「あな」
「穴」は、異世界への入口である。
古代中国人が考えた異次元の世界には、2つのタイプがある。
1つは「仙境型」、1つは「夢幻型」である。
「仙境型」の代表は、桃源郷。
「東洋の理想郷」とされる桃源郷は、俗世から隔絶した架空の平和な農村であるが、もともとは仙境である。
東晋・陶淵明の「桃花源記」では、道に迷った漁夫が洞窟の中に入っていく場面を次のように記している。
山に小さな洞窟があり、中からぼんやりと光が射していた。舟を乗り捨て、洞窟に入ると、はじめは狭かったが、しばらく進むと急にカラリと目の前が開け、広々とした美しい土地が見えた。
トンネルを抜け出た場所に桃源郷があるように読めるが、実は、桃源郷は、山の向こう側ではなく、山の内部に存在している。
洞窟の中に、もう一つの世界、一つの完結した小宇宙が開けている、という発想である。そこには、太陽があり月があり、平野が広がり山々が連なり、風も吹けば雪も降る。
こうした世界を「洞天」という。
東晋・葛洪の『神仙伝』に「壺中天」の話が見える。
壺公という老人が、市場で薬を売っていた。夜、店じまいすると、老人は壺の中にヒョイと入っていった。それを見ていた男が、翌日、老人の案内で、いっしょに壺の中に入った。すると、そこには別天地が広がっていて、仙人の棲む宮殿があった。
小さな壺の口から中に入ると、そこは仙人の棲む別世界であったという話である。
このように、
「小さなものの中により大きなものを呑み込む」
「閉ざされた狭い空間に広大な宇宙を包み込む」
という発想は、中国の古代思想の中にしばしば見られる。
「洞天」や「壺中天」は、そうした発想を典型的に示すものである。
一方、「夢幻型」の代表は、唐代小説「枕中記」である。
邯鄲の宿屋で書生が不遇を嘆いていた。道士から枕を借りてうたた寝をするうちに、夢の中で波瀾万丈の半生を送った。功成り名を遂げ、欲望をすべてかなえて死んだところでハッと目が覚めた。それは宿屋の主人が蒸していた黄粱がまだ煮えぬ間の一瞬の夢だった。
「黄粱一炊の夢」のもとになった小説であるが、ここでも「穴」を通って別世界へ迷い込むというモチーフが使われている。
道士の枕は青緑色の磁器で、両端に穴が空いていた。書生が頭を枕に近づけると、穴がだんだん大きくなり、中が明るくなった。そこで、身体ごとその中に入ると自分の家に着いた。
道士から借りた青磁の枕には「穴」が空いていて、書生はその穴から夢幻の世界へ入り込んでいく。
同じく唐代小説の「南柯太守伝」は、「枕中記」と似通ったプロットの小説である。
男が酔って槐の木陰で寝た。夢の中で槐安国の王女を娶って南柯郡の太守となり、栄華の歳月を過ごした。ふと目覚めると、夕日はまだ沈まず、槐の木の下にアリの巣穴があった。
この話では、男は酔い潰れた木陰のアリの巣穴を通って夢幻の世界へ導かれていく。
「夢幻型」の別世界は、「空間」が枕やアリの巣の中に凝縮されているのと同時に、「時間」もまた、数十年の歳月が数分間、数時間に凝縮されているという「ミニチュアの宇宙」である。
このように、「穴」もしくは「トンネル」を通って異次元の「時空」に到達するという話は、中国のみならず、世界中の文化圏に見られる。
日本の神話では、「黄泉の国」の入口は、出雲の海辺にある暗い岩窟の穴を通っていくとされている。
日本の昔話『おむすびころりん』では、老爺がころがるおむすびを追って、穴に落ちて「ネズミの国」に迎え入れられる。
インドの民間説話では、蓮の茎が現世と地獄を繋ぐパイプとなっているが、蓮の茎は中が空洞でトンネルの形をしている。
ギリシア神話では、冥界(ハデス)は地下に存在し、洞窟・裂け目・地下道などが冥界への入口とされる。
ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』では、少女アリスがウサギの穴に飛び込み、暗いトンネルを落下して「不思議の国」を訪れる。
ジュール・ヴェルヌの『地底旅行』では、 アイスランドの休火山の噴火口を通って、巨大な地下空間に出る。
宮崎駿監督のアニメ『千と千尋の神隠し』では、引っ越しの途中で見かけた古いトンネルを抜けた先に、神々の棲む異次元の世界がある。
ヤマザキマリの漫画『テルマエ・ロマエ』では、古代ローマの浴場設計士が、公衆浴場の排水口に吸い込まれて、現代日本にタイムスリップする。
ハリウッド映画『スターゲイト』や『インターステラ-』では、「ワームホール」(時空の穴)を通って、遠くの惑星や別の銀河系へ瞬間移動する。
などなど、「穴」や「トンネル」が重要な役割を果たす虚構の話は、世界の民間信仰、文学作品、娯楽作品の中で枚挙に暇がない。
余談。
「壺中天」の「壺」は、一般には「ツボ」とされるが、本来はヒョウタンである。
ヒョウタンは「瓠」と書くが、「壺」と「瓠」は発音が同じで通用していたため、両者は混同されるようになった。
ヒョウタンは、「時空を閉じ込める器」というシンボリズムを持っている。一個のヒョウタンが一つの宇宙を呑み込んでいる、という発想である。
もう一つ余談。
川端康成の小説『雪国』も、ある意味で別世界の話なのかもしれない。
冒頭に、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」とある。
主人公の島村にとって、雪国の温泉地は、芸者駒子との美しい情緒の世界、非日常の世界だ。
東京から越後湯沢に行く列車はトンネルを通るわけだが、そのような地理的な必然性だけではない響きをこの言葉は持っているように思う。
