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並河成資に聞く🎤農林1号が北国を救ったのか🌙千夜一夜物語 第155夜日本語版


北国の田んぼは、豊かさの象徴ではなかった

【ナレーション】

秋になると、新潟、富山、秋田、山形などの
田園は黄金色に染まる。

いまや北陸・東北は、
日本を代表する米どころである。

しかし、昔からそうだったわけではない。

北日本でも米は作られていた。
だが、ひとたび夏の低温や
冷たい風に襲われると、
稲は実らず、収穫は大きく落ち込んだ。

米が取れないことは、
単に食卓から御飯が消えることではない。

農家は収入を失い、借金を抱え、
子どもは弁当を持たずに学校へ行った。

昭和初期の東北では、大凶作によって
欠食児童が増え、娘の身売りまでが
社会問題となった。
(国立国会図書館レファレンス協同データベース)

家族が生き延びるために、
まだ若い娘を奉公先や遊郭へ送り出す。

そんな悲劇が現実に起きていたのである。

では、寒さに苦しむ農村の運命を、
科学の力で変えることはできるのか。

その難題に挑んだ一人の技術者がいた。

新潟県農事試験場で、
水稲「農林1号」を育成した
並河成資である。

今夜は、並河成資本人に
話を聞いてみよう。

※以下のインタビューは、史実をもとに
構成した架空の対話です。

188系統から、たった一つを選ぶ

聞き手

まず、自己紹介をお願いします。

並河成資

並河成資です。

1897年、京都府亀岡の農村に生まれました。
(亀岡市)

新潟県農事試験場で稲の品種改良に携わり、
仲間とともに「農林1号」を育成しました。

私が新潟で試験を始めたころ、
北陸の米は、収量だけでなく、
品質や市場での評価にも課題がありました。

農家が必要としていたのは、
早く実り、たくさん収穫でき、
しかも売れて、おいしく食べられる米でした。

聞き手

なぜ、早く収穫できることが
それほど重要だったのでしょうか。

並河成資

北国では、収穫が遅くなればなるほど、
秋の低温や悪天候に遭う危険が高まります。

寒さに絶対負けない稲を作るというより、
厳しい季節が来る前に実らせる。

早生であることは、
自然との競争で先にゴールすることなのです。

しかも、早く収穫できれば、
端境期に早場米として出荷できます。

農家にとっては、
収穫の安定と収入の確保の両方に
意味がありました。

聞き手

農林1号は、
どのように選ばれたのですか。

並河成資

私たちは、交配地から送られてきた
188系統の稲を、一つずつ育てました。
(農林水産・食品産業技術振興協会)

実る時期、穂の数、籾の状態、
収量、品質、病気、倒れやすさ。

田んぼに立ち、毎日観察し、
翌年に残す稲を選びます。

一つを残すということは、
残りを捨てるということです。

見た目のよい稲でも、
収量が安定しなければ残せない。

たくさん実る稲でも、
品質が悪ければ農家を豊かにできない。

品種改良とは、
優れたものを見つける仕事であると同時に、
可能性の大部分を捨てる仕事でもあります。

収量か、味か

聞き手

収量と味のどちらを優先したのですか。

並河成資

どちらか一方だけでは、
農村を救えません。

収量だけ多くても、
市場で安く買われれば農家は豊かにならない。

味だけよくても、
冷害で実らなければ食べる米がなくなる。

早く実ること。
多く取れること。
品質がよく、おいしいこと。

そのすべてを同時に求めました。

研究室の成績表で一番になる米ではなく、
農家の田んぼで役に立ち、
市場で評価され、食卓で喜ばれる米を
作らなければならないのです。

聞き手

一人で農林1号を作ったのですか。

並河成資

いいえ。

品種改良は、一人の天才が
突然、新しい種を生み出す仕事ではありません。

交配を担当した人、
試験田を管理した人、
稲を観察した人、
各地で試作した農家。

多くの人の仕事がつながって、
初めて一つの品種が生まれます。

農林1号では、
陸羽支場の稲塚権次郎さんが交配に携わり、
新潟農試の鉢蝋清香さんが
圃場管理と選抜の実務を支えてくれました。
(農林水産・食品産業技術振興協会)

