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ユル・ブリンナーの秘密 「樺太生まれ京都育ち?」「同性愛ヌード」「マリリン・モンローとの情事」「黒澤明との関係」「ジェームズ・コバーンとの確執」



数日前からユル・ブリンナー(1920ー1985)のことを調べていて、いくつか記事を書きましたが、書き漏らした「こぼれ話」をいくつか書いておきます。

日本では、あまり知られていないことが多いと思います。

今ユル・ブリンナーに興味がある人がどれだけいるか、分かりませんが(ほとんどいないでしょうが)。


ユル・ブリンナーは、ロシア出身の映画・舞台俳優です。トレードマークのスキンヘッドと強い存在感で知られ、ミュージカルおよび映画『王様と私』のシャム王役でアカデミー主演男優賞を受賞しました。名作西部劇『荒野の七人』などでも活躍し、1985年に亡くなりました。
(GoogleのAIによる紹介文)


「荒野の七人」でのユル・ブリンナー


樺太生まれ、京都育ち?


プーチンが来たことで、今ちょっと、「北方領土」が話題ですね。

ユル・ブリンナーは、1972年のBBCの番組のインタビューで、自分は「樺太生まれ、京都育ち」だと語っていました。


私はサハリン(樺太)という島で生まれました。この島は日本の北にある北海道のさらに北に位置し、漁業や鉱業が行われている島です。その北部は現在ロシア領となっていますが、かつては日本領であり、私はその北端で生まれました。

I was born in a place called Sahalin which is a an island that is north of the northern island of Japan which is called Hokkaido and north of Hokkaido is a small island where there are fisheries and mines. The northern part of it now belongs to Russia. used to be old Japan and I was born in the northern tip of that.
(以下インタビュー動画の1:10あたり)


そこでは出生証明書を入手する術がなかったんです。ですから、生後数ヶ月でそこから送り出され、ウラジオストク経由で北京へ向かう途中で出生証明書を手に入れました。北京で子供時代を過ごしたわけです。
(司会者:変わった子供時代を過ごされたんですね。)
ええ、全く違いましたね。

there was no way of getting a birth certificate. So I got a birth certificate on my way from there when I was shipped off at the age of a few months I suppose uh through Vladiviotock onto Peking where I spent my childhood.
You had a a curious childhood didn't you?  No, it wasn't at all like that.


北京という町が大好きでした。あそこは……そうですね、まさに魔法のような町でした。今もそうなのかは分かりませんが、そうであってほしいですね。かつては本当に、魔法のように美しい町だったんです。
ゴビ砂漠からキャラバンがやって来るような、並外れた美しさ。本当に特別な雰囲気がありました。

I loved Peking. I had uh you know Peking is a rather magic town. I don't know whether it's remained that way. I hope so. But uh it it used to be really a magic town of a magic beauty. Extraordinary beauty with caravans coming in from the Gobi Desert. Uh an extraordinary atmosphere.


春になると、いつも日本へ、それも京都へ行かされていました。京都に家を持っている日本人のいとこがいたので、そこへ送られたんです。
というのも、春はあまり良い季節とは言えないからです。いわゆる「黄色い風(黄砂)」が吹くことがあるんですよ。

I was always sent during springtime I was sent to Japan uh to Kyoto. Uh I had a cousin who was uh uh who was Japanese and who had a house there and they sent me there because spring is not particularly good. There are some what they call yellow winds.


Yul Brynner: Russian, Turkish, Romani, Swiss or Eurasian. Pick One. | Parkinson on BBC June 17, 1972



しかし、ここで語っているのは、おおむね嘘だったことがわかっています。


ユル・ブリンナーの息子で、作家・歴史家であったロック・ブリンナーが、ユル・ブリンナーはサハリン生まれではなく、ウラジオストク生まれであることを証明しており、ウラジオストクの生家も探し当てています。

現在、ウラジオストク駅近くの生家の前には、「王様と私」姿のユル・ブリンナーの銅像が立っており、観光名所になっています。


ウラジオストク駅近くのユル・ブリンナーの銅像(下の動画より)


ユル・ブリンナーは、自分の生い立ちを秘密にしたり、神秘化したりしました。

家族が真実をバラそうとするので、家族と不仲になったほどでした。


息子のロック・ブリンナーは、1989年のTVの番組で、以下のように語っています。


彼は自身の人生や生い立ちを徹底的に秘密にしていました。実際、祖父母はモンゴル人だったのか、それともジプシーだったのか――彼が語った話は様々でした。というのも、彼は早い段階で、たとえ事実を正確に話したとしても、報道機関がそれをそのまま記事にすることはないと気づいたからです。

