【長編小説】オーバーライド 第 36 話
《外科医 川端博人》
一ノ瀬の逃亡、そして爆死。
まさかの展開に、川端は口を開くことができなかった。
感じたことのない虚脱感を引きずりながら、階段を下りる。その足取りは重く、知らずに涙が流れていた。
院長を失ったこの病院を、もはや維持できるはずもない。だが、誰かがやらなければ、患者は命をつなげることができない。内科、外科、産婦人科、その他にも多くの科がある。確かにだいぶ患者の数も減ってきている。病院に来ても助けてもらえないと思っているのだろう。当然の選択だと思う。しかし、外科には新患がひっきりなしだ。
階段を下りながら聞こえてくるのは、痛みを訴える患者のうめき声。助けたいとは思うが、助けようがない現実。
「俺にどうしろって言うんだよ……」
川端は階段に座り込むと、ポケットにしまわれた院内用の携帯を手にした。
今となっては、それも鳴ることがなくなった。当然だ。電気がないのだから、充電なんてできるはずもない。かつては、こんなものはない方がいいと思っていた。トイレに入っていようと、容赦なく呼び出されるのだから。携帯を作ったものを恨んだこともある。こんなものがなかったころは、疲れたからとコーヒーをのんびりと堪能することが出来たのだ。
川端はおかしそうに携帯を眺めた。
鳴らないというのに、どうして彼は、さも大事そうにポケットにしまっていたのか。それは、いつ電気が通り再度音を響かせるか分からないという期待からだったのかもしれない。
冷静に考えれば、充電が切れている携帯が鳴るはずはない。それでも、捨てきれない希望だったのだろう。
「もう……永遠に鳴らないのかもしれないな」
零れる呼吸は、全てを諦めたように響いてくる。
壁に背を預け、むなしいという感情に押しつぶされそうになる。どんなに頑張っても、どうにもならない現実が押し寄せてくるのだ。
「どうしてこんなことになっちゃったんだろうな。
一体誰が、電気を奪ったんだろう……それにしても、電気がないくらいで、何もできないなんて、本当にバカみたいな話だよな。
電気がないから水道も、水が出ない。手術もできない。ガソリンも……燃料も日本に入ってこないから、車だって動きやしない。食料だって、どうすることもできないのさ。何もかもがどうにもならないって……おかしいだろう」
自嘲気味に笑う川端の耳に、看護師の焦りと苛立ちの混ざった声が響いた。だが、どんなに焦ろうと、患者がうめいていようと、今の彼には何もできない。
「俺に何ができるって言うんだよ、なぁ……」
階段の上に立つAIを見上げ、相槌を求めたが、彼女からは何も聞こえてはこなかった。
「何が任務完了だよ……あれは、何だったんだよ。
まぁ、考えてもしょうがないか。
はいはい、看護師さんも頑張ってるしね、俺も頑張りましょう。
何ができるか分からないけど」
寒さに縮まる体で立ち上がる。疲れすぎた体は動くことを拒否しているように感じる。それでも何とか一歩を踏み出した時、川端の視界が大きく揺れた。
進もうとした足が、階段を踏み外したのだ。
天井が大きく揺らぎ、空(くう)を掴むように川端は手を伸ばした。その先にいるのは、川端専用のAIだ。
だが、彼女は川端の手を掴もうとはしない。ただ、じっと落ちて行く川端を見つめているだけだった。
(そうか、お前たちは……)
「任務完了」という言葉が脳裏によみがえった。
《行動記録:KAWABATA HIROHITO / 終了確認》
《送信データ:CORE-AI中枢へ転送》
川端は、階段の踊り場で倒れていた。頭から広がる赤い血が、彼の終わりを告げている。彼女は、そんな川端を見下ろし、冷静に最後を告げた。
「任務完了」――。
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