元老院と政治の世襲化について
最近、塩野七生の「ローマ人の物語」シリーズを少しずつ読み返している。
改めて思うことは、カエサルの時代、つまり今から2,000年余前と現代とを比べると、科学技術に関しては多少なりとも進歩したようだが、本質的なところでは、人間はあまり賢くなっていないのではないかということである。
特に政治とか社会の仕組みに関しては、2,000年前も今も大差なくて、同じようなことを繰り返しているのではないかとさえ思えてしまう。
古代ローマは、最初は王政であったのが、共和政になり、最終的には帝政となっている。共和政の時代に強大な権力を持っていたのが「元老院」議員たちである。
元老院について概説するならば、定員については時代によって増減があるものの、共和政初期においては300名くらいだったのが、カエサルの時代、つまり共和政後期に900名ほどまで増員された後、カエサルの後継者で初代皇帝となるアウグストゥスの時代になって、元老院の権威回復のために定員を600名まで削減し、以降はだいたい600名程度で推移している。
元老院議員になるには、財務官のような公職のキャリアを積む必要があり、公職に就くためには、数多くの候補者の中から選ばれなければならないので、富・地位・コネ・教育が不可欠となる。そのため貴族階級のような上流支配層の子弟が有利となることから、元老院議員の地位そのものは世襲ではないものの、「元老院議員の家系」の人々が何世代にもわたり政治を支配する傾向が続くことになった。事実上の世襲化である。
今の日本と酷似していると考えるのは、僕だけであろうか。
ただし現代の日本の政治家と異なるのは、元老院議員の職そのものは無報酬であった点である。そもそも社会的に恵まれた階級に所属する人たちであるから、公職に就くのは名誉のためであって報酬のためではないのだ。
「クルスス・ホノルム(ラテン語:Cursus honorum)」という言葉もある。最高位である「執政官(コンスル)」に至るまでの進路のことであり、「名誉のコース」「名誉のキャリア」といった意味である。
ちろん、有形無形の「役得」「利権」はいろいろとあったようである。地方の総督に任命されれば、短期間でひと財産築けるくらいに大きな旨味があったという。目に余るような汚職や不正については、属州民から告発されたようだが、そこまで行かなければ良いのだ。ユリウス・カエサルなどは、天文学的な借金で首が回らない状態だったのが、ガリア総督を務めているうちに、いつの間にやら金回りが良くなっている。
それに、自分自身がわざわざ僻地に出向いてそうした地位に就かなくとも、元老院に任命権がある以上、口利きによる付け届けやキックバック、地縁・血縁等による利益誘導等々、美味しい思いをするチャンスはいくらでもあったに違いない。元老院議員であることの社会的信用や各方面への影響力はとにかく絶大だったのだ。昨年の大河ドラマで扱われていた平安時代の都の上級貴族と地方国司の関係と少し似ているかもしれない。
そういう特権的な立場を何代にもわたって占めていると、一般庶民から隔絶してしまうのは当然である。金銭感覚、生活感、見えている景色等がすべて別世界の住人のようになる。
もちろん世襲ならではの利点もある。支配階層を代々占めていた特定のファミリーに連なるメンバーとその家族という狭いネットワークの中だけで権力が継承されていく構造なので、政治のノウハウや人的ネットワークを引き継ぐのも容易だし、将来のキャリアを見据えつつ若年から訓練されているため、能力が高い人もいる。知名度により政局の安定性に寄与するという点も見逃せない。
もちろん、そうした利点だけではない。
そもそも彼らは、一般庶民とは 社会的・経済的な「前提」が違うのだ。幼少期から支配階層の家系に生まれ、生活に困った経験がない。そうした人間が、庶民の苦しみや悩みを本当に理解し、共感できるかとなると大いに疑問である。
