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選挙なんて要らないよ その79(労働基準法❓)その6


我は大和の民より生まれし特異点。
忘却の歴史を司り、
法の夢先案内人となり、
民が制度を変える武器とも化す者なり。

さて、今回の内容は、


労働基準法今昔物語(六)




前回までのあらすじ

20世紀初頭、日本政府は欧米列強との条約改正や外資の導入を目的として、近代的な労働保護制度の整備を早急に迫られた。

そこで制定されたのが1911年の工場法である。

しかしその法制度は、労働者の実態に基づいて作られたものでなく、海外向けの体裁を整えるために設けられた制度にすぎなかった。

イギリス工場法の文言を模倣しただけの、省庁主導で書き上げられた条文には、すでに多数の適用除外と猶予規定が組み込まれていた。

法の公布後も、産業界からの強い反発により施行はたびたび延期され、女子や児童の保護条項は例外規定で骨抜きにされた。

また、小規模工場や農村の家内労働は最初から制度の外に置かれていた。



1923年、関東大震災が東京を襲い、國家の統治基盤が揺らいだ。

社会不安の広がりを前に、政府は制度の見直しを進められた。

翌年の改正では、対象拡大や条文の追加が行われたが、労働監督体制は整備されず、制度の要旨は現場に届くことがなかった。

國家が作り上げたのは、労働者を守る制度とは裏腹の、外資を得るための制度だったのだ。

そしてその形相だけを整えただけの条文の改正は、まだ始まったばかりだった。




第3章 改定の変遷と制度の温存


第11話 労働者の権利不在と「奴隷法」的運用の継続

20世紀初頭の日本において、労働者の権利という発想はほとんど存在してはいなかった。

議会は設置されつつも、それは民意を反映する機関とは言い難く、天皇を頂点とする統治機構の飾りにすぎなかった。

明治憲法下の政治構造は、元老と財閥によって実質的に支配され、國民を統治の主体として置くなどという発想もないので、当然の事として國を制度の支配対象として置いていた。

更に、國民には教育勅語により、國家への忠誠を誓わせ、法に疑いを持つこと自体を潜在的に禁じていた。

この時代にはまだ、民主主義という言葉も概念も、制度の中にはまだ根を下ろしていなかったのである。



工場法や労働保護制度は、労働者の生活や尊厳を守るという発想からは生じてはいないため、労働者を酷使可能なぎりぎりの線を基準として制定されている。

そして、労働者の奴隷化という商標を理念として、國家が近代國家としての体裁を整え、外資を引き込み、國際社会での立場を維持するための「外向けの装置」として設けられたものだった。

条文には美しい理念が掲げられていたとしても、その内実は支配の正当化にほかならなかったのである。



支配構造の根強い國家構造において、制度とは一方的に國家から圀民に与えるものであり、受け取り側の國民にはその内容の是非や交渉そして修正の余地は赦されていなかった。

労働者は、制度という枠組みのなかで従属を強いられる他なかったのである。

つまり、工場で働く労働者には、自ら労働条件を選ぶことも、改善を求めることも許されてはいなかった。

さらに制度内部では例外規定によって保護が掘り崩され、制度外部ではそもそも対象から排除されることで、法の庇護から切り離される労働者が数多く存在してもいた。

例えば、年少者の保護や女子の夜業禁止、就労時間の制限といった規定も、それが「労働者の権利」として認められたわけではない。

これを國家は「恩恵」として、労働者に与えたという位置づけとして、却って更に忠誠を誓わせる約定としていた。

この様に、制度とは労働者を従順で管理しやすい労働力へと囲い込むために設計されたものであるのだ。

こうして制度の名において構築されたものは何か?

