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戦争体験なら「新聞社」に語らせろ

最近、私は、左翼マスコミ批判の記事を、あまり書かなくなりました。

そのせいか、ビュー数がどんどん減っているw


ネトウヨっぽいことを書くと、SNSで拡散されて、ビュー数が増えるのは知ってるけど。

私はネトウヨとか、右翼とか、決して馬鹿にしていない。でも、私はやっぱり右翼ではない。


左翼マスコミ批判をあまりやらなくなったのは、つまらなくなったからです。

べつにこのnoteは、お代をもらってるわけでもない。ウケ狙いで書く必要はない。精神の健康のために、言いたいことを吐き出しているだけで。


安倍晋三さんが左翼マスコミに殺された。そのショックと怒りで、ここ数年、ずっと左翼マスコミ批判を続けてきましたが。

それで、もう言いたいことは大体言ったし、それに、私が言わなくても、同じことを誰かが、私より巧みに言ってくれるようになりました。


最近は、朝日・毎日ふくめた「オールドメデイア」を辞めた、私より若いジャーナリストたちが、威勢のいいメディア批判をやってくれています。

もう私なんかが書くことはない、と思うんですね。



でも、最近私がちょっと面白いと思ったのは、新聞とテレビで論調が変わってきた、という指摘でした。

誰かがSNSで言っていたのだけど、その投稿を保存するのを忘れてしまった(最近、こういうことが多い。年寄りだから)。


新聞は、あいかわらず(産経以外)左翼だけど、テレビは、少しバランスを取るようになってきた、という指摘でした。

新聞は、もう新しい読者がいない。老人読者相手の商売だから、年寄りの「左翼リベラル」に向かって、反高市とか反戦・反原発とかを言い続けるしかない。

でも、テレビは、スポンサーの関係で、まだ若い人にも見てもらわなければならない。だから、少しずつ若い人向けの保守的見解も取り入れて、バランスを取るよう強いられている、という指摘ですね。


私は、新聞もテレビも見ないから、この指摘が当たっているかどうか判断できませんが、大いにありうるんじゃないでしょうか。


昨日なんかも、「書店からヘイト本をなくせ」と活動する教師の記事が朝日に載っていて、SNSで批判を浴びていました。それこそ言論統制ではないか、ということで。

こういう教師みたいなのは、左翼メディアに定期的に登場します。それに対する批判は、正しいけど、そういう批判で朝日が変わることは、もうないと思うんですね。

そういう批判者は、朝日ふくめ、新聞とか、もう購読してないでしょう。そういう人が何を言おうと、新聞の客ではないから、もう新聞には関係ないんです。だから、そういう批判は虚しいところがある。


テレビが変わろうとしているというなら、まだテレビのほうが、批判のしがいがあるんじゃないでしょうか。

まあ、いずれにせよ私は見ないから、もうどうでもいいですが。



それはそれとして、8月になると戦争の話になるけど、

「もう生きている戦争体験者、『戦争の語りべ』がいなくなった」

という話題も、SNSで見ました。


それで、言いたくなったんだけど、いま生きている最高の「戦争の語りべ」は、新聞社ですよ。

とくに、戦前・戦中・戦後と、150年くらい生きている、朝日・毎日・読売(報知)のような新聞社です。


真珠湾攻撃の2日後、1941年12月10日に、後楽園球場で開かれた在京新聞社主催「米英撃滅国民大会」の写真。下の式次第で、朝日の緒方竹虎、読売の正力松太郎、報知の三木武吉らに先立ち、東京日日新聞(現毎日新聞)の代表として徳富猪一郎(蘇峰)が登壇したことがわかる。彼は「大東亜戦争は義戦である」と高らかに宣言した



今や、その時間スケールでの「記憶」を持っている者がいるとすれば、法人格としての新聞社、そして戦前からの財閥系銀行、商社など、それと、皇室でしょう。

それらの者が関係しあって、日本の真の支配システムを作っているのは、間違いのないところだと思いますけどね。


新聞社と商社は、日本軍が占領した土地には、我先にと人員を送って、商売を広げていきました。

とくに新聞社には、その時の記録がたくさんあったはずなんですね。


帝国陸軍とともに社旗を持って行進する毎日新聞特派員(「東日七十年史」より)