そこで彼は、次々と異なるバージョンの話をでっち上げるようになりました。ある時はジプシーの親を持つことにし、ある時はサハリン生まれ、またある時は中国生まれだと言いました。時には、ジャーナリストに対して単にいくつかの「可能性」を提示することもありました。『ニューズウィーク』誌の特集記事のために、母親がジプシーの女性だったという完全な作り話をでっち上げたことさえあったのです。


1989. A portrait of Yul Brynner with insight from his son Rock Brynner


彼がロシア生まれのロシア人であることは、生前はあまり知られていませんでした。彼が隠したからです。

それは、上で言われるような「神秘化」のためでもあるでしょうが、やはり当時の冷戦下で、ソ連関係者と思われたくなかったからでしょう。

また、北方領土生まれや、京都で暮らしたという話も、日本と関連づけられたほうが有利だと思ったのでしょう。「神秘化」の点でも、政治的にも。


しかし、彼が「ロシア人」であることはある程度は知られており、おそらくそのせいで、彼が主役のハリウッド映画「荒野の七人」は、ソ連で最も観られた西側の映画の一つになりました。


現在、ユル・ブリンナーは、「アメリカ人、またロシア人の俳優」とされることが多いようです。

でも、上述のように、現在ユル・ブリンナーを「観光資源」にしているのは、ロシアです。


日本映画への出演


「京都で暮らした」という話の続きとして、ユル・ブリンナーは日本語を流暢に喋れた、という話があります。

上のBBCの番組のインタビューでも、自分で以下のように語っています。


9年ほど前、日本で映画の撮影をした時のことです。私は「自分は日本語を流暢に話せる」という確信を持って日本へ向かったのですが、現地で話しかけられても何を言っているのか全く理解できず、愕然としました。本当に、一言も分からなかったのです。

それから2週間ほど経つと、相手の言っていることが理解できるようになり始めました。そして1カ月が経つ頃には、今こうしてあなたと英語で話しているのと同じくらい、流暢に日本語を話せるようになっていました。

I did a film uh nine years ago in Japan and and I went to Japan with the conviction that I spoke Japanese fluently and I was uh shocked when I realized I couldn't understand a word that was said to me. Couldn't understand a word. About two weeks later I started understanding what people were saying to me. At the end of a month I was as fluent as I am in English now with you.
(上記動画 4:40あたり)


この「9年前に日本で撮影した映画」というのは、「あしやからの飛行」(1964)のことです。

東シナ海で台風のため遭難した日本の船を、福岡県の芦屋基地から飛び立ったアメリカ空軍が救助するという映画らしい。当時は朝鮮戦争で、米軍が多く日本に駐留していました。

日米合作映画で(配給はユナイテッドアーチスツと大映)、ユル・ブリンナーは、「マイク高島」という、おそらく日系アメリカ人という設定のアメリカ軍人を演じています。

「あしやからの飛行 Flight From Ashiya」のドイツ版予告編


この映画で、「流暢な日本語」を話しているのかもしれませんが、私は確認できませんでした。他の動画でも、日本語を話しているものは発見できていません。

彼は、10カ国を話せたとも言われており、確実にロシア語、フランス語、英語、ロマ(ジプシー)語は話せました。

英語は、おそらく最後に習得した言語ですが、ロシア訛りと言われながらも、ブロードウェイやハリウッドで英語でスターになったわけですから、語学の才能があったのは間違いありません。

日本に近いウラジオストクで生まれ、その後、満州のハルビンで育っていますから、日本語が喋れて不思議ではありませんが、どの程度喋れたのか、情報がほしいところです。


黒澤明との関係


上の関連で、1959年に日本へ行き、黒澤明から「七人の侍」(1953)のハリウッド版の権利を買った、という話もあります。

あたかも、ユル・ブリンナーが、日本語で黒澤明と直談判したような話にもなっていますが。


ユル・ブリンナーが、「七人の侍」のハリウッド版を作ろうと着想したのは確かです。

もちろん、のちの大ヒット作「荒野の七人 The Magnificent Seven」(1961)のことです。


当初は、ユル・ブリンナーが監督で、アンソニー・クインが主演の予定でした。アンソニー・クインがオリジナルの志村喬のイメージに近いのは間違いありません。

しかし最終的には、監督はジョン・スタージェスで、ユル・ブリンナーの主演になりました。(映画が大ヒットした後、契約違反だとアンソニー・クインに訴えられています。クイン側が敗訴)


