#創作大賞2026 #エッセイ部門 8月1日は「奇跡の日」
私は出身地を訊かれると、いつも困ってしまう。
今でこそ本籍は茨城だけど、
初めて茨城の地を踏んだのは小学4年の春。
当時は茨城弁の壁にぶち当たり、友達作りに苦労した。
還暦を迎える今でも純粋な茨城弁を話すことができず、
「茨城出身」と言うことに違和感を持っている。
しかも両親は山形生まれで、
私は東京の下町生まれでありながら、
すぐに千葉に転居したので、
「東京出身」や「千葉出身」とも言い難い。
似たような境遇の人は全国に大勢いるだろうが、
あの「奇跡の日」を経験したのは、
私一人だけではないだろうか。
「奇跡の日」の話をする前に、
山形で生まれた両親がどのように結ばれ、
なぜ上京することになったのか。
その答えは、いくつもの偶然が折り重なった先にあり、
そして全ては、8月1日の「奇跡の日」へと繋がっていた。
1938年(S13年)4月、父は代々続く農家の家系の長男として生まれ、
当然のように、家業を継ぐ運命を背負っていた。
終戦後、地元の農業高校へ進み、
土と向き合う人生を疑うこともなく歩んでいた父。
一方、1歳年下の弟は農家を継がない道を選び、工業高校を卒業後、
高度経済成長の波に乗って名古屋へと集団就職していった。
やがてまた父も、高校卒業後の農閑期には当然のように、
長野へ出稼ぎに出た。
20歳の冬、千曲川の橋梁工事の現場で父は働いていた――その時だった。
突然の事故。
足を踏み外し、10メートルの足場から転落した。
背中を強く打ちつけ、脊髄に大きな損傷を受けた。
当時、命綱などない時代だった。
「助かったこと自体が奇跡」と言われるほどの大事故だった。
一命は取り留めたものの、医師の宣告は非情だった。
「もう農業ができるカラダではない」
農家の長男としての未来は、その瞬間に断たれた。
長野から山形へ転院し、失意の中で過ごす入院生活。
その病院で、父はひとりの看護師と出会った。
後の、母である。
未来を失った場所で、新たな未来を発見した。
――もしも、千曲川での転落事故がなかったら。
母に出会うことも、私が生まれることもなかった。
退院後、父は職業訓練校の機械科へ進み、ゼロから技術を学んだ。
そして卒業後、まだ定職にも就かないうちに、母にプロポーズをした。
そして母の父親の反対を押し切って、二人は力づくで結婚の道を選んだ。
まだ将来への見通しが立たないのままの見切り発車は、
どこか自分の生き方とも重なる。
農家の長男でありながら家を継がず、
祖父母を山形に残したまま、東京の町工場へ――。
父の胸中は、きっと言葉にできない葛藤に満ちていたに違いない。
そして上京から3年後、1966年(S41年)6月に私が生まれた。
これまでの出来事は、全て翌年8月1日の「奇跡の日」への
序章に過ぎなかった。
――もしも、上京していなかったら。
私は山形で別の人生を歩んでいたかもしれない。
1967年(S42年)8月1日(火)8:30頃
なんの前触れもなく、「奇跡の日」は突然やってきた。
当時、東京都葛飾区亀有のアパートの2階に住んでいた。
私は満1歳の誕生日が過ぎ、ようやく歩き始めていた。
部屋の中を自由に歩き回るのは危ないので、
私は子犬のハーネスのように、浴衣の帯で柱と腰が結ばれていた。
東京でも看護師だった母が出勤前
屋外で洗濯中に「稀有な事故」が発生した。
当時、洗濯機は屋外にあり、
アパート住人達と共用なのは珍しくなかった。
母が洗濯を終えて部屋に戻ると
そこに私の姿はなかった。
浴衣の帯だけが残されていたので、
母は2階の窓から、下を見ると
コンクリートの通路に落ちて、意識不明となった私の姿があった。
母は慌てて、屋外に出てみると、
まるで割れた生卵のように崩れ落ちた頭蓋骨が、右眼を塞いでいた。
母は声も出ないそんな私を咄嗟に抱えて、
近所の亀有の整形外科病院へ走って向かった。
