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どんな空に出会ったか(耳ビジnote部)

母が急逝して1年半になる。

その間のことを、あまり覚えていない。忘れたのではない。記憶が残っていないのだ。

あっという間だった、と人には言う。実際そうだった。ただし、充実していたという意味ではない。時間が経過したのではなく、通過していった。こちらは立っていただけだ。

最近になって、ようやく落ち着いた。

悲しみが消えたわけではない。置き場所が決まった、という感覚が近い。こちらから取りにいくことはできるが、向こうからは来ない。それだけの違いに、1年半かかった。

そして最近、空を見あげるようになった。

以前は見なかった。空は移動の途中にあるもので、目的地ではなかった。いまは、原稿の手が止まると、ふと顔が上がる。探しているものがあるわけではない。

家の中には、痕跡が多すぎる。写真。棚の奥の湯呑み。捨てられずに残した服。目に入るたび、用件を突きつけてくる。思い出せ、悼め、片づけろ。片づけなければ粗末にしているようで、片づければ消しているようで、どちらに転んでも責められる。

空だけが、何も要求しない。

誰が見た空でもなく、誰かがいる場所でもない。無関係だからこそ、見あげていられる。何も背負っていない場所が、頭上にひろがっている。

美しい空でなくていい。むしろ、そのほうがいい。美しいと、また何かを思い出す。

悲しみの底にいるとき、人は空を見ない。見る余裕がないというより、視界に入らない。上を向けるようになったこと自体が、落ち着いたということの証拠なのだろう。

今日も、家を出たところで顔を上げる。曇り空だ。何の変哲もない、記憶にも残らない曇り空である。

今日は、こんな空だったよ。

返事はない。それでも私は、明日もまた、空に出会う。

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尾藤克之(コラムニスト・作家/日本初のClaude実用書出版) 記事が「役に立った」「面白かった」と思っていただけたら、チップで応援いただけると嬉しいです。いただいた応援が、次の記事を書くエネルギーになります。これからも読んでよかったと思える記事をお届けします。