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【長編小説】オーバーライド 第 28 話


《中野 佐代子》

 やっと自宅に戻った佐代子は、白い息を吐きながら玄関の戸を開けた。

「はあ……やっと帰りついた。家の中も寒いわね」

 佐代子は震える体で電気のスイッチを入れたものの、灯が佐代子を照らすことはなかった。家に戻れば温まれると思っていただけに、そのショックは大きかった。

「まだ停電したままか……」
 
 独り言を落としながら、冷蔵庫を開けてみたが、明るく照らすはずの庫内も真っ暗だ。いつもは響く冷蔵庫の機械音さえ鳴りを潜め、そこにあるのは静寂と佐代子の小さな呼吸音だけ。

「これじゃ腐っちゃうわねぇ……」

 そう言って取り出したのは、残り物の小さな皿。

「今夜はこれだけしか食べられないかな……」

 卓上用のガスコンロで料理をすることもできるが、そんな体力などあるはずもない。明日でいいかとつぶやき、箸を握ったその時、黒電話が大きな音をあげた。

「あらあら、こんな時間に誰かしらねぇ」

 テーブルに両手をつき、ゆっくりと立ち上がる。こんな時に思うのは、電話が部屋の隅にある不便さだ。若い頃は苦でもなかったこの距離が、今ではやけに遠く感じる。

「はい、もしもし」

 電話に向かってしゃべりかける。だが、聞こえてくるのは雑音ともとれるノイズ。幾度となく『もしもし』と繰り返し、やっと通じはしたものの、まるで別の世界から聞こえてくるように遠い。

「お母さん、お母さん?!」

「沙織?」

「よかった~。やっと通じた。もう、連絡出来ないかと思った」

「ああ、そうか。電話って電気がないと通じないものね。
やっぱり黒電話があってよかったわねぇ」

 佐代子は、幾度となく買い替えろと言われていた電話に感謝した。

「お母さん、こっちは停電が長引いてるんだけど、そっちはどう?」

「こっちも停電よ。さっきまで買い物に行ってたんだけど、帰ってくるのが大変だったわ」

「なんで? そんなに遠くのスーパーに行ってたの?」

「そうじゃないのよ。信号が止まっててね、道路を渡ることが出来なかったの。
お巡りさんが来てくれて、交通整理が始まって、ようやっとって感じ。
寒くて寒くて、風邪ひくかと思ったわ」

「そう、大変だったのね。
でも、これじゃ料理もできないし、寒いし……お母さんは大丈夫なの?」

「大丈夫よ。もう、しょうがないもの。きっと明日には復旧してるだろうしね。
それにストーブもあるから」

「ストーブ? 電気がないんだから、つかないでしょ?」

「うちのはダルマストーブだから、石油さえ入っていればつくのよ」

「ああ、そうか、ダルマ……」

 佐代子の家は、何十年と使い込んだダルマストーブだ。お湯も沸かせれば室内を暖めながら煮物もできる。だが、今の時代、そんなものははやらないと、沙織は否定的だった。それが今、一番欲しい物になっている。

「いいわね、ダルマストーブ……」

 沙織の口から出た羨ましそうな声に、持って行ってあげたいと思う佐代子だったが、自分にはどうすることもできない。

「明日にはきっと復旧して、また暖かく暮らせるわよ」

 佐代子が言えるのは、確信のない慰めだけだった。

「そうね……電気がないと、こんなに不便だとは思わなかったけど。
ああ、スマホがね、そろそろ充電が切れるから、電気が復旧するまでは連絡が出来ないけど、心配しないでね」

 自分のことを気遣って連絡をくれたことに、佐代子は『女の子を生んでよかった』と心が温まるのを感じていた。

 電話を切った佐代子は、皿に箸をつけた。その冷たさに、思わず身震いが起き、視線がストーブへと向く。部屋が温まるには、だいぶ時間がかかりそうだ。 

 佐代子は、冷えた体を温めながら、揺れる炎をぼんやりと見つめていた。


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