監督はしませんでしたが、製作側としてユル・ブリンナーが仕切った映画なのは間違いなく、その大ヒットのおかげで、彼は巨額の利益を得ます。

荒野の七人。ユル・ブリンナーを中心に、スティーブ・マックウィーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーン、ロバート・ヴォーンらが共演した。エルマー・バーンスタインのテーマ音楽も有名



しかし、ユル・ブリンナーと黒澤明の間に、密接な関係があったかどうかは、わかりません。

公式には、両者が直接会った記録はないようです。


ユル・ブリンナーが直接、日本に行って買い付けたのではなく、東京の弁護士に指示して権利を買った、と彼自身が説明している動画があります。


これは史上屈指の西部劇だと感じました。日本人が日本の手法で作ったものではありましたが、その構成や全体的な作りは、まさに理想的な西部劇だったのです。帰宅後、東京にいる弁護士――私の親友でもある彼に電話をかけました。時差の都合もちょうど良く、彼をオフィスで捕まえることができました。
そこで私は、『七人の侍』のすべての権利を買い取るよう彼に頼んだのです。翌朝目覚めると、すべての権利を取得し、それが私のものになったことを知らせる電報が届いていました。もちろん、これらすべては『荒野の七人』を制作するという構想のもとに行われたことでした。

(下の動画の1:30あたり)


Behind the Scenes: The Magnificent Seven (Sturges, 1960) with Yul Brynner and Steve McQueen


「荒野の七人」を観て、黒澤明は出来栄えに満足し、賞賛の意味を込めて日本刀をユル・ブリンナーに贈った、という話もあります。

しかし、日本刀を贈った話が本当だとしても、通説どおり、受け取ったのはジョン・スタージェスでしょう。

また、黒澤は「荒野の七人」に必ずしも満足していなかった説もあり、その後も無許可で続編が作られることに死ぬまで怒っていたとも言われます。


この黒澤とユル・ブリンナーの関係についても、もっと情報がほしいところです。


贅沢な暮らしで「堕落」


いずれにせよ、「荒野の七人」の成功で、彼は贅沢な暮らしを極めるようになります。

私が観たなかで、最もまとまっていると思われる、ロシア語で制作された伝記番組「ユル・ブリンナー――伝説と事実」のなかで、以下のように語られています。



「荒野の七人」は1961年に公開されました。批評家たちの反応は冷ややかで、本作を「安っぽい西部劇の一つに過ぎない」と酷評しましたが、一般の観客はこぞって劇場に詰めかけ、莫大な興行収入を記録しました。

こうした主役級の役柄とそれに伴う巨額の報酬のおかげで、彼は豪華な生活を送り始める。ジュネーブの邸宅、ノルマンディーのシャトー、そしてニューヨークの豪華なアパートメントを購入するのだ。さらに、ダリの作品を含む膨大な美術品を収集し、ニューヨークでの移動用にリムジンも買い揃える。

彼は常に大勢の取り巻きを引き連れて行動する。彼自身は熱に浮かされたように彼らを「友人」と呼ぶが、実際には、彼の人生を彩る奔放な享楽に群がるだけの連中に過ぎない。その生活ぶりは実に華やかで、親しい友人にはフランク・シナトラらが名を連ね、時には若き日のケネディもその輪に加わりました。

彼らは豪華なパーティーや酒宴を繰り広げましたが、実はケネディがユル・ブリンナーを大いに気に入っていたのも、まさに彼がそうした場で豪快に羽目を外す術を心得ていたからでした。

(以下の動画18:00あたり)


Юл Бринер. Легенды и факты.(ユル・ブリンナー 伝説と事実 2013)



私が以前、記事で紹介した、ジプシー楽曲をTVのエド・サリヴァン・ショーで披露したのも、このような時期でした。

ユル・ブリンナーは、10代の頃、満州事変を逃れてハルビンからフランスに移動し、パリのキャバレーでジプシー歌手として活動しました。

エド・サリヴァン・ショーでは、ジプシー歌手のアリョーシャ・ディミトリエヴィチと、共演しました。パリで兄貴のように世話をしてくれた、その恩を返すためでした。


Yul Brynner "Two Guitars" on the Ed Sullivan Show


ユル・ブリンナーは、ディミトリエヴィチを自分の邸宅に招きましたが、その時のエピソードが興味深い。


ユル・ブリンナーに自邸へと招かれたアリョーシャ・ディミトリエヴィチは、喜んで旧友のもとを訪れました。

しかし、キャバレー「ラスプーチン」での騒々しい宴やレストランの雰囲気に慣れ親しんでいたはずのその老いたジプシーでさえ、ユルの邸宅で繰り広げられる光景には度肝を抜かれました。

