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政治もまた、信用を失えば市場から見放される――『なぜ金融の勝者はいつも同じ顔ぶれなのか』と政治

『なぜ金融の勝者はいつも同じ顔ぶれなのか 教養としての金融市場』の考え方を、いろいろな仕事や社会の現場に重ねて考えています。

これまで、建設業、飲食店、学校教育、士業、医療・介護、地方・地域社会、宗教、製造業、インターネット業界について書いてきました。

今回は、政治について考えてみたいと思います。

政治というテーマは、扱い方が難しいものです。

政党の支持、不支持。政策への賛否。政治家への評価。
選挙。外交。財政。社会保障。

どこから入っても、すぐに意見が分かれます。
だから、ここで特定の政党や政治家について論じるつもりはありません。

個別の政策について、賛成反対を書くつもりもありません。
私が考えたいのは、もっと土台にあることです。

政治とは、国家の信用をどう扱う仕事なのか。この一点です。

金融市場を見ていると、政治は遠い世界の話ではありません。

政治が動けば、金利が動くことがあります。
為替が動くことがあります。
株価が動くことがあります。
国債が買われたり、売られたりすることがあります。

中央銀行の独立性。財政規律。税制。社会保障。防衛費。外交関係。資源政策。規制。

これらはすべて、市場とつながっています。

市場は、政治を見ています。
政治家の言葉も見ています。
政策の整合性も見ています。
国家が約束を守れるのかを見ています。

その国の通貨を、これからも信用してよいのかを見ています。
その国の国債を、将来も返済されるものとして見てよいのかを見ています。

政治は、国内の有権者だけに向かっているように見えます。
しかし、実際には市場にも見られています。

国内の国民にも見られています。
海外の投資家にも見られています。
企業にも見られています。

若い世代にも見られています。
将来世代にも見られています。

政治とは、票を得るための言葉だけでは成り立ちません。

その言葉が、国家の信用にどう影響するかを引き受ける仕事でもあるのだと思います。

国家は、信用の上に成り立っています。

通貨が使われるのも、信用があるからです。
国債が発行できるのも、信用があるからです。
税を集めることができるのも、信用があるからです。
法律が守られるのも、信用があるからです。
制度が機能するのも、信用があるからです。