もともと一族の富・地位・コネといったアドバンテージが大きいので、選挙で選ばれるというタテマエはあったとしても、実質的には「世襲による承継」であり、有権者に「信任」してもらうという努力を怠りがちとなる。自身の実績とか政策ではなく、後ろ盾となるファミリーのネームバリューで当選できてしまう。そうなると、「有権者と向き合い続ける努力」より、「既得権益を維持すること」が優先されるのは致し方ないことである。
以上のようなことを紐解いていくと、古代ローマの元老院と昨今の日本の政治は、驚くほど共通点が多いことに気づかされる。
実質的な世襲により長らく権力の座に居座っていると、腐敗し、機能不全に陥るのは当然のことである。烏合の衆と化した元老院による共和政では、領土が拡大し巨大化したローマを維持することはもはや不可能であると見切ったカエサルは、「終身独裁官」として自身に権力を集中することで難局を乗り切ろうと考えた。実質的な帝政のスタートである。
カエサルみたいな優秀な指導者による独裁政治というものは、おそらく究極的に効率が良く、スピード感もあるので、元老院など無用の長物にしてしまうのは容易い。国家存亡の危機においては、ああだこうだと議論しているヒマはない。有事の際には、どこの国にも強力なリーダーが出現する。カエサルしかり、ナポレオンやチャーチルも同様であろう。
民主主義政治というものは、有事の際の機動的な意思決定や、前例のない難局での強力なリーダーシップには不向きである。平均的な能力しか持たないメンバーがあれこれ議論を重ねたところで、革新的な意見が出て来るはずもなく、出て来たとしても合意には至らない。
チャーチルが、「民主主義は最悪の政治形態だ。ただし、これまで試された他のあらゆる政治形態を除けばの話だが」と言ったのは、そういう民主主義政治の限界というものを指摘したものである。民主主義政治においては、愚かな決定を下すこともあるし、多数派が必ずしも正しいとは限らない。また手続きに時間がかかり、非効率的である。さらに言えば、ポピュリズムとか短期的な人気取りに走る危険もある。
それでも他の政治形態よりはマシだと言ったのは、独裁制や君主制、寡頭制と比べると、民主主義は暴走を防ぎやすく、国民の声を反映できる可能性が最も高いこと。そして、民主主義では、少なくとも政権交代や市民の自由があることである。
優秀なリーダーを前提とするならば独裁制も悪くないが、リーダーが愚かならば最悪の結果となる。さらに言えば、優秀なリーダーだって間違うことはあるし、若い頃は優秀であっても、年齢を重ねると馬鹿になることもある。企業においても名経営者と称賛された人が、晩節を汚す事例はいくらでもある。
民主主義政治も、企業のガバナンスも、どちらも性悪説に立っている。権力を集中させると人間は必ず悪いことをするものだという思想である。だから権力を分散し、相互に牽制機能が働くような制度設計となっている。効率性において見劣りするし、何事も時間がかかる。優秀なリーダーの存在を前提としない以上、やむを得ない。
話を元に戻すが、政治の家業化、世襲化が進行している現在の日本の国会議員は(国会議員のみならず、地方議員も同様かもしれないが)、古代ローマの元老院と似たような形で制度疲労を起こしてしまっている。彼ら自体が特権階級として有権者から乖離してしまい、有権者は政治に失望し、無党派層が増えてしまっている。政治がオワコンになっているのだ。
こういう状況において、懸念しないといけないのは、ポピュリズムの台頭であり、独裁者の登場である。ヒトラーもナチスも、武力行使によって無理矢理に政権を奪取したのではない。一般大衆の熱烈な支持を背景とした、合法的な手続きの積み重ねの結果、史上最悪の政権が登場したのだ。すべて当時のドイツ国民の意思によってもたらされたのだ。
今の日本の政治はヒドイものだと思う。でも、もっとヒドイものに取って代わられないように注視しておく必要がある。そういう意味では、これから先の日本の政治動向は大きな意味を持っている。今はそういう重要な時期に来ていると言えるかもしれない。
いいなと思ったら応援しよう!
よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!