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わらびごはん

東京の住宅地を歩いていて、山を身近に感じる瞬間はまずない。アスファルトはどこまでも平坦で、並木は自治体の管理下にあり、鳥の声とフンは電線から降ってくる。

けれど、時に「山」は段ボール箱に詰められて宅急便のトラックで届けられる。

箱を開けると、大量のわらびがまだ北国の冷気をうっすらと纏った状態で新聞紙に包まれていた。くるんと丸まった頭頂部は、何か大切なものを握りしめて隠しているようにも、地中の何かを招き寄せているようにも見える。

「たくさん採れたから送るね。あく抜きは自分でやって」

淡い紫陽花が透ける便箋にはC子の美しい文字が並んでいた。

わらび尽くしが叶う贅沢な量である。出汁を引き、まずは瑞々しい素材そのものを味わうためのお浸しと、わらびごはんにしよう。

茶碗から立ち上る、少し湿った土や木々を思わせる濃い緑の香りを嗅ぎながら、ふと、この植物がかつてどれほど不気味な「野生の領域」の象徴であったかを思い出し、父の古い本を手に取る。

日本民俗学の祖である柳田國男は、大正十四年に発表した『山の人生』の中で、山仕事という日常の労働が、いかに簡単に人間を異界へと引きずり込むかを淡々と記録している。

柳田國男『山の人生』
十八 学問は未だ此不思議を解釈し得ざる事

日向(宮崎県)の山深い地域には、山に入って働く女性たちが不意に強烈な睡魔に襲われて眠ってしまう場所があり、そうした際にはしばしば身ごもるため、当時の人々はそれを「蛇の仕業」だと恐れていたという。現に近年も、ある家柄の夫人が春にわらびを採りに行きまさにその怪異に遭っている。彼女は山の中で眠ってしまった後に身ごもり、「もしや蛇の子を孕んだのではないか」と、実際に出産を迎えるまで一通りではない恐怖と心痛を味わったそうだ。

現代の感覚からすれば、山での行き倒れがもたらした幻覚だとか、村の人間関係の隠蔽、ただの心理的な錯覚として片付けられてしまうだろう。

しかし柳田の筆致は、それらの怪異をオカルトとして煽ることもなければ科学のメスで解剖して冷笑することもない。ただ、「かつてそういう事実が人々の間で確かに存在し、恐れられていた」という態度を崩さない。 

なぜ「わらび」と「蛇の子を身ごもる怪異」が結びつくのか。

わらびが好んで群生するような斜面や湿り気のある藪の奥は、本質的に蛇の住処でもある。

わらびを採ることに夢中になり、知らず知らずのうちに人間側の境界線を越えて野生の領域へ深く踏み込んでしまったとき、人は自然の持つ圧倒的な脅威、あるいはその化身としての「蛇」の気配に晒される。当時の人々がその異変を、山の神の領域に侵入した代償だと考えたのは、合理的な防衛本能だったと言える。

この「蛇の子を孕む」という生々しい恐怖の伝承は、現代の私たちにとっても決して無関係な過去のファンタジーではない。

近年増えている山菜採り中の「熊との遭遇」や遭難の多発は、まさにこの古い伝承が形を変えて現代に現れたもののように思えてならない。

どれだけテクノロジーが発達し、GPSの画面を握りしめていようとも、深い木の葉に遮られれば容易に狂う。管理された山菜園ならいざ知らず、本来山菜が自生する多くの場所には、人間のコントロールが利かない野生が潜む。

山の恵みにあずかろうとする人間の欲が、ふとした瞬間に防衛線を緩ませ、野生のルールが支配する空間へと足を踏み入れさせる。

かつての女性たちが理由のない睡魔に襲われ、蛇の気配に怯えたように、現代の山菜採りたちもまた、静まり返った藪の奥で、突如として牙を剥く本物の野生(熊)と対峙することになるのだ。そこには人間側の都合や法律など一切通用しない。伝承が遺した「蛇への恐怖」は、人間に対して「ここから先は野生の領域である」と伝える、切実な警鐘だったのではないか。 

だからこそ、私たちはあくを抜くという面倒な手間をかけてまで、わらびを食べようとするのかも知れない。わざわざ灰を振りかけて熱湯を注ぎ、一晩待つというプロセス自体が、野生の毒や異界の気配を、安全な日常の食卓に迎え入れるための一種の儀式のように思えてくる。

都会の隅で、ふっくらと炊き上がった「わらびごはん」を口に運ぶ。 

米の甘みのあとに広がる、わらび特有のわずかなぬめりと鼻に抜けるかすかな山の青臭さ。それは、どれだけ丁寧にあくを抜いて調理を施しても完全には消し去ることのできない野生の主張そのものだ。 

C子が山でこれを採ったとき、彼女の足元にはあの滑らかな蛇の影が、背後には静寂に紛れた黒い獣の息遣いが潜んでいなかっただろうか。

もしそうだったとしても、長年疑うことなくピスタチオを殻ごと咀嚼していた彼女のことだから、ちらと一瞥して淡々と作業を続けたに違いない。いや、そんな呑気な冗談を言ってはいられない。十二分に気をつけてほしいと礼のピスタチオに手紙を添えた。

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