もちろん、国家には強制力があります。

税を徴収する力。法律を執行する力。
警察や司法。国境を守る力。

しかし、国家が強制力だけで成り立っているわけではありません。
人々が、ある程度その制度を受け入れている。

通貨を通貨として受け取っている。
税を不満に思いながらも、制度の一部として支払っている。

国債を、返ってくるものとして買っている。
法律を、自分たちの社会を守るものとして認めている。

そこには、目に見えない信用があります。

政治が壊すと怖いのは、この目に見えない信用です。

制度そのものは残っていても、そこに対する信用がなくなれば、国家は弱くなります。

市場は、政治の理念だけを見ているわけではありません。

政治がどれだけ立派な言葉を語っても、市場は別のものを見ます。

その政策は続くのか。
その財源はあるのか。
その約束は守れるのか。

その制度は将来も維持できるのか。
その国の通貨は信用できるのか。
その国債は本当に安全なのか。

その政治は、短期の人気のために長期の信用を傷つけていないか。

市場は、ときに冷たいほど現実的です。

人々の生活を守るための政策であっても、財源が見えなければ不安視されます。

聞こえのよい言葉であっても、将来に過大な負担を残すものであれば、信用を傷つけます。

一時的に支持を集める政策であっても、国家の持続可能性を損なうなら、市場はやがて反応します。

これは、市場が冷酷だからというだけではありません。

市場は、未来の約束を価格にしている場所だからです。

政治が未来に対してどのような約束をしているのか。

その約束は守れるのか。市場は、それを見ています。

政治には、どうしても誘惑があります。
目の前の支持を得たい。

選挙に勝ちたい。批判を避けたい。
痛みを伴う話は先送りしたい。
耳障りのよい言葉を使いたい。

国民に負担を求めるより、給付や減税を語りたい。

これは、政治家だけの問題ではないと思います。
有権者の側にも同じ誘惑があります。

自分にとって都合のよい政策を求める。
負担は少なく、給付は多くしてほしい。
税は下げてほしい。でも社会保障は維持してほしい。

防衛も、教育も、医療も、子育ても、地域も、全部大事にしてほしい。

その気持ちはよくわかります。

私たちはみな、自分の生活を守りたい。不安を減らしたい。将来を安心したい。

けれど、国家の財布には限りがあります。
資源にも限りがあります。
人口にも限りがあります。
時間にも限りがあります。

ここで政治が本当に問われるのは、願いを並べることではなく、優先順位をつけることです。

そして、負担と給付の関係を、正直に語ることです。

金融市場でも同じです。

リターンだけを求めて、リスクを見ない投資は危うい。
利益だけを見て、損失の可能性を見ない判断は危うい。

政治もまた、給付だけを語って負担を語らなければ、いずれ信用を失います。

国債は、政治と市場が交わる象徴的な場所です。
国債は、国家の借金です。

しかし同時に、投資家にとっては資産でもあります。

銀行、保険会社、年金基金、個人、海外投資家。
さまざまな人や機関が国債を持っています。

国債が安全資産として扱われるのは、その国家が信用されているからです。

将来、利払いが行われる。償還される。
通貨の価値が大きく損なわれない。
制度が維持される。

そう信じられているから、国債は買われます。

しかし、この信用は無限ではありません。

どの国でも同じです。
国債を発行できるということは、信用があるということです。

しかし、信用があるからといって、いくらでも発行してよいということではありません。

ここを間違えると危うい。

信用があるうちは、市場は静かです。
けれど、信用が疑われ始めると、金利が動きます。
通貨が動きます。
資本が動きます。

政治が「国内の話」だと思っていたものが、突然、世界の市場の中で評価されるようになります。

政治もまた、市場の外側にはいられないのです。

通貨もまた、信用です。
私たちは毎日、当たり前のように円を使っています。

給料を円で受け取り、買い物を円でし、貯金を円で持ち、税金を円で払います。

円が円として機能していることを、普段はあまり意識しません。
しかし、通貨は自然物ではありません。

そこには国家の信用があります。
制度の信用があります。
中央銀行の信用があります。
財政の信用があります。
社会の安定があります。

人々がその通貨を受け取るという、共同の前提があります。

通貨への信用が揺らぐと、生活そのものが揺らぎます。
物価。輸入価格。エネルギー。食料。金利。賃金。資産価格。
すべてに影響します。

政治は、この通貨の信用を軽く扱ってはいけないと思います。

もちろん、為替は政治だけで決まるものではありません。
世界の金利差、景気、需給、投機、地政学、さまざまな要因で動きます。

それでも、政治が国家の信用に関わっていることは間違いありません。

政治の言葉が軽くなれば、通貨の信用も軽く見られることがあります。

政治には、理念が必要です。
国家は、単に市場に評価されるためだけに存在しているわけではありません。

弱い人を守ること。
教育を支えること。
医療や介護を整えること。
子どもたちの未来を考えること。
災害に備えること。
安全保障を考えること。
文化や地域を守ること。
市場だけでは守れないものを守ること。