そこではシャンパンが川のように振る舞われ、シャンパン風呂が用意され、肌の露出の多い美女たちが集い、客が絶え間なく出入りしていたのです。

彼はそのあまりの激しさに、ついていくことができませんでした。ユルはまさに、自ら築き上げ、自らの稼ぎで支えていたあのライフスタイルを、その身をもって体現していたのです。

アリョーシャは衝撃を受けた。ある日、屋敷の敷地内を歩いていると、温室が目に入ったのだ。ドアを開けた彼は、思わず後ずさりした。ペンギンの群れが自分の方へ向かってきたからだ。その王国には何百羽ものペンギンがいた。何が起きているのか、彼には理解できなかった。実は、ユル・ブリンナーは単に客を楽しませるためにそれらを買ったのだった。

アリョーシャは恐怖に駆られて逃げ出した。ユルは小道を追いかけながら叫んだ。「アリョーシャ、待てよ! ヘリコプターに乗るんだ、女の子もいるし、シャンパンにキャビアだって……」。

アリョーシャは立ち止まり、こう言った。「ユル、どうしてこんなことをするんだ?  君は幸せじゃない――なぜなんだ?」

かつての友情はもうそこにはなかった。

(上記動画)


老ジプシーが見抜いたように、ユル・ブリンナーは、大成功と贅沢な生活のため、堕落していったようです。

その後、彼は離婚と結婚を繰り返すようになり、映画への出演は多かったですが、「王様と私」「荒野の七人」に匹敵するヒットはありませんでした。

(しかし、ミュージカルに復帰し、「王様と私」の再演で最後まで好評を博します)


セックスマシーン ゲイ写真と美女のはしご


話はさかのぼりますが、ユル・ブリンナーは、1940年にアメリカに渡った当初、20歳の頃から性的魅力で際立っており、モテまくりました。

さっそくアメリカに渡ってすぐ、20歳年上のマリーネ・ディートリヒと関係ができ、その関係は長く続いたとされます。

マリーネ・ディートリヒ(1901ー1992)


彼はその容姿を生かしてモデルもしてましたが、1942年、22歳の時に、ゲイの著名な写真家、ジョージ・プラット・ラインズにヌード写真を撮らせて、小遣い稼ぎをしました。

この写真は、同性愛者たちには有名だそうです。


警告:一応芸術写真ですが、エロ画像なので、閲覧注意!


ユル・ブリンナー自身は、女好きで知られましたが、男性とも関係を持ったバイセクシャルだったと言われます。

アメリカに渡ってすぐ、演劇学校で一緒だった男優のハード・ハットフィールドと噂があったほか、それに先立つパリ時代に出会ったジャン・コクトーとも関係があったと言われます。


しかし、なんといっても華やかだったのは、美人女優たちとの情事でした。

ユルの息子、ロック・ブリンナーは、以下のように言っています。


彼は4度結婚していましたが、数々の女性関係もありました。

たとえばマリリン・モンローとの関係です。1950年代半ばにマリリンと関係を持っていましたが、そのことは唯一の息子である私以外、誰にも極秘にしていました。

それからイングリッド・バーグマン。彼女とは短期間でしたが、とても愛情深い関係にありました。二人は映画「追想(アナスタシア)」で共演しています。

そして、あの『ママは一番星(Mommie Dearest)』のジョーン・クロフォード。1947年の深夜、ある晩に彼女を訪ねたこともありましたね。

ジュディ・ガーランドについては、二人の関係はごく短いものであったにもかかわらず、互いへの想いは、それぞれの人生の最期まで続きました。

(ロック・ブリンナー上記動画)


マリリン・モンロー(1926−1962)


イングリッド・バーグマン(1915ー1982)


ジョーン・クロフォード(1906ー1977)


ジュディ・ガーランド(1922ー1969)


