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「霊性の喪失」はどこから始まったのか— 東方正教会から見えてくるもの

「宗教には興味がない」という方も、少しお付き合い頂ければと思います。
これは宗教の話である前に、私たちが今どんな世界観の中を生きているかという話だからです。


1. 思索の出発点 — 書きながら見えてきたもの

これまでの記事(第2章から第4章)は、「象徴の喪失と魂の回復 」というテーマに沿って書いていました。
実は、第4章で近代の霊的喪失の歴史を見た後は、最終的に、現代人が抱えている魂の危機を如何にして回復していくか、という結論で締めくくろうと思ってました。

しかし、近代及び現代社会の問題について考えていくうちに、「普段疑いもしない"当たり前"は本当に"当たり前"なのか?」
という疑問が湧いてきました。


今までの記事を自分なりに調べてまとめていく中で、個人的に印象深かったのが、古代ギリシャにおける「観照(テオーリア)」という在り方、そしてキリスト教イコンに見られる独特の「霊的リアリズム」でした。
すなわち、

  • 対象を支配したり分析したりするのではなく、ただ深く「観る」こと。

  • 物理的な写実ではなく、霊的な次元のリアリティを表現しようとする試み。

こうした思想や概念は、個人的にも大きな学びや気づきを与えられました。

さらにヨーロッパ文化史を調べ、語るうえでは避けて通れないキリスト教文化についても自分なりに学びを深められたと思っています。

そうした中で、私は次第に、現代日本に生きる私たちが前提としている世界観とは異なる、もう一つの認識のあり方が存在していたことに気づき始めました。


2. 西と東で異なるキリスト教のかたち

東方正教会とは、ギリシャ・ロシア・東欧・中東などに広がる、古代キリスト教の伝統を受け継ぐ教会です。
同じキリスト教文化圏に属しながらも、西と東ではその思想や人間観に少なからぬ違いがありました。

もともと私は、キリスト教のある教えに違和感を持っていました。
それは「人は生まれながらにして罪深い存在である」とする考え方、所謂「原罪論」です。

なぜ人は、生まれた時点で罪を負っているとされるのか。
その前提に、どこか納得しきれないものを感じていました。

調べていく中で分かったのは、この「原罪」の捉え方が、主に4世紀の神学者であるアウグスティヌスによって大きく体系化されたものであり、とりわけ、カトリック、プロテスタントといった西方キリスト教において強い影響力を持ってきたということです。

一方で、東方正教会においては、この「原罪」の理解のあり方が、西方とは異なる角度から捉えられています。東方正教会では、人間は堕落後も「神の似姿」としての本質的な尊厳を失っていません。アダムとエバの「罪そのもの」というよりも、「死すべき性質や腐敗しやすさ、弱さ」が受け継がれたと理解されています。


3. 日本と西欧的世界観

日本においては、明治維新以降、イギリス・ドイツ・フランスといった西欧諸国から多くを学び、近代化を進めてきました。その過程で、法律・教育・社会制度だけでなく、人間観や価値観の面でも、西欧的な枠組みが広く受け入れられてきました。

  • 個人の権利

  • 自己責任

  • 効率と生産性による価値の測定

これらの概念は、西欧近代、そしてその土台にあるプロテスタント的な価値観とのつながりも一因として指摘されることがあります。

日本はこれらを明治以降に急速に取り込み、今や「当たり前」として内面化しています。キリスト教そのものが広く信仰されているわけではない日本においても、その背景にある思想(西方キリスト教を背景に持つ近代西欧思想)は、間接的なかたちで社会の中に浸透していると言えるでしょう。

注目したいのは、西欧では数世紀にわたってゆっくりと起きた変化が、日本ではわずか数十年で圧縮して起きたという点です。それほどの速度で西側の価値観を取り込んだ結果、私たちは何を得て、何を手放してきたのでしょうか。


4. 近代化への違和感ともう一つの視点

近代化によって、私たちは多くの恩恵を受けてきました。

  • 科学や医療の発展

  • 生活水準の向上

  • 自由や権利の拡大

それらは疑いようのない成果です。

しかし同時に、その基盤となった西欧的な価値観、とりわけ合理性や効率性を重視する考え方に対して、

「豊かなはずなのに空虚だ」
「忙しいのに何かが足りない」
「正しく生きているはずなのに意味が感じられない」

そんな感覚を抱いたことはないでしょうか。

数値化できるものが優先され、測定しにくいものは後回しにされる。
意味や内面といった領域が、扱いにくいものとして周縁に押しやられていく。

そうした傾向に対する問い直しとして、私は「東方」の文化や思想を知ることには、少なからぬ意味があると感じています。


5. 東方正教会という手がかり

東方正教会という伝統には、観想、象徴、典礼、沈黙、そして霊的なリアリティといった領域が、単なる過去の遺物としてではなく、現在もなお生きたかたちで受け継がれています。

それは、西欧近代の中で相対的に見えにくくなってきたものを、別のかたちで保持してきた一つの例として捉えることができるかもしれません。


6. このシリーズを書く理由

このシリーズは、宗教の優劣を論じるものではありません。
また、特定の信仰を勧めるものでもありません。

ただ一つの問いを手がかりに進めていきます。

  • 私たちが前提としている西欧的世界観の外側に、別の見方はあり得るのか

  • そしてそこから、見えにくくなっていたものを捉え直すことはできるのか

東方正教会が長い歴史の中で育んできたもの。
イコンの静かな光の中に。沈黙の祈りの中に。典礼の響きの中に。

それが何なのかを、この記事を読んでくださる読者の皆さんと一緒に探っていけたらと思います。

これは宗教の話であると同時に、私たち自身の認識のあり方を問い直す試みでもあります。


冒頭図版出典:聖コンスタンティヌス教会(ギリシャ・クレタ島アヴドゥ)に残る1445年頃のフレスコ画 撮影:C messier(CC0 / Public Domain)


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