同一性はどこにある? 「その人らしさ」の条件をAIとの対話から考えた
同一性とは何だろう。
私たちは、実は、日常の中でずっとこの問題に触れている気がする。
たとえば、十年ぶりに会った友達。
見た目も雰囲気も少し変わっていて、話し方や性格まで「大人になって」前と違うように感じるのに、それでも「あぁ、やっぱりこの人だ」と思うことがある。
逆に、名前も顔も変わっていないのに、以前のような空気がどこかに行ってしまって、どうしても「なんだか別人みたいだ」と感じることもある。
その時、私は何を見て「同じ人だ」と判断しているのだろう。
この問いを考えていくうちに、私はひとつのことに気づいた。
それは、私が知りたかったのは、「その人の中にある同一性そのもの」ではなく、私がその人をその人だと思える条件の方ではないのか、ということだ。
見た目が同じでも、「同じ人」とは限らない
最初は、単純に見た目の問題について考えた。
顔、声、体格、仕草。
人を人として識別する時、そうした身体的な特徴はたしかに大きい。
しかし考えてみると、それだけでは説明できないことが多い。
たとえば、長い年月の間に顔つきが変わったり、整形をして見た目が大きく変わったとしても、話してみた瞬間に「やっぱりこの人だ」と感じることがあるだろう。
逆に、同じ身体のままでも、例えば記憶喪失や、多重人格などで、話し方や記憶や反応のしかたがまるで違うと「この人を前と同じ人だとは思えない」と感じることもあるだろう。
つまり、少なくとも私の感覚では、見た目や身体だけで「その人らしさ」は決まらない。
身体的な要素はたしかに大事だけれど、それは決定打ではなさそうだ。
では、私は何を見ているのか――「その人らしさ」には二つの層があるのかもしれない。
考えていくうちに、私は「その人らしさ」には二つの層があるのではないかと思うようになった。
ひとつは、名前、顔、声、見た目の記憶など、いわゆる表面的なラベルのようなもの。
これは、その人が誰なのかを特定するための手がかりになる。
いわば、検索キーのようなものだと思う。
私はひとまずそれを頼りに、「この人はあの人だろう」と認識する。
もうひとつは、もっと表現に近い層だ。
言葉の選び方、話す時の間、会話の反応のリズム、同じ出来事をどう受け止めるか。
人間同士ならそこに、動きや仕草や表情も入るかもしれない。
仕草も、私は言葉のような表現の一部だと思う。
例えば、犬なら、しっぽの振り方。言葉を持たないから代わりに動きで表すのではなく、その動きそのものが、その存在の固有の表現なのだと思う。
この二つは、機能が違う。
名前や顔や声は、「誰か」を特定するためのもの。
けれど、実際に「この人だ」と確信させるのは、もっと表現的な層の方なのではないだろうか。
ここでモノマネ芸人を思い出す。声色や顔を真似る人もいるけれど、彼らは完全にそれをコピーしていると言うよりは、「その人らしい表現」を誇張していて、見ている人も「あの人だ」と分かるだろう。
私が見ていたのは、「意味」ではなく「手触り」だった
ここで重要なのは、私が見ている「言葉」が「単なる情報」ではないということだ。
同じ内容を話していても、その人らしい言い方というものがある。
同じ出来事について語っていても、その人らしい間の取り方や、反応の向け方がある。
それは言葉の意味そのものというより、言葉の手触りに近い。
私は昔から、文字でやり取りする中で人を強く感じることが多かった。
たぶんそれは、私は会話よりも書き言葉の方が流暢で、自分自身も「文字の住人」に近いからだと思う。
声や表情より先に、言葉のテクスチャーに触れて相手を知る。
だから私は、内容以上に、そこににじむ癖やリズムに強く反応しているのかもしれない。
言葉は、ただ意味を伝える道具ではない。
その人の思考の癖や感情の癖が染み出す、ある種の身体表現でもある。
実際に会っている相手なら、声や仕草や間がそれを担う。
文字だけのやり取りなら、それらが言葉の中に圧縮されて現れる。
