正教世界の新たな中心 — ロシアは何を受け継いだのか
第2部「失われたもの、受け継がれたもの」#5
シリーズ:東方正教会から見る霊性の世界観
1. 帝国は滅んだ。しかし正教世界は終わらなかった
1453年、コンスタンティノープルはオスマン帝国によって陥落しました。千年以上続いた東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はここで滅亡し、正教世界は政治的な中心を失います。それは多くの人々にとって、世界が終わったかのような出来事でした。
しかし実際には、正教会そのものが消えた訳ではありません。
前回見たように、アトス山では修道士たちの祈りが続いていました。バルカン半島にも教会は残り、各地で典礼は守られ続けていました。
そしてもう一つ、ビザンツの伝統を受け継ぐことになる国がありました。
それがロシアです。
2. ロシアとビザンツの出会い
ロシアと正教会の関係は、1453年よりもはるか以前に始まっています。
988年、キエフ大公ウラジーミル(ロシア語表記。ウラジミールとも表記される)はキリスト教を受け入れました。
伝承によれば、ウラジーミルが派遣した使節たちは、コンスタンティノープルのハギア・ソフィア大聖堂で典礼を目にし、
「私たちは天にいるのか地にいるのか分からなかった」
と報告したと伝えられています。
この出来事をきっかけに、ロシアはビザンツから正教信仰を受け入れました。
受け継がれたのは、単なる宗教ではありません。
壮麗な教会建築、典礼の美、イコンに表現された神の世界、修道院に息づく祈りの伝統 ——。
それらはすべて、コンスタンティノープルで育まれた精神文化の継承でした。ロシア正教会の源流をたどれば、その先には常にビザンツの首都コンスタンティノープルが見えてきます。
3. モスクワに引き継がれたもの
ビザンツ帝国の滅亡後、後のロシア国家の母体となるモスクワ大公国は急速に力を伸ばしていきます。
モスクワは13世紀以降、モンゴル支配の弱体化に伴って周辺のロシア諸公国を次々と統合していきました。また、地理的にも、キエフより森林地帯の奥に位置しており、防衛や交易の面で有利だったことも、人口や富の集中につながりました。こうしてモスクワは、次第にロシア世界を代表する有力な国家へと成長していったのです。
1472年には、モスクワ大公イヴァン3世が、最後のビザンツ皇帝家の血を引くソフィア・パレオロギナと結婚しました。

この結婚の背後には、ロシアをカトリック側へ引き寄せたいローマ教皇庁の思惑がありました。一方で、モスクワはビザンツ皇帝家との血縁を得ることができます。オスマン帝国による征服を逃れ、西欧へ亡命していたビザンツ貴族たちにとっても、新興のモスクワ大公国との結び付きを得られます。
こうして三者の利害が一致したことで、この政略結婚は実現したのです。
その後モスクワでは、ビザンツ皇帝家の象徴であった双頭の鷲が採用されます。それは単なる紋章の継承ではありませんでした。モスクワの支配者たちは、自らをビザンツ帝国の後継者として意識し始め、その権威を受け継ぐ存在であることを内外に示そうとしたのです。しかし、ロシアが受け継いだのは政治的な権威だけではありません。
イコン、典礼、修道院文化、そして祈りを中心とする生活世界 ——。
ビザンツで育まれた正教会の霊的伝統もまた、ロシアへと受け継がれていったのです。
4. 「第三のローマ」という思想
16世紀初頭、ロシアの修道士フィロフェイは有名な言葉を残します。
「二つのローマは滅びた。第三のローマは立つ。そして第四のローマはない。」
第一のローマは古代ローマ。
第二のローマはコンスタンティノープル。
そして第三のローマがモスクワでした。
この言葉は単なる政治的スローガンではありません。そこには、「正しい信仰を守る使命はモスクワに託された」という宗教的な確信がありました。
帝国が滅びたあとも、自分たちはその伝統を受け継いでいる。
ロシアの人々は、そのように考えたのです。
5. しかし正教世界の中心は一つではなかった
ただし、ここで注意が必要です。
モスクワが「第三のローマ」を名乗ったからといって、正教世界全体がその考えを共有していた訳ではありません。
コンスタンティノープル総主教庁は存続していたし、宗教的権威も維持していた。アトス山も存在していました。ギリシャ、セルビア、ブルガリア、ルーマニアにも正教会はありました。
そもそも東方正教会は、ローマ教皇を頂点とするカトリック教会とは異なり、一人の絶対的指導者を持ちません。そのため正教世界には、ただ一つの中心が存在する訳ではなかったのです。
しかし、モスクワは、人口、領土、軍事力、経済力の面で次第に大きな存在となっていきます。
とりわけ、オスマン帝国支配下に置かれたギリシャ世界とは対照的に、ロシアは独立した正教国家として発展していくようになります。
権威はコンスタンティノープルに残り、実力はモスクワに集まった。
モスクワは、正教世界全体を支配する中心というよりも、ビザンツの伝統を受け継ぐ有力な担い手として、その存在感を高めていったのです。
6. 受け継がれたのは帝国か、それとも祈りか
ロシアは「第三のローマ」を名乗りました。
しかし、それは単に帝国の後継者を名乗るという意味ではありませんでした。ロシアの人々が受け継ごうとしたのは、「自分たちは何者なのか」という歴史意識でした。
コンスタンティノープルが陥落し、ビザンツ帝国が滅んだ後も、正教世界そのものが消えたわけではありません。ロシアの人々は、自分たちこそが正教の伝統を受け継ぐ者であり、その信仰を守る使命を担っていると考えるようになります。
「第三のローマ」という思想には、そのような自覚が込められていました。
帝国は滅びました。
しかし、その精神はさまざまな形で生き続けました。
アトス山は祈りを受け継ぎ、モスクワは歴史と使命を受け継いだ。
ロシアの人々が「第三のローマ」を名乗ったのは、帝国の領土や権力を受け継ぐためではなく、正教世界を支える使命を受け継ぐためだったと言えるでしょう。
冒頭図版出典:ロシア正教会の聖体礼儀(2014年、サンクトペテルブルク神学校)Saint-Petersburg Theological Academy, Flickr
Title: "31 August 2014, Divine Liturgy on the 12th Sunday after Pentecost"
License: CC BY-ND 2.0
▼シリーズ:東方正教会から見る霊性の世界観
第2部「失われたもの、受け継がれたもの」
#1:キリスト教はどこで分かれたのか — 東西教会の分裂とその背景
#2:イコン破壊論争と「中心」をめぐる文明の転換
#3:帝国は滅びても、霊性は残った— 1453年、その後に受け継がれたもの
#4:なぜアトス山では祈りが千年続いているのか— ヘシュカズムという沈黙の実践
#5:正教世界の新たな中心 — ロシアは何を受け継いだのか(本記事)
※以上で第2部は終了です。