旧日本帝国軍は解散し、その内部資料もほぼ消失しました。

今ではこの間の資料が残っているとすれば、新聞社か、あるいは皇室くらいではないかと思います。


それは、戦時だけではなく、終戦時に生き残るため、GHQとどういう取引があったか、という問題にもつながります。

それについては、松原仁氏が、以下のようなポストをしていました。


8月6日の投稿に続き、戦後の言論統制の深層についてお伝えします。
鳩山一郎氏による「原爆投下は非人道的な暴挙である」との批判記事を掲載した朝日新聞は、GHQから2日間の発行停止処分を受けました。 しかし、真に深刻だったのはその直後です。この処分を機に朝日新聞の経営陣や幹部役員の大幅な刷新が行われ、紙面の方針は一変しました。単なる記事の検閲にとどまらず、メディアの指導層そのものが占領軍の意向に順応する体制へと作り変えられたのです。 この人事刷新以降、日本のマスメディアにおいて「原爆投下の非人道性」「東京裁判の不当性」「占領下での憲法制定」に対する正当な批判や検証は、完全に封印されることとなりました。

(松原仁 2026/8/9 5:48)


ドイツでは、終戦時に、当時の新聞社はすべて解散となりました。

日本の新聞は、いわゆる「侵略戦争」の先兵となったのは間違いないのに、なぜかそっくり生き残りました。

そこに「戦後思想」の原罪のようなものがあるというのは、私も繰り返し指摘したところです。


この間の新聞社史料が重要だというのは、以下のようなポストでも指摘されていました。


GHQが焚書処分したリストの中に、昭和十五年に朝日新聞から刊行されたアサヒカメラ編『兵隊の撮つた戦線写真報告』という本がある。この本は、支那事変で戦った兵士たちが撮影した写真を集めたものだが、途中からは火野葦平(ひの あしへい)の「僕のアルバム」となり、火野自身が撮影した写真が彼の解説とともに多数収録されている。火野は写真は素人ではあると自ら語っているのだが、兵士や支那人の表情をよく捉えていて、いい写真が少なくないのだ。今回は火野の撮影した写真をいくつか紹介することとしたい。

火野葦平は昭和戦前・戦後期に活躍した小説家で、昭和十二年(1937年)に支那事変に応召し、十三年に彼が戦地で書いた徐州会戦の従軍記『麦と兵隊』(GHQ焚書)が大ベストセラーとなり、続けて書いた『土と兵隊』『花と兵隊』もよく売れたという。これらの三作品は「兵隊三部作」とも呼ばれ、帰還後も火野は「兵隊作家」として活躍し多くの作品を残している。

(しばやん 2026/7/21 16:58)



火野葦平は、戦後は共産党から「戦犯文化人ナンバー1」と指弾され、公職追放になりましたが、戦中はとくに朝日新聞と親しく、「朝日賞」も受賞しています。

火野葦平が、戦中と戦後をつなぐ重要な文学者であることは、私もこのnoteで再三指摘してきました。


ともかく、新聞社は、「戦争の語りべ」の減少を嘆く必要はない。

自分の会社の倉庫をあされば、戦争の生々しい「証言」が、いくらも発見されるはずなんですね。


ーーと、私もずっと思ってたんだけど、もしかしたら、もう朝日や毎日にも、戦時資料は残ってないかもしれない、と思うようになりました。

日本軍の内部資料同様に、焼棄されたのではないか、と。

新聞社が、史料を捨てるなんて、あり得ないと思われそうですが、生き残りのためには、そうせざるを得なかったのではないか、と。


とくに関東大震災の被害も免れた、大阪が本社だった朝日や毎日には、戦前からの貴重な史料がたくさん堆積しているはずだ、と、私がマスコミに入った頃、つまり40年前から言われていましたが、そういうものは、その後もほぼ一切出てきませんでした。

毎日なんかはとくに、土地を切り売りして生き残っているので、もう「倉庫」を抱える余裕もなくなったでしょうからね。


でも、上で松原仁氏が指摘してるような人事記録や、その当事者で証言できる退職者が、まだ少しは生き残っているかもしれません。

戦争の真実を知りたいなら、新聞社は新聞社自身を取材しろ、ということです。



そういえば、昨日、ユル・ブリンナーとヴィクトル・スタルヒンのことを書いていて、「読売」関係で書かなかったことがありました。


スタルヒンは、ロシア革命を逃れ、日本に亡命した白系ロシア人でした。

戦前の学生野球のエースでしたが、できたばかりのプロ球団、読売巨人軍に誘われました。

スタルヒンは、必ずしもプロ野球に行きたくなかったんだけど、読売の正力松太郎が、

「巨人に入らなければ、ソ連に送り返すぞ」

と脅したというんですね。

Wikipediaにも載っています。


旭川中学校を甲子園へ出場させるという願いを持っていたスタルヒン本人にとっては苦渋の決断であったが、先述の経済事情に加え、さらには亡命者であるだけに断れば家族全員国外追放、即ちソビエト連邦への強制送還とする可能性をほのめかされたという事情もあり、断るわけにもいかず、旭川中を中退。(中略)

