ショートショート|海辺のセラピールーム
波の音が聞こえている。
砂浜に置かれたビーチチェア、目の前にはコバルトブルーの海が広がっている。穏やかな風が腕をそっと撫でていく。鼻腔はすっかり潮の香りに慣れてしまった。ここでは誰もが心からリラックスすることができる。
心身をリラックスさせるのは、温泉、ヨガ、瞑想など、人によってさまざまだ。男の場合は、「海辺のセラピールーム」だった。ひとりひとりに用意された球体の部屋に映し出される海辺の世界には、バーチャルを超えたリアルがあった。
この空間に1時間ほど身を任せるだけで、疲れた身体も、削られた心もすっかり回復する。男は、初めての無料体験ですっかり気に入ってしまった。
会費はそれなりではあるけれど、酒に溺れたり、おかしな薬に手を出すよりもずっとまともで健康的だ。それにリゾート地に行くことを思えば、むしろ安価すぎるほどだった。
男は会員となって、毎週末に「海辺のセラピールーム」に通いはじめた。こんなに無害で健康的なことはない。そのうち3日に一度は足を運ぶようになり、今では会社帰りに毎日、通っている。
依存してるのかなと思う時もあった。でも、風呂で身体の汚れを落とすように、心の澱を落としているだけのこと。この場所でリラックスできるから、仕事に集中することができる。まるでスポーツジムにでも通うように、今では自然な生活習慣になっていた。
正直なところ、月会費については不満もある。普通なら、継続するほど割引きサービスがありそうなのに、「海辺のセラピールーム」は、それとは逆に継続するほど会費が高くなるシステムだったからだ。
これによって会員が入れ替わることで、より多くの人に知ってほしいからという説明も受けていた。その狙いはよくわかる。割にあわなくなったと思ったら退会すればいいだけのこと。なんの制約もなく、いつでも自由に退会できるのだから。
男は、そう思いながら毎月「海辺のセラピールーム」の料金を支払っていた。かなり高額な月会費になってきたけれど、後悔はなかった。だって、男にとっては、それだけの価値があったし、自分で判断することだから。
ーーーでも、男は知らなかった。スピーカーから流れる、寄せては引く波の音に埋め込まれた極低周波のパルス。人工の潮風に含まれた微妙な成分、太陽が反射する海に仕込まれた肉眼では認識できないレベルでの光の点滅。
それらは意識の門が緩むリラックス状態において、脳の扁桃体をゆさぶり、麻薬と同じように脳を侵食するように仕組まれていた。そして、壊された脳はもう戻らない。一度、この調律を受けいれてしまえば、 この環境がなければ耐え難い欠落感に襲われるようになる。
退会はいつでも自由だ。だが、男が自ら退会する日は決して訪れない。この部屋でリラックスして心を整え、毎日を活き活きと働き続けるのだ。
月会費が納められなくなるまで。
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