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“自由” から “零地点Bomb” へ 現在地について42

先日放送された「あさイチ」はとてもよかった。
すっっっごくよかった!!
冒頭からびっくりの演出、朝なのにこんなに声が出るって流石すぎる!!
笑いあり、ほろりとするエピソードあり、ソロデビュー曲 “はじめての僕デス” でN児団員の中から選出された理由(「そもそも男の子の団員が少なくて、団地に住んでいたから、歌の男の子に合ってたんじゃないか」的なことをおっしゃっていたけど、そうじゃなかった)、職員室の映像への素直な感想、…書き出したらそれだけで1本書けてしまうのでこのあたりにしておくけど、めちゃくちゃよかった!!
放送後にアップされた番組インスタも、とっっってもよかった。日常的な一問一答の随所に人柄が表れていた。なかんずく印象に残った言葉がある。気分の切り替え方を訊かれた宮本が、だいたい2日くらい寝ると忘れる、皿洗いとかやっちゃう、と答えた後にこう言った。

「型があると楽」。


エレファントカシマシはかっこいい。
それは贔屓目を差し引いても紛れもない事実であり、かっこよさにはいろんな要素があるのもまた事実。そのひとつが、自分の中にくすぶる鬱屈を歌詞に閉じ込めることで発散しようとする手癖。それが聴く者の心に刺さる。……いや待てよ、「閉じ込めることで発散する」って矛盾してないか?! でも、あの真っ当に重苦しい熱量は、他に表現が見つからない。
これが重要なアイデンティティーであるのは間違いないけれども、届く人が限定されてしまうこの手法はもうしないのかな…と寂しくもある。

とはいえ、ソロを始めた頃にはすでに十分に人生の時間も蓄積されて、希望や祝福、明日への推進力を歌に込めて広く届けるために歌っている現在地。
それでも、マグマのように煮えたぎるものはあるはずだ。あってほしいって願望もあるかもしれないけど、あるはずだ。でなければ、あれほどの原動力の説明がつかない。そして、そのマグマは時として噴き出したがる。叫ぶボーカリストに戻りたい、ロックをやりたい、という衝動となって表出する。消せども消えぬ、抑えてもたぎるマグマと、届くための歌の作り方との折り合いをつけてきた現状。その折り合いからの脱出をマグマがかき立てる。なぜなら、そりゃあヒット曲が欲しいから。安定してしまった今を突き崩して、本当に目指すものを目指したいから。
奥底では ‘心が笑いたがっている’ になぞらえるなら「心が暴れたがっている」んだ。


となれば、注目したい言葉は《自由》。
デビュー当時から、ずっと歌詞に現れ続けていた言葉だ。

《自由》出現リスト
*詳細は歌詞カードをご参照ください。


こうして並べてみると、明らかに用法が変遷している。
初期の歌詞では、‘俺にゃ必要ないね’、‘自由の幻想’、‘楽して楽して自由を求めてやろうよ’、‘何が自由だ’ とかましながら、‘おれたちゃ自由さ’ と、もう持っているものとして現在形で断言する。それでいて、‘本当の自由取り戻すのさ’ と求めてみせる。

そして目を引くのは、“暮れゆく夕べの空”。1箇所だけ、‘君は夕陽の中自由を求めてさすらってた’ と主語が「君」になる。気になるところだけど、人称の変化は深入りすると沼なので、それよりも日本語と英語、さらには連呼について考えたい。この歌に ‘自由’ と ‘Freedom’ の繰り返しが現れているのだ。
収録されているアルバム『東京の空』は、全体を通して歌詞の繰り返しが多いのが特徴。エコーがかかったような奥行き感のあるサウンドに乗って、言葉が追いかけてくる。つまり、ここでの ‘自由’ ‘Freedom’ は、単純に日本語を英訳して反復してみた、というアルバム全体のサウンドデザインの範疇だった可能性があるんじゃないか。「自分のやりたいことを意識的にはっきりやった第1作」と言い切る宮本の述懐、内省よりも励ましへのベクトル、鳴りを潜める「俺」…。語彙から見てもひとつの岐路と言えるアルバムであることは、頭の隅にメモしておきたい。

そこからポニキャ期では「愛」「金と正義」と並列で現れ、EMI期になると、‘感じるもの’ になった《自由》は、あり余ったり、傷だらけだったり、肌感覚を纏うようになる。
そして、それがある時期から、《自由》は《行き先》になる。
‘行く先は自由’(“いつか見た夢を”)、‘行き先は自由’(“風と共に”)と、外にある行き先へと変わる。