そこへ自転車で帰宅途中の「両津勘吉」ではない
夜勤明けの警察官が通りがかり、
病院へ急患の連絡と搬送を手伝ってくれた。
しかしその病院に担ぎ込まれたものの
そこの外科医は「安静が大事」と言って、手術を拒否した。
母は外科医と口論した末、
一駅隣の金町の総合病院に連絡した。
そこは母の勤務先でもあり、
私が生まれた病院でもあった。
すると、婦長が救急車に乗って迎えに来た。
しかし総合病院に転送されたものの、
そこでも脳外科医の意見は同じで、再び口論となった。
ところが会社から駆け付けた父は
脳外科医からの説明を受けて、
すぐに山形の実家に連絡し、葬儀の準備を始めた。
それでも母は執拗に手術を懇願し、
母の押しに負けた脳外科医は、ダメ元で緊急手術をした。
その事故はラジオの昼のニュースで伝えられ、
翌日の新聞記事にも載ったらしく、
事故を知った両親の友人や同僚が
大挙して病院に見舞いに来たらしい。
頭部を10数針縫い3時間以上にも及ぶ大手術は
奇跡的に成功したものの、
私は40℃以上の高熱が出たため、
氷枕を3つ並べたベッドに寝かされ、
1週間以上意識不明が続いた。
一命は取り留めたものの、
大きな障害が残ると確信した父は
会社を辞める覚悟で、障がい者施設を探し始めた。
しかし私の意識が戻ると順調に回復し、
「奇跡の日」から1ヶ月で無事退院して、
都県境の江戸川を越えた千葉県松戸市の分譲住宅にすぐに移り住んだ。
その分譲住宅は家族3人で暮らすために、
「事故」が発生する直前に、購入していた。
結局、父は会社を辞めることもなく、
私は母が勤務する病院に隣接する保育園に
母と一緒に電車を乗り継いで通園し、無事卒園した。
その後は松戸市内の小学校に入学し、
その間妹も生まれ、8年間松戸で暮らしたのち、
1976年(S51年)4月、父の転勤に伴い、
小学4年生で茨城県の片田舎に移り住んだ。
さらに「奇跡の日」から数年後、
父は祖父母を茨城へ呼び寄せ、
祖父は山形の農地を手放した。
代々農家の家系だった祖父母にとって、
相当な苦渋の決断だったに違いない。
母もまた、人生の転機を幾度も越えてきた。
東京の病院を離れ、一時は看護師を辞めながらも、
新設された地元の病院で復職し、
定年後も看護師として働き続けた。
振り返れば――
父と私はそれぞれ「転落」から奇跡の生還を経験したことになる。
その全ては偶然ではなく、必然だったのだろうか。
私の頭部の右半分は、今でもジャガイモのような凸凹が残り、
カチューシャのような大きな縫合痕や
手足に輸血した時の痕は残っているものの、
心配された「後遺症」はほとんどない。
強いて言えば、その後も波乱万丈な人生を送り、
常に両親に心配をかけてばかりの「親不孝な性格」が
後遺症と言えるだろうか。
今では「奇跡の日」は我が家の年表に記され、
毎年8月1日になると、両親から「奇跡の日」の当時の様子を聞かされる。
そして気づけば私は3人の子供と5人の孫に恵まれている。
――もしも、59年前の8月1日に一看護師の母が外科医たちとの口論に負けていたら。
あの「奇跡」は起こらなかった。
あの日、享年1歳で私の人生は終わっていた。
「奇跡の日」以降、母の執念が生んだ第二の人生を歩んでいる。
波乱に満ちた私の第二の人生は、父が歩んだ道と違うが、
いつかはまた父が同じ道に繋がるかもしれない。
そして今年両親は共に米寿、私は還暦を迎え、
孫たちが祝ってくれる。
こんな日が訪れるとは、あの「奇跡の日」に
誰が想像できただろうか。
近年は熟年離婚を機に、両親の元に戻り、
車いす生活の母と今でも、仲良く喧嘩しつつも、
母が与えてくれた長い余生に対して、
感謝の気持ちを忘れはしない。
あの日諦めず、私の命を救ってくれて
ありがとう。お母さん。
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