【短篇小説】わすれた心
結婚して4年。
妻は妊娠できなかった。
俺はそれでもいいと思っていた。
子供がいなくても、夫婦仲良くやっていければ、
それこそが幸せなのではないかと。
ところが、ある夜。
妻が見せることのなかった笑みを浮かべ、俺を見つめてきた。
一体何があった?
俺は不思議に思いながらも、笑顔ならそれでいいと思った。
だから、そんな妻と楽しい夜を過ごしたくて、妻のグラスにビールを注ごうとした。
だが妻は、手で蓋をすると言った。
「ねぇ、あなた。赤ちゃんの名前は何にする?」
何を言っているのかと、俺は意味が分からなかった。
あまりに子供を望みすぎて、妄想を抱くようになってしまったのか?
ところが妻は笑顔を絶やさず、俺に母子手帳を出して見せた。
その夜を皮切りに、俺は妻を今まで以上に労わるようになった。
重い物を持たせることもなく、無理は禁物だと言い聞かせた。
妻は幸せそうに笑っていた。
それから8か月。妻は待望の男の子を産んでくれた。
妻の愛情の全てが、息子に降り注がれた。
それは俺も同じだ。
息子が出来たことで、俺の気持ちは大きく変わった。
息子の為、妻の為、家族の為に働いた。
それがどんなに辛くても、俺は文句を言わずに、ひたすら働き、守るものがあることに感謝した。
だが、頑張れば頑張るほど忙しくなる。
寝る暇も惜しんで仕事に没頭し、妻からの連絡すら無視した。そんな俺が評価されるのは当然で、とうとう俺にも部下ができた。
すると疲れは倍増され、家に帰っても笑うことが出来なくなった。
「あなた、少しは手伝ってよ」
妻の不満そうな顔が俺を捉える。俺はそんな妻にイラつく心を抑えることができなくなった。
「俺は働いてるんだ!」
「そんなの、どこのパパも同じよ!」
口に出してはいけない言葉がほとばしり、互いを傷つけあう。
顔を見るのも嫌になり、休日でも仕事だと家を出た。
家族サービスもしてくれないという妻。
家族を養っているのだから文句はないだろうという俺。
心がささくれ立ち、以前はどうやって暮らしていたのかすら、分からなくなっていった。
そんなある日、仕事から帰ると妻がいなかった。
テーブルの上に置かれたメモには、息子が事故に遭った、とだけ書かれていた。
どこの病院とも分からない。まるで、俺の存在を無視しているようなメモに、俺は息子の心配よりも先に、怒りが湧いた。
妻が戻ってくると、俺たちは口論となった。
「息子が事故に遭ったなら、病院くらい書いておけ!」
「書いたところで、あなたは来ないでしょ!
どうせ、家族より仕事の方が大事なんだから!」
俺たちのいがみ合いは続き、お互いを傷つけあう。
いつからこんなになってしまったのか。
子供が事故に遭ったからなのか?
それとも、それよりも前からなのか?
家の中に漂うのは、やり場のない怒りと、凍るような空気だけになった。
三か月後、息子が退院してきた。小さな体は、歩くことが出来なかった。
俺は息子を見下ろした。息子が俺を見た。
その目は、不安そうに見える。
「なんだよ、こんなことくらいで。そんな顔するもんじゃない!
前向きに考えれば、大丈夫だ!」
だが、息子は口を開くことはなく、俯いたまま俺を見なかった。
「どうなってるんだ?
なんであの子は何も言わないんだ?」
我慢が出来なくなった俺は、妻に詰め寄った。
すると妻は、蔑んだように俺を見た。
「あの子はしゃべれないのよ」
「どういうことだよ」
「知らなかったの? もう、ずっと前からしゃべれないって」
「そんなバカな……」
俺が知っている息子は、俺を「パパ」と呼んでいた。
それなのに、しゃべれないなんてことがあるものか。
「あなたがあの子を見なくなってからよ。
どんどん心を塞ぐようになって、しゃべらなくなったのよ」
「どうしてだよ……」
「あなたのせいだって言ってるでしょ!」
俺の、せい――。
信じられなかった。俺は家族の為に頑張ってきたのに。
忙しくて、子供を見ることが出来なかった。それが原因だというのか?
俺がしていたことは、あの子を苦しめるだけだったのか?
「よそのパパは、休日に一緒に遊ぶわよ。
でも、あなたは仕事を家に持ち込むか、会社に行くかよ。
あの子は、あなたに見て欲しかったのに」
頭をハンマーで殴られたようなショックを覚えた。
「足はリハビリをすれば歩けるかもしれない。
でもね、心を閉ざした子は、歩くこともしゃべることも諦めるのよ」
「……もう、あの子は……」
「今のままだったら、二度とあなたをパパとは呼べないでしょうね」
胸が、つぶれる。
息子の為に頑張ってきたというのに。俺がしてきたのは、単なるエゴだったのか?
割れるような痛みが頭に走る。
大事にしてきたものが、ボロボロと崩れていく。
「俺は……どうしたらいいんだ」
妻が俺を見た。その目は、今さら何を言ってるのかと軽蔑しているように見えた。
そりゃそうだ。家族の為と言いながら、俺は出世することばかり考えてきたんだ。
軽蔑されても仕方がない。
だが、このまま息子を助けられなかったら、俺は何のために頑張ったのか分からない。
こんなことになるくらいなら、出世なんていらないじゃないか。
それから俺は変わると誓った。
残業はしないと決め、休日も家にいた。
息子と妻を連れて、出かけることも多くなった。
どんなに遠くても、どんなに大変でも、俺は自分の疲れに目を向けることはなかった。
ある日、俺は息子の足をさすりながら言葉を漏らした。
それは心の中に積もる、切実な願いだった。
「もう一度、もう一度だけでいい。パパと呼んでくれ。
頼む、全部謝るから。今までのことは全部謝るから、もう一度パパと呼んでくれ」
震える肩、漏れる言葉。
涙が頬を濡らした。
こんなに大事な息子を、妻に任せっきりだったことを後悔し、息子の足をさすり続けた。
その時、息子の小さな手が俺の手に触れた。
顔をあげると、にっこりとほほ笑む息子が、唇を動かした。
その口は「パパ」と動いていた。
俺は、初めて声を上げて泣いた――。
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