それは、封建的な主従関係を近代的な法体系の衣をまとわせて再生した、新たな形の隷属構造なのである。

そこにあったのは「労働者保護」とは程遠い、「労働者管理」というしない構造であり、労働者が得たものは、「権利」とは言い難い、新たな「勅令」だったのだ。


🔹 勅令としての工場法

  • 明治憲法下の統治構造:議会制と民意の不在

    • 大日本帝國憲法(1889年)では、主権は天皇にあり、議会(帝國議会)は天皇の協賛機関にすぎなかった。

    • 衆議院は制限選挙(納税資格)によって構成され、國民の大多数は政治参加できなかった。

    • 労働者や農民は選挙権を持たず、制度に対して意見を表明する手段を持たなかった。

    • 実際の政策形成は、元老・内閣・貴族院・官僚によって行われ、立法府が労働者の利害を代表することは構造的に不可能だった。

  • 教育勅語と忠誠義務の制度化

    • 1890年に発布された教育勅語により、臣民(國民)は天皇への忠誠と國家への奉仕を道徳の根幹として教育された。

    • 勅語は国家と法に対する疑念や異議申し立てを「不忠」とみなし、政治的服従が常態化。

    • この道徳観は、制度に対する交渉の発想そのものを押さえ込み、「保護は恩恵」という国家観を正当化した。

  • 工場法の立法過程と立法思想の不在

    • 工場法の制定過程は官僚主導であり、労働者からの意見聴取や現場調査はほとんど行われていない。

    • 内容はほぼすべてイギリス工場法の翻訳・模倣であり、日本独自の労働環境や産業構造には適合していなかった。

    • 制定目的も「労働保護」ではなく、「対外的信用(文明国の証明)」が中心に据えられていた(公式文書・議事録にも記載あり)。

  • 制度内部に組み込まれた例外規定と適用除外

    • 工場法は制定時から、「常時15人未満の工場」「家族労働」などを適用対象から除外。

    • 例外規定により、深夜業や時間制限の条文は特定業種や期間において免除される制度が設けられていた。

    • 実態として、制度が保護したのは大規模事業場のごく一部に限られ、多くの労働者は法の外に置かれていた。

  • 労働者保護よりも管理手段としての法制度

    • 労働者に「権利」を与える制度ではなく、「規律」と「範囲」を与える管理手段として制度設計されていた。

    • 就業時間・年齢・休憩等の制限は、労働力の効率的使用を目的として導入されており、健康や尊厳の保障とは距離がある。

    • 保護条項はしばしば「指導・指示」の形式で表現されており、労働者の主張・請求権として位置づけられていなかった。

  • 比較法的観点から見た「権利」との断絶

    • 同時期の欧州諸國では、労働者の國結権・交渉権・請求権が制度的に承認され始めていた(例:ドイツ、イギリス)。

    • そのため日本への派生を懸念した國際金融資本は、日本政府に対して、労働組合の合法性を認めず、1911年の治安警察法第17条により、労働争議は「秩序違反」として取り締まりの対象とするように勧めた。

    • よって、工場法の条文が掲げる「保護」は、國際的にはすでに過去の段階にある「名目的規制」にすぎなかった。



第12話 武家諸法度・奴隷法・不平等条項の制度内固定化

徳川の世にあっては、武家諸法度が身分秩序を細かく規定し、統治の安定を保証した。

明治政府が制定した工場法も、その延長線上にあったため、形式を近代法に変えただけで、支配の理念は変わってはいない。


この時、國際金融資本の薦めで持ち込んだイギリス工場法には、植民地労働を管理するための「奴隷法」の性質が彼らの長い植民地支配の裏で埋め込まれている。

年少者や女子の保護という名目の下に、実際には労働力を効率的に酷使する仕組みが組み込まれていた。

その条文を、日本の官僚は中身も理解せずに輸入し、法典として整えた。



ここ迄の話は、既にあなた(読者)にはお伝えした内容ではあるが、今回問題としているのは、それが単なる輸入にとどまらなかったことにある。

条文に埋め込まれた「適用除外」と「例外条項」は、日本の現場で制度の骨組みとなり、労働者を階層ごとに選別・分断する仕組みとして作動した。

そのため、農村の副業や家内労働は切り捨てられ、大工場の女工も特例の名の下に夜業へ駆り出された。

つまり、法の名のもとで、従属はむしろ更に強化されているのである。



これは「外からの転用」を「内なる慣例」に変える所業だったのである。

外資の制度を持ち込み、國内支配層がそれを支配という自らの武器に変えていったのだ。

法制度は「先進的な文明國の証」として國外に向けて演出されると同時に、國内においては労働者を従順な資源に固定化する鎖となったわけだ。



こうして、武家諸法度に由来する支配の論理と、奴隷法に由来する管理の技術と、不平等条項に由来する国際従属が、工場法という制度の中で融合したのだった。

それは、労働者に権利を与えるどころか、かつてなかったほど徹底した「制度的隷属」を生み出す、恐るべき変革だったのである。

あなたの脳裏に今残したいものは、制度自体は労働者保護に対して実効性がなくとも、この制度の浸透により、労働者に対する奴隷支配構造が完成したという事実である。


🔹 画期的な文明國化と労働者階級の拘束

  • 武家諸法度に由来する支配の論理

    • 江戸期の武家諸法度は、身分ごとに異なる義務と規律を定め、支配秩序を安定させていた。

    • 工場法も同様に、適用除外(小規模工場、家内労働、農村副業など)を設け、労働者を階層ごとに分断した。

    • 制度は普遍的保護ではなく、統治の裁量を支配層に与える仕組みとなった。

  • イギリス工場法に内包された奴隷法的論理

    • イギリスの工場法は、植民地での労働力管理を背景に成立しており、「保護」の名を借りた効率的労働力利用が目的だった。

    • 女子・年少者保護とされた規定も、実際には労働力の調整と酷使を制度化する役割を担っていた。

    • 日本の官僚はこれを理解せず翻訳・移植し、同じ論理を國内制度に組み込んだ。

  • 不平等条項に由来する國際従属

    • 國際金融資本(ロスチャイルド系、HSBC、モルガン系など)は、日本政府に投資査定基準として労働法整備を要求した。

    • そこで導入されたのは、外資にとって都合の良い不平等条項であり、制度の実効性は二の次とされた。

    • 結果として、日本の労働法は「文明國の証」として國外に演出される一方で、國内労働者には従属を強いる仕組みとなった。

  • 制度固定化の具体的な運用実態

    • 適用除外と例外条項が現場で常態化し、農村・家内労働者は切り捨てられ、大工場の女工は夜業に駆り出された。

    • 制度は保護どころか、従順で管理しやすい労働力を確保するための鎖となった。

    • 法の公布そのものが目的化し、実効性は軽視されたことで、制度的隷属が完成した。


次回予告

明治から大正へと続いた工場法は、制度そのものが「文明国」の証として仕立てられ、労働者を隷属化する仕組みとして固定化された。

だが時代は移り、昭和に入ると、制度は急速に疲労を起こし始める。

条文の改正を重ねても、現場には届かない。保護の名を掲げても、誰も守られない。

制度は形を保ちながらも、内実を失い、ただ空虚な枠組みだけが残されていく。

次回、この昭和期における制度の形骸化と、その果てに噴き出す社会的矛盾を追う。

制度が抱えた根源的な限界が、いかにして露わになっていったのか?
その脳裏に――しかと焼き付けよ。








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