「育ちのいい人たち」との距離
たとえば、ヤクザとか、不良・つっぱり・ヤンキーとかが出てくる映画やドラマは嫌い、見ない、という人たちがいる。
文芸評論家の小谷野敦氏が有名だけど、彼に共鳴する人たちはけっこういる。
私は昔から日本映画がヤクザ(暴力団)に好意的なのが不満だった。
私にとって、ヤクザは恐怖と嫌悪の対象でしかなく、ああした連中に本音を投影したりカタルシスを感じたりすることは、ありえない。
しかし、言論人でヤクザ否定をハッキリ発言してくれる人は殆どいない。 小谷野敦氏は例外的存在だ。
(エンタメ放浪者 ウディ本舗 2026/5/22 22:52)
私は昔から日本映画がヤクザ(暴力団)に好意的なのが不満だった。
— エンタメ放浪者 ウディ本舗 (@woody_honpo) May 22, 2026
私にとって、ヤクザは恐怖と嫌悪の対象でしかなく、ああした連中に本音を投影したりカタルシスを感じたりすることは、ありえない。
しかし、言論人でヤクザ否定をハッキリ発言してくれる人は殆どいない。
小谷野敦氏は例外的存在だ。
小谷野氏は、「国宝」も、やくざが出てくるからイヤらしい。
あともちろんやくざが出てくるのがもうイヤ
(小谷野敦 2026/6/6 11:57)
あともちろんやくざが出てくるのがもうイヤ
— 小谷野敦🦖⛱アンチTRAただし売春についてはTRA寄りらしい (@tonton1965) June 6, 2026
ヤクザ映画が大好きで、倫理はヤクザ映画に学べ、なんて言っている私には、耳が痛い。
でも、こういう意見も理解できる。
現実にヤクザに苦しめられている人たちもいるだろうし。
それに、私も、アメリカのヒップポップ文化とかは嫌いだ。
gangstaだとかbad assを讃える、あちらの不良文化は好きではない。
ラップやヒップホップが流行り出して、洋楽を聞かなくなった日本人は多いと思う。
日本人は、そんなの真似するくらいなら、北島サブちゃんの「兄弟仁義」とか「神奈川水滸伝」とかを歌え、と思う。
ゲームの「Grand Theft Auto」は大好きだが、あの物語の背景を成すギャング文化は好きでない、ということは私も以前に書いた。
それでも、なぜ自分がヤクザ映画が好きかと考えると、やっぱりヤクザや不良が身近だった自分の生育環境のせいだと考えざるを得ない。
クラスメートに普通にいたからね。ヤクザと共生する文化の中に育った。
逆に、ヤクザや不良が出てくるのは嫌いだ、という人たちは、小谷野氏は知らないけど、ヤクザや不良が身近にいなかった、「いいとこ」で育ってんではないか、と思ってしまうのね。
「育ちのいい人」たちなんじゃないか。
言い訳をすれば、私はヤクザ映画は好きだけど、ヤクザが好きなわけではない。
まあ、手っ取り早い話をすれば、私みたいな階層の人間には、ヤクザも天皇も同じ、っていうか。
日本国っていうのも、大きなヤクザ組織みたいなもんだろう。随一のーー共産党式にいえばーー「暴力装置」を備えてて、おっかないから、われわれはショバ代やみかじめ料を払っている。
そういう感覚が、たぶんわかってもらえる人と、わからない人がいる。
天皇家とか、その重臣・貴族・政治家の世界は、あるいは文化の世界、学界や文壇・論壇も、いくら優雅に見せても、結局は権力闘争の世界、力関係の世界だと思うわけ。
本質を見れば、それはヤクザ映画で描かれている抗争の世界と変わらない。実力(暴力)を、自分が使うか、他人に使わせるかの違いで。
この世はすべて権力闘争、という本質を、より本質的に描いているから、私はヤクザ映画が好き。
剥き出しの現実社会で、どう「正しく」生きていくかという、リアルな倫理を問うているから好き。
という理屈は、いちおう言えるかな。いま考えたんだけど。
ただ、理屈ではなく、生きていく上での感覚なんですよね。
どこに権力があるか、とか、より強力な権力はどれか、とか、その距離感をいつもはかりつつ、首を垂れて、権力とうまく付き合って、なんとか無事に生きていくのが、われわれのような権力に無縁の階層の人生ですからね。
でも、権力に近い人たちは、その権力性に無自覚なんですよ。
「育ちのいい人たち」には、それを感じるね。
育ちも、自分で選んだわけではないとしても。
まあ、あんまり共感されないだろうこういう話は、このへんでやめるけど。
でも、文化の階級性とか、そういうテーマは、ずっと興味がありますね。
最近亡くなった庄司薫なんてのは、「育ちのいい」文化人の代表みたいな感じだった。
それでいえば、村上春樹なんかもそうでね。サラリーマン経験なんてないでしょう。
日本の純文学は、小林秀雄とか河上徹太郎とか、働いたことのない高等遊民たちが築いた文化ですね、基本的に。それも前に書いたことありますが。
彼らは、プロレタリア文学を否定するために活動したようなものです。その末裔が文藝春秋ですから。
でも、たとえば三島由紀夫は、ヤクザ映画が好きだったじゃないですか。
彼は、貴族的な小説を書きながら、「野卑な男たち」に関心と共感を注ぎ続けた。
そこには、同性愛問題に矮小化できない、彼の独自の日本文化観があると思うんだけど、そこはまだあんまり考えていない。
いずれにせよ、私は左翼ではないけど、このあたりにはこだわっている。
文化も学問も、階級的に決して中立ではない。
それは、自分が新聞社や出版社で働いて、より強まった感覚です。
左翼が間違っているのは、資本主義が始まって不平等や抑圧が始まったように言うことですね。
資本主義以前のほうが酷かったですから。資本主義はむしろ絶対的貧困をなくす方に貢献した。批判の方向が間違っている。
左翼もふくめて、「権力」にだまくらかされている、というか。
というより、左翼も「権力闘争」にくわわると、かえって権力が見えなくなるんだろうな。
今も知人や友人にいる、「育ちのいい人」たちと、私のような「育ちの悪い」方の人との、微妙な感覚のズレ、みたいなことを書きたかったんだけど、話が著しくズレてしまったので、この話はやり直し。