自由を行き先とする語法は “風と共に” の印象が強いけど、実は “いつか見た夢を” ですでに登場していた。手の内で感じるものだった《自由》に距離ができて《行き先》になった。
これは「現在地について15」で考察した、大命題と訣別した時期と重なる。生きる意味を問うのをやめたとき、《自由》という言葉は、彼の手の内から自由になって離れていった。驚くべきことに、宮本がその年齢で止まっていたと語った42歳とも重なっている。この符合は次の機会にゆっくり考察したい。
“風と共に” が収録された『Wake Up』では、その名も “自由” とストレートなタイトルの歌で《自由》は連呼される。予兆から十数年、ついに堰が切れた。この歌は ‘探してる’ をひたすら連呼した末に終わっていくというエレカシではめずらしい作りでもある。

そして『I AM HERO』。新アルバムで《freedom》を連打。
“零地点Bomb” において ‘I am freedom’ が4行連続で現れているが、これは “自由” の ‘自由’ 4連呼と同じ構造で、それが英語だけで起きているように見える。そして “零地点Bomb” で連呼したこの言葉を、“I love 人生!” ではしっかり聴かせている。しかも、人称が違う。叫ぶ方は ‘I am freedom’、聴かせる方は ‘We are freedom’。“暮れゆく夕べの空” での自由2回+Freedom2回、これは日本語と英語の混合反復。ボルテージはそのままに、温度を変えながら繰り返す。つまりどの曲でも、一回ごとに違う freedom を試している。


ずっと求め続けてきた自由。今、自由になれているのか。《freedom》の噴出には、どんな意味があるのか。
宮本は、かっこよくありたいと常に願い、その意志を維持するために、ロックとはこうあるべき、とか、男たるものこうあらねばならない、という姿勢を貫いて歌をつくってきたのだろう。……いや待てよ、それって言ってみれば「型」をつくっていた、ということなんじゃないか。
冒頭の発言を思い出す。そう、型というものは、あると楽なのだ。拠り所になる。自分の色も出せる。でも、それがいつしか自らを縛っていく副作用もあるよね…。

型に自分をしっかりと収めきって格好がついた瞬間、全能感・無敵感がほとばしる。若き宮本が「感じていた」自由の本質はこれだったんじゃないか。だから、悪い奴らを蹴散らして本当の自由を取り戻すのさと吠え、自由なんて俺にゃ必要ない、と嗤う。それくらい型の中は自由で無敵だった。
でも、型が決まりすぎるといわゆる「型にはまる」状態になる。そうなったら破りたくなるのが人のならい。拠り所だった型が、あるとき呪縛に変質する。その瞬間《自由》は型の中から出て、型の外の《行き先》に変わる…。

「こうあるべき」という理想の追求は、自分で自分を型にはめることに他ならなかった。そうか、「安住してしまう」とは、そういう意味なのか。そしてそれを実感するたびに、壊していく。宮本の人生はその繰り返しだったのではないか。いつの間にか型を作り、そこから脱却しようとして型を破壊し、それがまたいつの間にか型になっていく。メビウスの輪の表と裏。2002年の小林からの離反も現状のソロにおける卒業も、根は同じ、型からの脱却だった。前稿で触れた事務所の独立も、この渦の環境面における現象と言えなくもない。40周年という大きな型の移行を控えた今《freedom》を叫ぶ理由のかけらが、このあたりにありそうだ。

ソロとバンドを行き来するメビウスの輪を疾走しながら、型を作っては破壊し、新たな方向性を探り、それが形を成し始めるとまた壊す、という衝動の連続。2025年10月の「俺と、友だち」日本武道館公演でセトリ入りした “明日を行け” の中にその裏付けを見つけた。この歌がここで歌われた意味を。

されどたどりつきゃあ 新たに求めつづけるのが人生のならいなら

“明日を行け”


たとえソロでこれまで鬱積していたマグマを出し切り、彼なりの自由というかりそめの旗を立てたとしても、それは終着点ではなく、次の渇望が始まる起点にすぎない。壊した瞬間には、もう次の型を作り始めている。だから彼は、この営みを破壊とは呼ばず、《更新》と呼ぶのだ。


