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【掌編小説】 アルプスが見える窓から。

長野県民は、山が見えない東京へ行くと、ヒゲを切られた猫のように途端に方向感覚を失ってしまう。

幼い頃から「アルプス側の人から、プリントを教卓へ持ってきて」といった会話が日常に溶け込んでいた僕にとって、東京はどこか異世界じみたハードボイルド・ワンダーランドだった。

そこで十数年、懸命に働いた。数々の失敗も重ねたが、それなりの成功を収め、美しい妻も得た。しかしある日、ジムのトレッドミルを走り終え、ロッカールームへ向かう途中で突然倒れた。心筋梗塞だった。

世界から唐突に色彩が失われ、家中のブレーカーを一斉に落としたように、僕は暗闇の底へ沈んでいった。それは、それまで思い描いていた死とはまるで違っていた。

生と死の境目に、ドラマチックな物語などない。走馬灯が駆け巡ることもなく、亡くなった父母が迎えに来ることもない。死とはただ、無機質なブラックアウトにすぎないのだと知った。

病院のベッドで目を覚ましたとき、僕は思わず窓の外にアルプスを探した。必死で目を凝らしたが、そこに広がるのは東京の街並みだけだった。溢れ出た涙で、居並ぶ高層ビル群が静かに滲んでいった。

その瞬間、僕は決意した。失われたあの方向感覚を取り戻すために、ふるさとへ戻ろうと。反対されるかと思った妻は、むしろ僕以上に積極的だった。

「余人に代えがたい」と引き留めてくれたCEOも、「リーダーがいなければ……」と途方に暮れていたチームのメンバーも、今では誰一人、連絡をよこさない。スマホの連絡先の中で、僕の名前はすでに「過去帳」というカテゴリーに分類されているのだろう。

生まれ育った、この森の中の限界集落を、僕は村上春樹の作品にちなんで「世界の終わり」と呼んでいる。

父母が亡くなって以来空き家だった実家を整え、イラストレーターである妻のために北向きのアトリエを作った。妻はこの地での暮らしをすっかり気に入り、今では県歌「信濃の国」を六番まで歌い上げる生粋の信州人になっている。


今年も木樵きこりの藤森さんが、軽トラックの荷台いっぱいにブナの丸太を運んできてくれた。身長一九〇センチはあろうかという大男の藤森さんは、二メートルほどの丸太を軽々と持ち上げ、力士が米俵を積み上げるように土場へ放り投げていく。

藤森さんはウッドショックで値上がりした代金を恐縮しながら受け取ると、
「さっそく割るの?」と聞く。
「うん。雨が降る前にね」
「ずくだしてね(頑張ってね)」
と笑い、帰り際に奥さん手作りのおやきをふたつ分けてくれた。

それを妻とひとつずつ、美味しくいただいた。

丸太を木馬に乗せ、チェーンソーで薪ストーブに入る四十センチほどの長さに玉切りし、斧で割っていく。すぱこーん、と澄んだ音が森に気持ちよく響く。音に驚いたのか、三十頭ほどの鹿の群れが地響きを立てて木立の奥へ駆け抜けていった。

素直に割れてくれる木もあれば、手こずる木もある。癖のある木目、ねじれた繊維、渦を巻く瘤。この木が生まれ落ちた環境や育つ過程で、どんなことがあったのだろう。

もし人の心にも年輪があるのだとすれば、僕の心にはどんな模様が刻まれているのだろうか。割った薪を、風通しに気を配りながら棚に綺麗に並べていった。


東京の人には信じられないかもしれないが、長野県民は自宅の標高を知っている。我が家は優に一千メートルを超えており、真夏でも三十度を超えることはない。その代わり冬はマイナス二十度にもなり、ダイヤモンドダストがきらきらと舞う世界になる。

九月も半ばを過ぎると、里では畑に雪が降ったかのように真っ白な蕎麦の花が風に揺れる。「世界の終わり」では晴れた夜になると木立の隙間から透き通った銀河が覗き、気温は十五度ほどまで下がる。

二年ほど乾燥させた薪を棚から二十本ほど抜き取り、ログキャリーに包んで薪ストーブの横へ運んだ。指ほどの太さに割った焚き付けを井桁に組み、火を入れる。細い煙が煙突へと吸い込まれていく。

サイドドアから細めの薪を四本投入すると、乾燥の進んだ木はすぐに鮮やかなオレンジ色の炎を上げた。不思議なことに、二年経った今でも、その薪を割ったときに自分が何を考えていたかを、一本一本の表情とともに思い出すことができる。

どんなに絡み合った繊維も、真っ直ぐな木目も、パチパチと音を立てて燃え上がり、煙となって天へと昇っていく。フロントガラス越しに炎を見つめていると、かつての様々な思いが胸をよぎる。

叶わなかったよこしまな恋は、叶わなくてよかったのだ。自分の存在のあまりの軽さに唇を噛んだ屈辱も、分不相応な思い上がりが打ち砕かれたことも、すべてこれでよかったのだと思える。

時折、庫内の薪が崩れてバサッと大きな音を立て、はっと我に返る。いつの間にか妻が隣に来て、並んで炎を見つめていた。

炎が落ち着き、燃焼室の底に熾火が溜まったのを確認してダンパーを下ろす。触媒が働き、チリチリと音を立てて静かに揺れる炎は、まるで横に広がるオーロラのカーテンのようだ。

もはや昔のことも、これからのことも、心に浮かんでくることは何もない。ただ揺れる炎と、僕と妻がそこにいるだけ。

窓の外にアルプスの輪郭が見える。

「ねえ、頂に雪が積もるのはいつ頃?」
「あと半月もすれば、初冠雪が見られるかもしれないね」

アルプスのシルエットの向こう側に、流れ星がひとつ、綺麗な軌跡を描いて落ちていった。

(了)

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