身体は環境を覚えている
子どもの頃、知り合いのお宅にお邪魔すると、
祖母や母から
「ちゃんと、おかこまりをしてご挨拶なさい」
と言われたものでした。
「おかこまり」とは、正座のこと。
おそらく「畏まる」から来た言葉なのでしょう。
うっかり膝を崩していると、
「ほら、おかこまり」と注意されました。
いま思えば、座り方まで教えられていたのです。
けれども、それは
単に行儀作法を教えられていた
というだけではなかったように思います。
人の家に上がること、
相手の前に座ること、
挨拶をすること。
その一連の振る舞いを、身体ごと覚えていたのでしょう。
住まいが変われば、身体も変わります。
畳の部屋がない家も珍しくなくなり、
椅子に座ることが当たり前になりました。
正座をする機会もずいぶん少なくなりました。
私自身、以前から正座はあまり得意ではありません。
伝統的な日本家屋で人と並んで正座すると、
なぜか私だけ座高が高く、
頭一つ飛び出していて、
格好の悪い思いをしたこともあります。
そもそも人間の座り方は、じつに多様です。
あぐらをかいたり、
片膝を立てたり、足を横に流したり。
アジアのさまざまな座法は、
古い絵画や仏像の姿にも残されています。
正座もまた、
はじめから日本人の身体に
備わっていたわけではありません。
暮らしや制度、
作法の変化のなかで広まり、
身体に馴染んでいったものです。
そう考えると、「身体の文化」が見えてきます。
文化というと、
文学や音楽、絵画、思想
といったものを思い浮かべがちです。
けれども文化は、
もっと深いところで身体に入り込んでいます。
どう座るか。
どう立ち上がるか。
どのくらい相手との距離を取るか。
物をどう持ち、どう渡すか。
人の前でどのように頭を下げるか。
そうした何気ない所作の一つひとつに、
長い時間をかけて身につけてきた文化があります。
以前、武道の専門家から、
伝統的な芸道を
現代の若い人に教える難しさについて
聞いたことがあります。
かつてなら
日常生活のなかで
自然に身についていた身体の使い方を、
いまでは
稽古の最初から教えなければならないというのです。
畳に座り、立ち上がる。
膝をついたまま身体を動かす。
重心を低く保つ。
昔の人にとって日常だった動作が、
現代の身体には「新しく習う技」になっているのです。
けれども、これは
単に身体能力が失われたという話ではありません。
椅子の生活になれば、
椅子の生活に適した身体がつくられます。
パソコンを使うようになれば、
キーボードやマウスを自在に操る手が育ちます。
スマートフォンが生活に入り込めば、
私たちは小さな画面を指先で滑らせ、
ほとんど意識することなく
情報を呼び出すようになります。
環境が変わるたびに、
人間はその環境に身体を馴染ませ、
新しい所作を身につけてきました。
そして興味深いのは、
いったん身体に馴染んだ所作は、
「習ったもの」であることさえ忘れてしまうことです。
正座も、箸の持ち方も、
キーボードを打つ指も、
スマートフォンを覗き込む姿勢も、
いつの間にか「自分の身体」になっていきます。
だからこそ、
ときどき自分の身体を眺めてみるのも面白いのかもしれません。
私はいま、どんな環境のなかで暮らし、
その環境からどんな所作を身につけつつあるのだろう。
身体は、
過ぎ去った文化を記憶しているだけではありません。
これからやってくる文化もまた、
私たちが気づかないうちに、
身体のなかに書き込まれ始めているのです。