これが政治の役割です。
だから、政治をすべて市場に従わせればよい、という話ではありません。

市場は大切ですが、市場がすべてではありません。

市場は効率を見ることができます。
価格を示すことができます。
信用の変化を映すことができます。

しかし、市場だけでは、何を守るべきかまでは決められません。

人間の尊厳。共同体の意味。弱者への配慮。将来世代への責任。

こうしたものは、政治が引き受けなければならない領域です。

ただし、政治が市場を無視してよいわけでもありません。
市場を無視した理想は、やがて資金の裏付けを失います。

資金の裏付けを失った理想は、続きません。

ここに政治の難しさがあります。
理想を語りながら、現実を見なければならない。

弱い人を守りながら、国家の信用も守らなければならない。
将来の希望を語りながら、財政の制約も語らなければならない。

政治は、きれいな言葉だけではできません。
しかし、冷たい計算だけでもできません。

政治が信用を失うと、何が起きるのでしょうか。

まず、人々が言葉を信じなくなります。

どうせ選挙のためだ。
どうせ守られない。
どうせ先送りだ。
どうせ誰も責任を取らない。

そう思われるようになります。

次に、制度への信頼が弱くなります。

税を払うことへの納得がなくなる。
社会保障への不安が強くなる。
将来への期待が持てなくなる。
若い世代が、自分たちの未来をこの国に預けにくくなる。

さらに、市場も信用を見直します。

国債。通貨。企業活動。海外からの投資。人材。

信用が失われると、お金も人も動き方を変えます。

これは、目に見えにくいですが、非常に大きなことです。
金融市場では、信用が失われると資金が逃げます。

政治の世界では、信用が失われると、人々の心が離れます。
そして、心が離れたあとに、お金も人も離れていくのだと思います。

政治は、短期の勝負に見えます。

選挙があります。
支持率があります。
世論調査があります。
報道があります。
SNSがあります。
失言があり、炎上があり、批判があります。

どうしても目の前の反応に追われます。
これは、インターネットや金融市場にも似ています。

毎日の価格。毎日の反応。毎日の評価。

それらを見ていると、長期の構造が見えにくくなります。

しかし、本当に重要なのは、長期の信用です。

この国は、将来も制度を維持できるのか。
この社会は、次の世代に何を残すのか。
この通貨は、これからも信用されるのか。
この財政は、どこまで持続可能なのか。
この政治は、困難な現実を語る勇気があるのか。

市場で長く残る人は、短期の値動きだけを見ていません。
政治も同じではないでしょうか。

短期の支持だけではなく、長期の信用を見なければならない。

それが、本来の政治の重さなのだと思います。

『なぜ金融の勝者はいつも同じ顔ぶれなのか 教養としての金融市場』というタイトルは、投資の世界の話に見えるかもしれません。

しかし私は、この問いをもっと広く考えています。

なぜ、ある国の通貨は信用されるのか。
なぜ、ある国の国債は買われ続けるのか。

なぜ、ある政治は市場に安心感を与え、ある政治は不安を生むのか。
なぜ、短期の人気取りが、長期の信用を傷つけるのか。
なぜ、国家の信用は、見えないところで少しずつ消耗していくのか。

これらは、金融市場の問いであり、政治の問いでもあります。

政治とは、国家の信用を扱う仕事です。
その信用は、一日で作られるものではありません。

過去の積み重ね。
制度の安定。
財政の規律。
通貨への信頼。
法の支配。
国民との約束。
将来世代への責任。

それらが重なって、国家の信用になります。

政治もまた、信用を失えば市場から見放されます。

これは、政治を市場の下に置くという意味ではありません。
政治が市場に媚びるべきだ、という意味でもありません。

むしろ逆です。

政治が本当に国民を守ろうとするなら、国家の信用を軽く扱ってはいけないということです。

信用を失った政治は、弱い人を守る力も失います。
信用を失った通貨は、生活を守れません。
信用を失った国債は、将来の政策余地を狭めます。
信用を失った制度は、人々の協力を得られません。

だから政治は、理想と現実の両方を見なければならない。

理念と財源。
給付と負担。
現在世代と将来世代。
国内世論と国際市場。
人間の痛みと国家の持続可能性。

そのすべてを引き受ける仕事なのだと思います。

金融市場の話は、投資家だけのものではありません。
政治を考えることは、国家の信用を考えることです。

そして国家の信用を考えることは、私たちがこの社会をどのように未来へ渡していくのかを考えることでもあります。

市場を見ることは、世界を見ることです。

政治を見ることもまた、世界の仕組みと人間の欲望を見つめることなのだと思います。

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