ジェームズ・コバーンとの確執


ユル・ブリンナーは、1985年に肺癌のため65歳で亡くなりますが、その葬式に、「荒野の七人」で共演したジェームズ・コバーンは参列しませんでした。

その理由について説明している動画がありました。


『荒野の七人』の撮影中、コバーンはユル・ブリンナーとの間に深刻な問題を抱えていたと伝えられています。

当時、ブリンナーは『王様と私』で既に大スターの地位を確立しており、撮影現場でも絶大な影響力を持っていました。コバーンによれば、ブリンナーは現場を完全に支配しようとし、若手俳優たちに劣等感を抱かせるような振る舞いをすることも少なくありませんでした。

コバーンは後に、ブリンナーが自身の「見せ場」を徹底的に守ろうとしていたと語っています。カメラの位置やリハーサルの進め方、さらには俳優の立ち位置(ブロッキング)に至るまで、すべてがブリンナーを常に注目の中心に据えるよう計算されていたと彼は考えていたのです。

現場の緊張関係について沈黙を守る俳優もいましたが、コバーンはその時の経験を生涯忘れることはありませんでした。

ここで、噂と真実が重要になってきます。あるファンは、コバーンがブライナーの葬儀を欠席したのはスケジュールの都合や個人的な悲しみによるものだと考えていました。

一方、1985年にブリンナーが亡くなる前に、二人が密かに関係を修復していたと考える人たちもいました。

しかし、コバーンは後に、そのどちらの話も事実ではないことを明らかにしました。彼は、ブリンナーに対して今もわだかまりを抱いていることを公然と認めたのです。

コバーンはブリンナーの才能を認め、彼が圧倒的な演技力を持つ演者であることも認めていたが、製作中に彼が見せた他人への振る舞いだけは決して許せなかった。コバーンにとって、葬儀に参列することは不誠実な行為に思えたのだ。


Why James Coburn Didn’t Attend Yul Brynner’s Funeral


「荒野の七人」でのジェームズ・コバーン



死の床で歌ったジプシー歌曲


上のロシア語の伝記番組は、死の間際に、ブリンナーがジプシーの歌「ジ・エンド・オブ・ザ・ロード」を歌った感動的なエピソードを紹介しています。


人生の最期の数カ月間、彼はイリーナ(ロシアから呼び寄せた従姉妹)とロシア語で話すだけで、他の誰ともほとんど接触を持ちませんでした。

そして、最期の時が近づいた頃、イリーナの回想によれば、彼はすでにベッドに横たわったまま、ギター​​を求めました。

起き上がることなくそれを受け取ると、彼は驚くほど力強いバリトンで、古いジプシーのロマンスを歌い始めました。

それは、彼が、アリョーシャ・ディミトリエヴィチから教わった歌でした。

「旅は終わり、私は疲れ果て」

「胸も心も、しばしの安らぎを求めている」


Yul Brynner "The End of the Road" - Russian Romani Gypsy song



彼の人生は、胸を打つものがありますね。

比較的裕福な家庭に育ったとはいえ、流浪の人生の中で、自らキャリアを切り拓き、数々の美女と恋愛と結婚を重ね、好き放題に「王」のように生き、しかし心の奥では「ジプシー」の悲哀を感じていました。


なお、彼の2000万ドルを超えると言われた莫大な遺産は、遺言により、がんになってから結婚した最後の妻、彼より37歳若い1957年生まれの中国人ダンサーに遺されました。

実の息子であるロック・ブランナーや、ベトナム人の養女たちには、何も遺されなかったそうです。

なぜ彼がそうしたのか、わかりません。上のロシア語の番組では、「謎めいたロシアの魂のなせるわざ」としています。


ロック・ブリンナーは父親についての本をいくつか書いており、彼の著書の翻訳『ロシアからブロードウェイへ:オスカー俳優ユル・ブリンナー家の旅路』は、群像社から2023年に出ています。

私は読んでいませんが(高いので買えない)、もっといろいろと書かれているかもしれません。


ロック・ブリンナーは、父のユル・ブリンナーがいかに特殊な人間であったか、上掲の動画で、以下のような印象的なエピソードを紹介しています。


多くの点で、私は彼のような人間にはなれなかったでしょう。彼は、突然の虫垂炎に見舞われた際、手術中に意識を保てるよう脊椎麻酔を希望したような人物でした。それどころか、単なる好奇心から、自分の虫垂切除手術の様子を撮影するために鏡を設置したほどです。自身の肉体や痛みに対して見せた、あの超然とした態度――あれを真似するのは、並大抵のことではありません。


ユルの唯一の息子だったロック・ブリンナーは、2023年、76歳で亡くなりました。


<参考>


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