農林1号を私一人の作品と呼ぶのは、
正確ではありません。

一粒の種は、貧困を救えるか

聞き手

品種改良によって、
農村の貧困を救うことはできますか。

並河成資

品種一つですべてが解決する、
などとは申しません。

農村の貧困には、土地制度、米価、流通、
借金、税負担など、
さまざまな原因があります。

用水路や肥料、農具、
栽培技術の改良も必要です。

しかし、同じ田んぼから
以前より多くの米が取れ、
冷害を受ける前に収穫できれば、
農家が生き延びる可能性は確実に高まります。

品種改良だけで、
貧困をなくすことはできない。

けれど、品種改良なしに、
貧困から抜け出すことも難しい。

私は、そう考えています。

聞き手

農林1号は、後にコシヒカリの親になります。

さらに、その系統からは
ササニシキなどの重要な品種も生まれました。

そこまで想像していましたか。

並河成資

いいえ。

一つの品種が、
何十年も後の米作りに影響を与えるなど、
予想できるものではありません。

私たちが選んだのは、
目の前の農家に必要な稲です。

しかし、品種の命は不思議なものです。

自分が栽培されなくなった後も、
親として、子や孫の中に長所を残していく。

人間より長く働くこともあるのです。

なぜ、功績はすぐに認められないのか

聞き手

科学者や技術者の功績は、
なぜ生前に評価されないのでしょうか。

並河成資

新品種の価値は、
発表した日に決まるものではありません。

何年も、さまざまな土地で育てられ、
農家が収穫し、市場が買い、
人々が食べて、ようやく分かります。

しかも、世間が覚えるのは
研究者の名前ではなく、品種の名前です。

米が豊かに実れば、
それが当たり前の風景になっていく。

成功した技術ほど、
誰が作ったのか忘れられやすいのかも
しれません。

聞き手

最後に、後世の人へ
伝えたいことはありますか。

並河成資

私の名前を覚えてもらうことより、
凶作のたびに子どもが飢え、
娘が売られるような農村を
二度と作らないことの方が大切です。

一粒の種は小さい。

しかし、その一粒を選ぶ仕事を
何年も積み重ねれば、
村の未来を変えることがある。

研究とは、
まだ会ったことのない人の食卓を
守る仕事なのだと思います。

死後に届いた「ありがとう」

【ナレーション】

ここで、並河成資への
架空のインタビューは終わる。

農林1号は1931年に育成され、
北陸・東北を中心に急速に普及した。

1941年には作付面積が
約17万ヘクタールに達し、
従来より10~20%の増収を
もたらしたとされる。
(農林水産・食品産業技術振興協会)

そして、その真価が広く知られたのは、
敗戦直後の食料危機だった。

1946年から1947年の端境期、
北陸から早く届いた農林1号の米が、
飢えに苦しむ人々を支えたのである。
(農林水産・食品産業技術振興協会)

しかし、その光景を
並河自身が見ることはなかった。

並河は1937年、
農林1号が国民的な評価を得る前に
この世を去っていた。

専門家として一定の評価は受けていたが、
自分の仕事が多くの農家や消費者を救ったと
知ることはできなかった。

1949年、遺族の窮状を知った旧友たちは、
農家に寄付を呼びかけた。

その呼びかけは新聞やラジオで全国に広がり、
農村だけでなく、都会からも浄財が集まった。

集まった金額は、当時の491万円。
(農林水産・食品産業技術振興協会)

人々は、遅すぎた「ありがとう」を、
残された家族へ届けようとしたのである。

1951年には、全国から寄せられた
浄財の一部によって、
新潟に並河の胸像が建てられた。

その除幕式には、並河夫人の希望により、
農林1号の育成を支えた
鉢蝋清香の遺児も招かれた。
(農林水産・食品産業技術振興協会)

農林1号は、
並河一人の英雄物語ではない。

名も残らなかった多くの技術者と農家が、
長い年月をかけて完成させた
共同の仕事だったのである。

農林1号は、北国を救ったのか

農林1号だけが、
北国を米どころに変えたわけではない。

その後の品種改良、土地改良、灌漑、
肥料、農業機械、栽培技術、
そして農家の努力があって、
今日の北陸・東北の米作がある。

それでも農林1号は、
北国の米作の流れを変えた
大きな転換点の一つだった。

早く実り、収量が多く、
品質と食味にも優れた稲。

その子孫にはコシヒカリや
ササニシキなどが連なり、
並河たちの選んだ性質は、
現代の食卓にまで受け継がれている。
(新潟県)

かつて、凶作と貧困に泣いた北国は、
今や日本を代表する米どころとなった。

黄金色の田んぼを見ても、
並河成資の名前を思い浮かべる人は
多くないかもしれない。

しかし、私たちが何気なく口にする
一杯の白い御飯の向こうには、
未来の食卓を守ろうとした人々がいる。

並河成資は、その大恩人の一人である。

彼にとって最大の記念碑は、
銅像ではない。

北国の田んぼに毎年実る稲と、
飢えを知らずに御飯を食べる
人々の姿なのだろう。

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