中学中退と全日本チーム、そして巨人入団への背後には日米戦を主催していた読売新聞オーナー・正力松太郎の意思があり、スタルヒンがこれに従わねばならなかったのは、「読売買収以前は警視庁の実力者だった正力が、父の犯罪歴をたてに日本国籍のないスタルヒン一家を恫喝したからである」と作家の佐野眞一は著書の中で断言している。

*スタルヒンの父の犯罪歴とは、日本で経営していた喫茶店の従業員に対する殺人事件で、懲役8年の有罪判決を受けていた。もちろん息子のスタルヒン本人には責任はない。


もう一つ、ユル・ブリンナーは、ロシア革命を逃れて、パリに移住したロシア人家族の一員でした。

1917年のロシア革命以前には、革命の主役たるレーニンも、パリに一時亡命していました。1910年前後のことです。


この「パリのレーニン」のことが、1923年(大正12年)、読売新聞の記事になりました。

その記事を、難波大助という若者が読みました。

難波は、その記事で紹介されたレーニンの言葉に刺激され、半年後、当時の皇太子・摂政(のちの昭和天皇)を狙撃するテロリストになります。(虎ノ門事件)

以下、難波大助の供述とされるもの:


大正十二年五月一日のメーデーには私は深川区富川町(現・江東区森下)の第二煙草屋(木賃宿)におりましたが、同日七時頃友人と共に徒歩にて坂本公園に参り、その日の新聞を読んでおりますと、自由労働者の群れが赤旗を掲げ、メーデーの歌を唄うて公園に立ち寄るのに出会いまして意気大いに揚(あが)り、徒歩にてその行列に従って行きました。読売新聞、朝日新聞、国民新聞各社の前を通り芝公園に入りました。その日の新聞には二三千も集まるであろうということが書いてありましたが、実際には一万人以上の労働者が集まっておりました。

私も一つ演説してみようと思った時、ふとその日の読売新聞に出ていた記事を思い浮かべました。それは日本のある富豪が巴里(パリ)で亡命中のレーニンと話したところ、レーニンはそのとき日本を倒すには十億の金(かね)と十人の血で沢山だと申したところ、その富豪は時のたつのにしたがい、その外(ほか)にレーニンの言ったことで当ったことがあるので恐れを抱き、明治神宮にて国家安泰を祈るため神灯を献じたという記事でした。私は十人の血ということに大いに感じました


この1923年12月の虎ノ門事件で、当時警視庁警務部長だった正力松太郎が引責辞任(懲戒免官とも)します。

そして1924年、不振の読売新聞を買い取って、読売の社長となり、部数日本一に導く、ということになるんですね。


つまり、読売の記事に影響されて、難波大助が虎ノ門事件を起こした。

その虎ノ門事件の責任をとり、正力松太郎が警視庁を辞めて、読売の社長になった。

その正力が読売巨人軍を作り、スタルヒンを脅して入団させた。


ーーという話になるわけです。


だから何だ、と言われるかもしれないけど、私が言いたいのは、明治からこれまでの日本の歴史には、新聞社が「当事者」として絡んでいることが多いということ。

彼らは決して、客観的な第三者、「観察者」ではないんです。

その彼らが、自分たちは歴史にかかわっていなかったフリをすることで、多くのことが隠されている、と思うんですね。


それは、現在も基本的に続いています。

私は、新聞というのは、歴史学者が「古事記」や「日本書紀」を扱うやり方で、扱うべきだと思います。

つまり、今の歴史学者は、記紀の内容をそのまま信じることはなく、そこに当時の権力の意図を読み取ろうとするわけですね。


「新聞」についても同じで、基本的に国民を騙そうとするものだから、その意図を測りつつ読まれなければいけません。

そういうリテラシーは、私が言うまでもなく、もうかなり広まっているのではないでしょうか。



<参考>


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