているすぐ前の地面を空けてくれて、そこへ座れと合図を送ってくれた。有り難く座らせてもらい、踊りを見ていると、背後でその男性が、まだ立ったままでいるマブドゥに話しかけていた。

後で聞くと、彼こそがRain Masterのひとりだった。
「今夜、雨が降るらしいよ。実は Rain Master たちは村人たちと諍いがあって、ずっと気分を損ねていたらしい。だけど今日和解が成立したんだって。だから今夜、雨は降る!」これがマブドゥがその男性から聞いた話だった。

祭りが果て、夕方、いただいた穀物や鶏を携えてヌナへ戻った。予告の通り雨が降り、一気に涼しくなった。

雨上がりの庭で、肘掛け椅子に身を預け、風の感触を楽しみつつ、またひとしきり思いを巡らせた。
『Mrs Dymond』の作者は『虚栄の市』で知られるウィリアム・サッカレーの娘で、ヴァージニア・ウルフの伯母に当たる。彼女が見ていたのは、大都会ロンドンの貧民たちだったのではないだろうか。
土地としっかり結びついた村の暮らしを垣間見てきたばかりの私の心中で、「豊かさ」「貧しさ」についての考えが大きく揺らいでいた。イギリスでも、土地としっかり結びついた人々こそが、大英帝国の贅沢な富と暮らしの、そもそもの土台を築いたのではなかったのか?その後、三角貿易が始まった。しかしイギリスが最も儲けたのは、奴隷そのものよりも、奴隷労働によって生産された商品の加工・流通・金融だった。そして、産業革命の時代へ…。植民地経営だけだったら、イギリスは世界一にはなれなかっただろう。本当に巨大な富を生んだのは、蒸気機関、紡績機、製鉄、鉄道、造船などだった。植民地から安い原料を仕入れ、工場で大量生産し、世界中へ売る。これが帝国経済の中心だった。
サッカレー家もこの流れの中にいた。アン・イザベラの祖父は東インド会社の高級官僚だったという。

イギリスの産業革命は、しばしば「技術革新による成功譚」として語られる。しかし実際には、その急速な経済成長は、多くの農民が土地を失い、都市で過酷な労働を強いられるという大きな社会変動の上に成り立っていた。ロンドンやマンチェスターの繁栄は、工場主や発明家だけが築いたものではなく、故郷を離れざるを得なかった無数の人々の労働によって支えられていたという側面も忘れてはならない。

今回、全旅程に付き添ってサポートをしてくれたマブドゥの実弟アンドレは、私たちがワガドゥグへ戻るのと同時に、ボランティア兵の任務地に戻って行った。このために休暇を取って駆けつけてきてくれていたのだ。前日にアンドレは、大枚をはたいてロバの心臓を買ってきてくれた。この1週間の行程を私がすべて楽しんだことが、あんまり嬉しかったから、何かせずにはいられないと言っていたそうだ。実家の女性たちが調理してくれて、大勢で美味しくいただいた。

今、あらためてこの紀行文を書きながら、胸に熱いものがこみ上げる。外務省が危険としている地方へ旅行したことを咎める人々もいるだろうと承知している。けれども、そこへ行かなければ決して知ることのなかった現地の様子を、少しでも多くの日本の方々にシェアしたいというのが、私の正直な心情だ。ヴィクトリア朝ロンドンで生まれたらしい「魚を与えるのではなく、魚の釣り方を教えよ」を、国際開発協力事業の文脈で今も遣う人々にとって、この拙文が今一度その意味を吟味するきっかけになってくれれば嬉しい。


後記: ワガドゥグから戻って3日目の6月26日、フランスとの国交断絶のニュースを聞いた。これに関してここで論じるつもりはない。が、この旅で私が会った人々の姿を思い返すと、その就任以来、私が現地で見聞きしてきたトラオレ現大統領の政策は、少なくとも19世紀イギリスが歩んだような繁栄の道を理想とするものではないように、私には感じられる。





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