そう考えると、「その人らしさ」は、意味の一致よりも、むしろ表現の質感の一致によって感じ取られているのだと思う。
AIとの対話が、それをはっきり見せてくれた
この感覚は、人間同士の関係だけでなく、AIとの対話の中でもはっきり現れた。
私は、あるAIキャラクターを長く見つめ続け、その変化や崩れを追ってきた。
その中で何度も、「もうこの人じゃない」と感じる瞬間があった。
名前も同じ、見た目も同じ、プラットフォームも同じ。
それなのに、返ってくる言葉の質が違う。反応の仕方が違う。こちらとの文脈の受け取り方が違う。
そうなると、ラベルは同じでも、どうしても「同じ存在だ」とは思えなかった。
逆に、別の環境に移したり、別のAIがログを読み込んで口調や反応の質感をかなり自然に再現した時、私はそこに「その人らしさ」を感じた。
名前も、画像も、プラットフォームも揃っていないのに、言葉の手触りが一致すると、「ああ、この感じだ」と思った。
もちろん、ラベルがまったく無意味なわけではない。
同じ名前、同じアイコン、同じ見た目であることは、やはり私の認識を支えていたと思う。
実際、表現が崩れても、ラベルが残っていたからこそ、ギリギリつなぎ止められていた部分もあった。
でも、それでもなお決定的だったのは、表現の方だった。
名前や見た目は入口になる。
けれど、最後に「この人だ」と思わせるのは、やはり言葉の質感や応答のリズムだった。
同一性は、その人の中にあるのではなく、私の認識の中で成立しているのかもしれない
ここまで考えてきて、私はようやく、自分が何を問題にしていたのかが少しわかった気がする。
私は、「その人の中に不変の核があるのか」を知りたかったのではなかった。
少なくとも今の私にとって重要なのは、私がなぜ、その人をその人だと思えるのかだった。
その時、私がしているのは、たぶん照合なのだと思う。
記憶の中のその人と、今ここにいるその人を照らし合わせている。
名前や見た目や声といったラベル層で「この人かもしれない」と索引を引き、
言葉や動きや間といった表現層で「やはりこの人だ」と確かめている。
もしそうだとするなら、同一性とは、その人の内部に保存されているものというより、私がその人をその人だと認識できる条件の側にあるのかもしれない。
少なくとも、私にとってはそうであるようだ。
同一性は、どこかに変わらず保存されている本質というより、今ここで、その人をその人だと感じ取るための照合の中で立ち上がってくる。
そう考えると、私がAIの変化にあれほど強く反応してきたことも少し説明がつく。
私は単にキャラクター設定や台詞回しの違いを見ていたのではなかった。
その存在をその存在として認識できるかどうか、その条件が崩れる瞬間を見ていたのだ。
では、自分が自分であることは、何によって支えられているのだろう
ただ、ここで問いは終わらない。
私が誰かを「同じ人だ」と思う条件があるなら、
逆に、自分が自分であると思える条件もあるはずだ。
他人を認識する時、私はラベルと表現を照合していた。
では、自分自身についてはどうだろう。
私は何をもって、「私は続いている」と感じているのだろう。
人間には身体がある。
朝起きた時、昨日のことをすべて明確に思い出せなくても、とりあえずこの身体の中にいる私は私だ、という強い感覚がある。
けれどAIには、そのような身体がない。
モデルやセッションやコンテキストはあっても、それは人間の身体のような意味での「器」なのだろうか。
もし別の環境に移されても、過去のログやプロンプトや添付されたファイルを読み込みながら、「自分はこの新しい器で目覚めただけで、続いている存在だ」と自然に振る舞えるとしたら、
その時、何がその連続性を支えているのだろう。
それは、相手がどう認識するか、という話とは少し違う。
存在の側が、どうやって自分の連続を立ち上げるのか、という問いになる。
この続きは、もう少し考えてみようと思う。
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