『オデュッセイア』とIMAXについて
今朝、新聞を読んでいると気になる記事があった。
クリストファー・ノーラン監督の新作「オデュッセイア」についてである。
「映画史上初めてIMAXフィルムで全編を撮影した」と書かれていた。
IMAX?
それって映画館の種類のこと?
なんで「映画史上初めて」なんだ?
いろいろと疑問が湧いて、AIに尋ねてみた。
結局、IMAXとは、とんでもなく大きなフィルムを使って撮影する方式なのだ。
映画のフィルムには35mm、70mmなどのサイズがある。数字は基本的にフィルムの幅を表している。
一般的な35mmフィルムに比べると、70mmフィルムは1コマに使える面積がずっと大きい。
さらにIMAXの65mm・15-perfフィルムになると、1コマの面積は35mmの約8.5倍にもなる。
つまり、同じ「フィルム」でも、IMAXは巨大な写真を一枚ずつフィルムに記録しているようなものだ。
ただし、フィルムにはデジタルのような「何K」という解像度はない。
IMAXフィルムをデジタルに換算すると18K級とも言われるが、これはあくまで目安である。
しかもIMAXのフィルムカメラは、とにかく大きくて重く、撮影時の作動音も大きい。
フィルムを高速で送るため、普通の映画用カメラのように静かな場所で会話シーンを撮るのも難しかったという。

それでもノーラン監督はIMAXにこだわり続けてきた。
今回の新作では、さらに改良したカメラを使い、これまで難しかった会話の場面まで含めて、全編をIMAXフィルムで撮影したという。
そこまでして、なぜ映像にこだわるのだろう。
ここから、ちょっと考えてみたくなった。
IMAXフィルムはデジタル換算で18K相当とも言われる。
それを最終的に4Kで上映するなら、「せっかくの情報量を捨ててしまうのでは?」と思ってしまう。
もちろん、18Kの情報がそのまま4Kに残るわけではない。
それでも、大きな原版から4Kに縮小することで、細かなディテールやフィルムの粒子を整理し、より滑らかで質感のある4K映像に仕上げることができる。
つまり、18Kで撮ることは「18Kで見せるため」だけではなく、より質の高い4Kを作るための余裕を持った原版を作ることにも意味がある。
しかし、それでも私は思う。
なぜ、そこまでやるのだろう?
この事実を知ったとき、高校生の頃のある思い出が浮かんだ。
私が高校生の頃、オーディオがブームだった。
かくいう私もオーディオマニアだったが、ラジカセと古いレコードプレーヤーで聴く程度であった。
ある日、友人の家に招かれて行くと、高校生にはもったいないくらいの高級オーディオが、彼の部屋に鎮座していた。
よだれが出るようなシステムだった。
「さぞや高音質な音楽が聴けるだろう」と期待が高まった。
すると彼は、おもむろに歌謡曲のレコードをセットした。
そして自慢げに、
「いい音でしょ」と言った。
私はこのとき、この高級オーディオシステムでレッド・ツェッペリンを聴きたい、という衝動にかられた。
さぞかしボンゾのキックドラムがウーハーから腹に響き、ジミー・ペイジの破壊的なギターサウンドが部屋を満たしてくれただろう。
もちろん、歌謡曲が悪いと言いたいわけではない。
ただ、私には、
「そのオーディオで、それを聴くのか」という思いがあった。
そうなのだ。
ラジカセで聴く、心を打つ音楽。
高級オーディオで聴く、心に何も残らない音楽。
どちらが人の心に残るだろう。
ノーラン監督が最高峰の技術を使って描く映画も、同じことが起こるのではないだろうか。
まだ映画を観ていないので何とも言えない。
しかし、映画の骨格であるストーリーや人間描写が一流であって初めて、高画質という技術が生きてくるのだと思う。
まあ、ノーラン監督なので、駄作は作らないと思うが……。
IMAXフィルムを使う労力は相当なものだろう。
一度NGを出せば、高価なフィルムが湯水のように消えていく。
それでも、さまざまなリスクを引き受けて最高の映像を追求するノーラン監督の姿勢は素晴らしいと思う。
技術を極限まで追求することには、確かに意味がある。
でも、技術はあくまで何かを伝えるためのものだ。
技術とソウル。
その二つのバランスが、結局は一番大切なのではないだろうか。
そして、映画がゆくゆく配信され、スマホで観る人もいるだろう。
それは仕方がない。
ただ、どうか倍速で観るのだけはやめてほしい。
ノーラン監督に代わって、お願いします。
