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野暮だけど、照れるけど、笑いとあれ 現在地について36

お前、正直な話、率直に言って、宮本浩次の現状をどう思う?
人生に対して愛を叫びまくっている彼について、若き日の彼に聞いてみたいものだ。
いや、もちろん同じ人物の連続した時間の流れの中にこの世界はあるわけだから不可能な話だが、新曲 “I love 人生!” が主題歌となっているドラマ『リボーン~最後のヒーロー~』を観ていると、そんな世界線の交錯がもしあったら…なんて空想してしまう。

言葉というものは、まったくもってむずかしい。
100%伝えるには120%必要だし、それでも80%伝わればいい方だろう。伝わる度合いは、費やした言葉の多寡には関係ない。
宮本浩次の歌詞は、というかエレファントカシマシの歌詞は「文学的」と評される。伝えたいことをはっきりと明確な言葉にするのではなく、何気ない日常の描写や、かと思えば難解な熟語や比喩を駆使し、行間から立ち上る唯一無二のニュアンスを透過した光景から、そこはかとなく歌のメッセージが浮かびあがってくる。
これが多くの人にはなかなか伝わらない。アンテナを持つ一部の人にだけ届くようなのだ(ムル説)。

例えて言うなら、「今日の空は青い」にどうリアクションするか?というお題があったとしよう。

今日の空は青いね。

(1)そうだねー

これはまあ普通。

(2)うん、それで? だから?

これもある。

(3)ほんとだ!きれい!

おそらく大多数がここまでに含まれるのではないか。
それが、アンテナがある人は、

(4)なんか、今日はまた格別にきれいじゃない?

と繊細な感受性で空を見上げ、さらに感度が高いと

(5)青すぎて、泣けてくる…。人類が生まれるずっと前から、空は変わらずここにあって、古墳時代と変わらない空が今日もここにあって…!!

と受け取った事象を深めていき、感慨を増幅させる。(アンテナ持ってるみんなー! 空とか、風とか、光とか、月とか、好きだよね?!)

若き日からセールスに苦戦してきた宮本はおそらく、自分の歌が広く響いてはいないと肌で感じていたのだろう。そして方向性を変えた。届けるための届く言葉に。
さらに例えて言うならば、「いつも君のことを考えてしまう」とか「君がそばにいないと寂しい」みたいな歌詞があれば、この人は「君」のことが本当に好きなんだな、と伝わる。ときには「だって僕は君が好きだから」とか「こんなに好きなんだ」と言った文句が明言されることすらある。だが、それをあからさまに言葉にせずに表現しようと挑むのが文学の特性であり、宮本の歌詞が文学的とされる所以でもある。

文学が目指す成果のひとつに、誰にでもわかる言葉で誰にも描けない世界を描けるか、という命題があって、ヒットした楽曲はこれが絶妙にハマっている。“悲しみの果て”、“今宵の月のように” はその好例だろう。具体的な出来事が歌われているわけでもないのに、歌の主人公が何かから立ち直ろうとしているのが、わかる。若さの憂鬱かもしれないし、挫折かもしれないし、失恋かもしれない。平易な言葉だけで歌われているからこそ、聴く人それぞれの解釈を受容してくれる。理由はわからなくても、気持ちが伝わってくる。宮本文学の本領が発揮された名曲たちだ。

翻って、宮本の歌詞を俯瞰して鑑みるに、昔も今も、歌いたいテーマは「しっかり生きていくために、一日ずつを自分らしく生活する」という壮大なもの。このテーマがこれまでの歌詞表現では広く伝わらなかったのなら、伝わる言葉に変えなければいけない。
そうなると、「夢」だの「人生」だの、「愛」だの「思い出」だのといったワードが頻出するのは当然と言えば当然で、必然の成り行きだろうと思う。

青く澄んだ空に向かって歌うよ
今の私の全てをあなたに伝えたいから

“風と私の物語”


だが、もしも若き日の宮本がこの現状を目にしたらどう思うだろう。いい歳をしたロックスターがそんな甘っちょろい言葉でストレートに歌詞を綴るなんてのは、はっきり言って「野暮」だし、「照れくさい」と感じるんじゃないだろうか。


筆者は気づいてしまった。
現在のいわば人生賛歌路線、その嚆矢は “ハレルヤ” だろう。新しい門出にあたって、ソロ初期を代表するこの楽曲で「それ」がはっきり歌われていたことに。それに気づいたのが、この文章を書きたくなったきっかけである。やはり、連続した時間の流れの中で、世界線は続いていた。若き日の宮本が抱くであろう感想を、大人になった宮本も持っていた!

大人になった俺たちゃあ夢なんて口にするも野暮だけど
今だからこそ追いかけられる夢もあるのさ

“ハレルヤ”

「野暮」って言ってる!
俺たちは大人になったんだ、夢なんて口にするのも野暮…。
だよねぇ!

大人になった俺たちゃあ夢なんて口にするも照れるけど
今だからこそめざすべき 明日があるんだぜ

「照れるけど」?!
俺たちは大人になったんだ、夢なんて口にするのも、…照れるよなぁ。
そうだよねぇ!

押し寄せる祝福感の中に見え隠れする本音。
やっぱり、大人になった俺も「野暮」だと思ってるし「照れ」くさいんじゃん!!
そうなんだ、そうだよね!
ということは、それってつまり正直な話、率直に言って、「野暮だけど」「照れるけど」、それを圧してでもなお、新しい方角に舵を向けて歌い続けるぜ!という情熱を歌いたいんだ。その大人の本気が、続くフレーズの「今だからこそ」に籠められていると思うと、この歌の熱さが刺さるのも納得がいく。

please 高鳴る胸をかかえて そんな俺にもう一丁祝福あれ ハレルヤ

please 孤独なheart抱いて 戦う俺にもう一丁輝きあれ ハレルヤ

胸に抱える熱量が、これほどまでに彼に彼を鼓舞させる。
そして、おのれを奮い立たせたい時にエレカシでも歌われてきたあのワードが、ここで現れる。
《勇気》。
明日も、たぶん明後日も、突っ走ってきた過去の俺、勇気を投げてくれよ。

ああ涙ぢゃあなく 勇気とともにあれ

今、ともにあってほしいのは《涙》じゃなく《勇気》。
そしてもうひとつ、《笑い》。

ああ笑いとあれ 幸あれ

これは、あの歌の《笑い》の続きなのかな。
そうであってほしい。

涙のあとには
笑いがあるはずさ

“悲しみの果て”


歌いたいことがもうないってわけじゃない。
いつだって歌いたいし、いつまでだって歌いたい。
歌いたいことがなくなるわけがない。生きてるんだから。
《こんな時代》には《人生への愛》を歌いたい。

強く高くもっと遠くへ 揺るぎない優しさと強さで ああ
届けあなたに私の歌と、そう愛よ

“風と私の物語”


それが野暮なのもわかってるし、照れくさくもある。
でも、言葉の躍動によって聴く人を感動させる、それはまぎれもない文学。


悲しみの果てに、素晴らしい日々がやってきますように!ハレルヤ!




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