ソロを始めてから、宮本は英語を多用するようになる。それもソロのみならず、エレカシでも、しかも楽曲タイトルにまで。届くための歌の作り方と折り合いをつける手段のひとつとして、英語を受け入れたのだとしても、ここまでは戦略。戦略が英語を使うことを選んだと言っておこう。
だが、宮本はもともと日本語で押し通すことこそがかっこいい、という美学を強く持っていたはず。日本語、しかも漢語や明治の文豪仕込みの難解な日本語という型に収まりきることの無敵感。それもまた、彼が「感じていた」自由のひとつだったのかもしれない。
そうなると、あの《freedom》の唸りは、その鎧を脱ぎ捨てた音なのか。安住の気配を察知した瞬間、その居心地を自ら爆破せずにいられない本能が、マグマとなって鎧をかなぐり捨てさせたのか。

Technicalじゃねえ 俺の本能 今だからこそ 行くぜ堂々 堂々

“I AM HERO”


暴れたがっていた心を引き受けたのは、英語だった。しかも、“零地点Bomb” で ‘I am freedom’ と叫ぶ男が、同じアルバムの “I love 人生!” の聴かせる場面では ‘We are freedom’ と歌っている。「 I 」の叫びの隣に、もう「We」が待っている。


40周年、宮本はバンドという次の形態へ移行する。
彼にとっての《場所》とは、過去と未来が結ばれる結節点。たどり着いた瞬間、もう次が始まっている、その一点。“Today-胸いっぱいの愛を-” の歌詞も「Today」のことを ‘たどり着いた場所’ って言ってるし、ひとつ前のアルバム『縦横無尽』収録のシングル “shining” でも ‘目指した場所 そして始まりの場所’ って言ってるし。彼はどういう座組でステージに立っているかではなく、心のありようを《場所》と言う。
この《場所》で、宮本浩次は、希求してやまない《自由》を手にできたのか。

《自由》は特定の形態の中だけで成立するんじゃない。形態を渡り歩きながら続く「求めつづける」という運動そのもの。ソロという形態での格闘には時限があっても、自由を求める営みは終わらない。
何度でも立ち上がるし、何度でも生まれ変わる。ソロへの決意を内包した “風と共に” で ‘心よ 自由であれ’ と飛び立たせた心は、“shining” で季節を渡ってゆく。春夏秋冬自由であれ。

宮本浩次は、なぜ今《freedom》を叫ぶのか。
それは、型が壊れかけると、自由が噴き出すから。
“暮れゆく夕べの空” に現れた ‘Freedom’。レコーディング中に契約が切れることが決まっていたというアルバム『東京の空』、つまりEPIC期という型が終わる転機のタイミングで現れている。だがこの時、まだ次のレコード会社は決まっていない。《自由》も、まだ《行き先》ではない。従属できる型を失った宮本の《自由》は、行き先を知らないまま歩き出した。悲しみの果てに何があるかなんて俺は知らない、と。

EPICの契約が切れる時、ソロを決意した時期、そしてロックバンド回帰の実験をしている今。
彼が叫ぶ《自由》とは、型が変わる寸前で噴き上がる咆哮。

宮本にとって《自由》とは、終わらない運動そのものだ。型を作っては壊し、壊しては構築する、ができる環境にあり、自分がその力を持っているかを確認しつつ、これからも繰り返していく覚悟を持っていられるかを確かめたくて、マグマとして噴出させ、型を爆破するためのニュールーティン。

ひとりの人間の余力って、そんなにないのよ。死んじゃったり枯れちゃったりさ。でも俺は60歳を迎える今、その余力がまだまだある気がするのよ。

『音楽と人』2026年8月号


彼が語った、その「気がする」を確かめる儀式が、あの連呼なのではないか。
人生には意味がない、それでも太陽や月を仰ぎ、風を感じながら現在地を確かめ、安住を破壊するために、彼は原点に爆弾を仕掛ける。その導火線の先に止まらせた極彩色の蝶の名は《零地点Bomb》。歌詞の中にも、取り上げたくなる言葉が跳ねている。でも、あの歌はほとばしるままに組み上げられたという。ならば、拾わぬが花。
外から見れば爆破にしか見えないこの性(さが)を、宮本は《更新》と言う。破壊して再生する人生は、言葉を超えてシームレスだ。

40周年、エレファントカシマシを更新する。
どんな新しい型を構築し、マグマはどのように噴出してどうやって爆破していくのだろう。
楽しみです。



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