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AIで仕事は速くなった。でも、私は本当に「判断」しているのか。孟子の「尽信書、則不如無書」から考える、AI時代の意思決定

私は本当に「判断」したのか

AIに相談して、返ってきた答えを読んで、私は「これでいこう」と決めました。

内容にはほとんど違和感がなかったので、そのまま進めました。

でも後になって、一つだけ引っかかったことがあります。

私はあの時、本当に自分で判断したのだろうか。

相談していたのは、今運用しているInstagramアカウントについてでした。これまでの課題や仮説、今後の方向性をまとめて、AIに意見を求めました。返ってきたフィードバックは、続けた方がいい部分とやめた方がいい部分がはっきり整理されていて、自分では気づいていなかった論点まで拾われていました。

以前、SNS広告運用の会社に勤めていた頃も、上司から施策についてフィードバックをもらうことはよくありました。

その時は、ただ「分かりました」と受け取るだけではなく、「なぜそう考えたんですか」と聞けば、過去にどんな施策をやったのか、どんな失敗や成功があったのか、その人自身の経験を交えながら話してもらえます。私も自分の考えを伝え、その場で質問しながら、少しずつ納得して進めていました。

振り返ると、そのやり取り自体が、私にとって「自分で考える時間」になっていたのだと思います。

一方で、AIから返ってくる答えは、最初からかなり整理されています。論点は分かりやすく、抜けていた視点まで補われている。読めば筋も通っているように見える。

もちろん、AIにも「なぜそう考えたのか」「その根拠は何か」と聞くことはできます。

でも私は、その完成度の高い答えを前にすると、そこまで問い直さず、「確かにそうだな。じゃあ、これで進めよう」と、そのまま採用してしまうことがありました。

そこで、ふと怖くなりました。

私はこれを、自分で判断したのだろうか。

それとも、AIが出した結論を承認しただけなのだろうか。

「尽く書を信ずれば、書無きに如かず」

権威ある情報でも、そのまま信じてはいけない—そう2000年以上前に言った人物がいます。

儒家の思想家・孟子です。当時、数ある書物の中でも特に権威があったのが『書経』でした。古代の政治や出来事を伝える、儒家にとって重要な古典の一つです。

孟子が読んだ『書』の「武成」には、周の武王が暴君・紂王を討った戦いについて、こう記されていました。あまりに多くの血が流れ、杵(きね)が浮かんで流れるほどだった、と。

孟子はこの記述を読んで、こう言いました。

尽信書、則不如無書 ——尽く書を信ずれば、則ち書無きに如かず

『孟子』尽心下

ここでいう「書」は、一般的な書物ではなく『書経』を指します。

つまり、「『書経』だからといって、そこに書かれていることをすべて信じるなら、むしろ『書経』がない方がましだ」というほど強い言い方です。

孟子の理屈はこうです。武王はこの上ない仁者であり、紂王はこの上ない暴君だった。仁者が暴君を討つ戦いで、そこまで凄惨な流血が起きるはずがない。だから、この記述はどこかで誇張されているはずだ、と。

孟子は「書物を読むな」と言ったわけではありません。古典を重んじながらも、そこに書かれていることを無条件には受け入れませんでした。私はこの言葉を、権威ある情報であっても、自分で吟味せずに受け入れない姿勢として読みました。

AIの答えを承認しているだけではないか

孟子が語ったのは、もちろんAIや現代の意思決定についてではありません。ここから先は、この言葉を今の自分の仕事に重ねた、私自身の解釈です。

孟子がしていたのは、情報を受け取ることと、それを自分で吟味することを、はっきり分けるという姿勢だったのだと思います。書物に書かれているから正しい、ではなく、書物に書かれていることを、自分の頭でもう一段検討する。

これをAIに置き換えると、こうなります。

AIがどれだけ優れた答えを出しても、その答えを採用する根拠までAI任せにしてしまったら、私は「判断者」ではなく「承認者」になってしまうのではないか。

実を言うと、この文章を書いている今も、私はAIを使っています。だからこそ、他人事ではありません。もし私が、AIの出してきた解釈をそのまま受け取って文章にしていたら、このnoteそのものが、私ではなくAIの判断で作られたものになってしまいます。

このnoteを書く時に、自分で決めていること

このnoteを書く時にも、私はラインを決めています。

古典の候補を探したり、論点を整理したり、文章を壁打ちしたりするところでは、AIをかなり使います。

でも、記事の核になる言葉については、原典や前後の文脈を自分で確認するようにしています。AIを疑っているからではありません。最後に「これは自分が信じて出している言葉だ」と言える状態にしておきたいからです。

とはいえ、AIが出してきたものを、毎回すべて自分で調べ直すのは現実的ではありません。そこまでやれば、AIを使うことで得られるスピードまで失ってしまいます。

私自身、今の仕事でAIを使わないという選択肢は、もう現実的ではないと感じています。だから今回たどり着いたのは、「AIを使うか、使わないか」という二択ではありませんでした。

AIに何を任せ、どこから先を自分で引き受けるのか。その線を、自分の側で決めておくということです。

情報を集めること、選択肢を整理すること、文章の構成を一緒に考えること。ここまでは、AIにかなり任せています。

でも、最後に「これが正しい」と判断する根拠だけは、自分の中に残しておきたい。少なくとも、なぜその結論を採用したのかを、自分の言葉で説明できる状態にしておきたい。そう思うようになりました。

AIに任せることと、責任を手放すことは違う

AIによって、考える速度はこれからも上がっていくと思います。

だからこそ私は、

「自分自身が責任を持って意思決定する場所は、どこなのか」

を曖昧にしないでいたい。

あなたが今、AIに任せていることの中に、なぜその結論を選んだのかを、自分の言葉では説明できないものはないでしょうか。

孟子は、当時もっとも重んじられていた『書』を前にしても、

尽信書、則不如無書——尽く書を信ずれば、則ち書無きに如かず

『孟子』尽心下

と言いました。

権威あるものだから信じるのではなく、最後は自分でもう一度吟味する。

AIがどれだけ賢くなっても、この姿勢まで手放してしまえば、私たちは「考える人」ではなく、出された答えを承認する人になってしまいます。

AIに任せることと、責任まで手放すことは、同じではない。

2000年以上前に孟子が『書』を疑ったように、私もAIの答えを前にした時、自分の頭で最後の一歩を考える人でいたいと思います。

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