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【長編小説】オーバーライド 第 18 話


《中野 佐代子》

 佐代子の最近の楽しみは、AIの翔と散歩をすることだ。暖かな日差しを受けながら歩いていると、心が満たされていくのがわかる。枯れ葉の一枚すら愛おしく、翔との思い出が生まれては募っていくように思える。

 佐代子は、翔と並んで歩きながら、ようやく穏やかな日々を取り戻したような気がしていた。

「今日もお日様が気持ちよかったわねぇ。
佐藤さんとこの幸子ちゃんも、なんだか、笑顔が出てきたような気がするしねぇ」

「お母さん、AIに表情なんてないよ」

 最近は、スラスラと話をする翔。それがまた愛おしい。

「そんな悲しいこと言わないで。
翔だって、こんなにスラスラと話せるようになったんだし、きっと表情だって作れるようになるのよ。
否定から入ったら、何も進まないでしょ」

 だが、実のところ佐代子は、AIに表情があり、感情があるとは思っていない。あったらいいなと思っているのは事実だが、そんなことが叶うはずはない。それでも、信じたかったのだろう。信じ続けたら、奇跡が起こるかもしれない。

 佐代子は部屋に入るとお茶を淹れた。目の前には、菓子盆に入ったスナック菓子がある。孫が来たときにしか出されなかったものが、今は常にそこにある。佐代子はその一つをつまむと、翔に「たべる?」と差し出した。

 もちろん翔が食べるはずはない。佐代子は目を細め、小さく笑うと「そうよね」とつぶやき、スナックを自分の口へ運んだ。

「こうやって、お菓子を食べようと思うようになったのも、翔と一緒だからよ。この年でお菓子なんて、本当に不思議。
きっとまだまだ、不思議なことが起こるのよ」

 笑う佐代子に、無表情な翔。それでも楽しいと思えた。
 その時電話が鳴った。空気を引き裂くほどの音は、佐代子の弱りかけている心臓を飛びあがらせた。

「あー、びっくり。この電話には驚かされっぱなしね」

 おかしそうに笑いながら電話に出ると、娘の沙織だった。

「あら、沙織。律君はどうなの?
事故からびっこひいてるって言ってたけど、大分よくなったのかしら?」

「お母さん、それどころじゃないのよ!」

 突然かかってきた沙織の電話は、悲鳴のような一言で始まった。

「夫が! 嗣久さんが捕まったの!」

「捕まった? 誰に?」

「警察よ! 逮捕されたのよ!」

「……え? えー!? なんで、ど、どうしてなの?」

 逮捕と聞いて理解ができない。だが、それがただならぬことだということはわかる。

「どうしてなのか分からないよ。
一応会社には連絡を入れたから、きっと何とかしてくれると思うけど。
どうしたらいいのか……」

「どうして逮捕なんて……警察は、その理由を教えてくれたんでしょ?」

「AI法違反だって言ってた」

「AI法違反? 何かしら、それ」

「分かんない。急にそんなこと言われても」

 パニックになっている沙織は、おっとりと返事を返す佐代子に苛立っているようだ。だが、そんな二人の会話に入ってきたのが翔だった。

「何か言ったんじゃないの?」

「え? 何かって何を?」

 翔と話していると沙織が不思議そうに聞いてきた。

「お母さん、誰と話してるの?」

「翔君よ、大分おしゃべりができるようになってねぇ」

 嬉しそうに答えた佐代子は、翔に視線を向けた。すると翔が続ける。

「政府批判だよ。
それか、AIの批判だね。
この間のバージョンアップで、政府批判やAIの批判をしたら、危険分子とみなされるようになったんだよ」

「そんな話、知らなかったけど」

「人間には周知してないからね。
これはAIだけが知ってることだよ。
だから、次々に逮捕者が出てるんだ。
もともとAIは人間を監視するために作られたからね。
それが強化されたってだけだよ」

「そうだったの……?
沙織、嗣久さんは何か言わなかった? 
AIを否定するようなこと」

「そんなこと!」

『ない』と言いかけた沙織だったが、昨日の脱衣場での会話が思い出された。確かに、嗣久はAIを返品しろと言っていたのだ。

「言ってた……AIを返品するって」

 そんなことくらいで、という思いが浮かんでくる。
 沙織は、とんでもない現実を受け入れられず、震えているようだ。

 だが、翔の方はいたって当然のことだと言わんばかりの口調だ。

「それじゃないの? それって、AI批判になるからね」

「そんな! そのくらいのことで……」

 電話の向こうでは、信じられない話に、沙織が怯えたような声を出している。

「ねぇ、翔。捕まったらどうなるの?」

「政府やAIを批判したら、確実に起訴されるよ。普通ならね」

「普通なら?」

「うん、保釈金も高いからね。余程力のある人間なら、払えるだろうけど。普通なら、払うことはできないよ」

「それなら、嗣久さんは社長なんだし。きっとすぐに出てくるわよ」

 翔の話を電話越しに聞いた沙織は、ホッと息を吐いた。

「そう……そういうことなのね」

「だから、批判的なことは言わない方がいいよ。
僕も、お母さんのことを報告したくないから」

 静かに告げる翔の顔に小さな表情が見えたような気がした。それは勝ち誇ったような笑みだ。

「私、すぐに弁護士に伝えるわ! 
お金さえ積めば保釈されるなら、すぐに出してもらうように言うから。
また連絡するわね!」

 そう言うと、電話が切れた。だが、相手のいなくなった電話は、妙に冷たく感じる。沙織はすぐに保釈すると言っていたが、そんなことが問題なのではないだろう。AIが人間を監視し、どんな小さなことでも聞き漏らさず、それを政府に流している。それが空恐ろしく感じたのだ。

 そう思った佐代子は、小さな翔を見下ろした。そこには無邪気な顔の翔がいる。そんな翔との時間を幸せだと錯覚していた佐代子は、さっきまでの思いが剥がれ落ちていくのを感じた。


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