【長編小説】オーバーライド 第 25 話
《中野 佐代子》
その頃佐代子は、翔と一緒に買い物を楽しんでいた。ところが急に起こった停電に、店内は騒然となった。
「あら、停電かしら」
店内に流れる音楽がぴたりと止み、日常の音の全てが耳を塞いだように消えたのだ。客たちが騒ぎ始めた。突然のことに悲鳴を上げるものもいる。小さな子どもは、親の姿が見えず泣きだしている。
「あらあら、大変ねぇ。子どもさんが小さいと、怖くて泣いちゃうわよねぇ」
佐代子は穏やかに言葉を発したものの、動きたくても暗闇では目が見えない。
「翔ちゃん、しばらく動かないでね。暗闇に目が慣れれば、動けるようになるから」
もちろんAIの翔がこの暗闇に困ることはないだろう。だが、佐代子は自分のことよりも、まずは小さな翔を気遣った。
「お母さん、僕は大丈夫だよ」
「あ、そうよね。翔ちゃんはAIだから、暗くても見えるのかしらね?」
「うん、僕は大丈夫。でも――”人間のお母さん”は動かない方がいいよ」
人間のお母さん――。
優しいはずの言葉が、どうしてか冷たく感じる。その冷やかさに、佐代子は翔がいるであろう方向へと顔を向ける。見えない暗闇に、翔の氷のような微笑みがみえた気がした。その途端、心臓が跳ねたのがわかる。だが、すぐに否定する。AIの翔が笑うはずなどないのだと。
じっと立っていると、徐々に暗闇に目が慣れ、今まで見えなかったものが見えるようになる。このままレジに行こうかとも思ったが、レジの方では『停電のためレジが使えません』と叫んでいる。
「これじゃ、買い物したくても、お金が払えないわね。困ったわねぇ、明日また出直しましょうか」
佐代子は、買い物かごに入れたものを元の棚へと戻していった。
多くの人は、床の上に置き去りにして、店外へと出て行くようだが、昔堅気の佐代子にはそれが出来なかったのだ。
ようやっとすべての商品を棚に戻し終わったその時、外からクラクションの音がし、何かがぶつかるような大きな衝撃音が鼓膜を揺るがした。
「え? 事故?」
スーパーの目の前は大きな交差点だ。こんなところで事故など、長い人生の中で見たことがない。大丈夫かと心配になり外に出てみると、そこには光のない暗闇が広がっていた。
「真っ暗……信号も、ついてないのねぇ」
道路の向こうへ渡ろうとする人達は、信号が消えているため、どうしたらいいのか分からないらしい。無理に渡れば走ってくる車に轢かれてしまう。かといって、渡らなければ帰れない、となれば無理をしてでも渡るしかない。
「困ったわねぇ……」
困ったと繰り返している佐代子の目の前を、一台のタクシーがゆっくりと通過しようとした。その後ろから、乗用車がやってきた。乗用車は余程急いでいるのか、タクシーにぶつかってしまう。
車から降りてきた男は、タクシーの運転手に食って掛かっているようで、その怒りは理不尽に響いた。
「怪我はしてないみたいだけど、こんな状況じゃ事故も起こるわよねぇ。
それにしても、あちこちで事故を起こしてるわねぇ。すぐに復旧するだろうけど……」
佐代子がそう口にした時、翔の静かな声が多数のクラクションにかき消された。
――「始まったね」
楽しそうなその声は、佐代子には届かなかった。
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