【長編小説】オーバーライド 第 4 話
《毒島 沙織》
ニュースは日本中を――いや世界中を駆け巡った。日本の新たな試みに、あらゆる国が沸き返っている。
そしてここにも、同じようにAIの到着を待つ者がいた。それは大手衣料品メーカー社長の妻、毒島沙織(どくしま さおり)だ。
「あなた、とうとうAI法案が可決されたんですって」
沙織はテーブルの上に並んだ料理に箸を付けながら、にこやかに顔を向けた。帰宅した夫・嗣久は、横目でテレビを見たかと思うと、スマホを手にニュースを再確認している。
「あなた、律が真似するから……食事中に、スマホを見るのはやめてください……」
静かな物言いの中に、かすかな怯えと、口には出せない引け目が滲んでいる。だが嗣久は、鋭い眼差しで沙織を一瞥すると、面倒くさそうにスマホに視線を戻し「仕事だ」と短く答えるだけだった。沙織は嗣久に悟られないように、小さく息を吐いた。
五歳になる息子・律は、何でも父親の真似をしたがる年頃だ。そのため、食卓に絵本を広げたまま、箸を動かす。どんなにダメだと言っても「仕事だ」と、短く口答えする。そう言えば、沙織が黙ってしまうことを知っているのだろう。
悪いことだと分かりながらも、夫に強く言えない沙織は、嗣久の悪癖から目をそらすしかなかった。
「AIが来るようになったら、家政婦として使えるんですって」
沙織は話題を変えるように、明るく嗣久に話しかけた。まともな返事など期待していない。息子が生まれてからというもの、沙織が話しかけても、まともに答えてなどくれないのだから。それはまるで、いい生活をさせているのだから、文句はないだろうと言われているように思えた。
それでも、何とか家庭に明るい雰囲気を作ろうと、沙織は一生懸命だった。
「AIロボットって、家政婦も秘書もできるし、シッターもできるんですって。すごいわねぇ」
すると嗣久がスマホを置いて沙織を見た。バカにしたように冷たく光るその目が、一体何を考えているのか、沙織にはまるで分からない。
怯えるように箸を止めた沙織は口を閉ざしてしまう。そんな沙織を気にも留めない嗣久は、次の言葉を吐いた。
「そうか。だったら、家政婦を切ろう」
「え……」
凍るような感情のない嗣久の一言に息を飲んだ。まさかそんなことを言われるとは思わなかった沙織は、チラリと台所の入り口へと目を向ける。そこには、家政婦が顔色を変えて立っていた。
彼女は、沙織が結婚して以来、毒島家で働いてくれている。もう六十歳に手が届く年齢だが、料理も掃除も文句のつけようがない。頼れる家族もなく、今の仕事を失えばたちまち食べていけなくなるだろう。そんな彼女を切ることは、家政婦のみならず、沙織自身にとっても、大きな不安を抱えることになる。
「AIが来るなら、家政婦やシッターは不要ということだ」
「それはそうですけど……」
「決まりだ、AIが来たら彼女には暇をやることにしよう」
沙織は、余計なことを告げてしまったと後悔した。確かに、AIがいれば家政婦の代わりにはなるだろうが、それで本当に全てがうまくいくとは思えない。また、シッターの代わりになるとはいっても、本当に何の問題もないのか?
子どもの面倒を見てもらうのに、不安がないわけはない。
だが、嗣久がそう決めてしまった以上、もう沙織には何を言うことも許されなかった。
「そう……ですね。
AIはいつ頃来るのかしら」
嗣久はうるさそうに、沙織を見ると黙り込んでしまった。テレビからは、相変わらずAI配布についてのことばかりが流れ聞こえている。
嗣久は、さっさと食事を終えると、自室へと入っていった。
沙織は再度家政婦を見た。自分の今後を思い悩んでいるのか、不安そうな視線を床に落とし、俯いていた。
沙織は彼女の力になれないかと考えてみた。だが、どんなに探しても、経済力も発言力もない自分では、役に立てるはずもない。その時、律が「ごちそうさま」を言うこともなくテーブルから離れた。
「律、ちゃんとご挨拶なさい。ごちそうさまは、作ってくれた人への感謝の気持ちですよ」
律は、家政婦を見てバカにしたように笑った。
このままでは、何もかもが壊れていく。嗣久の冷たい態度によって、息子が壊れ、家政婦の人生も壊れ、そして自分の未来も悲しいものとなるだろう。
果たして、AIが来て何が変わるのか。
沙織は小さなため息をつくと「ごちそうさまでした」と手を合わせた。
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