楽器業界とわたし|Complete edition
松下を辞め妻を娶り帰京したはいいものの次の一手が浮かばない。
そうだ!プレイヤーとしての才能の限界は悟ったので、サプライヤーとして楽器業界に携わろう。京都で理想の楽器店をやろうと考え付いた。当時わたしが好きだったSadowskyやSuhr、James Tylerなど所謂ハイエンド・ギターに特化した店をやりたい。実際に手に取って弾いてもらい気にいってくれたお客さんにだけ売りたい。音楽や楽器談義に耽ることが出来る喫茶コーナーも設けよう。店のコンセプトは決まった。店名はシンプルにPREMIUM GUITARS KYOTOにしたい。
となると、就職先として目指すのはSadowsky、Suhrの輸入代理店であるOインターナショナルしかない。
34歳のおじさんの挑戦が幕を開けた。
まずは楽器業界へのコネクションを築くべく専修学校であるESPギタークラフトアカデミーに入ることにした。20代前後の若者に交じっていかにも頭の悪そうな講師に教わりながら、せっせと木材を削った。
取り敢えず音楽業界が集中する東京に出る必要がある。クラフトマンになる気は更々なかったので学校に求人が来るのを待った。そんなとき、K楽器の求人が出た。わたしは新卒学生に交じり筆記試験と二度の面接に挑んだ。大手企業での10年間の社会人経験がものを言ったのか余裕で内定を取った。
これで東京へ行ける。
学校はインターン扱いで休学することになった。早速、学校で知り合った彼女と一緒に上京の準備を始めた。
K楽器で新宿店に配属されることになった。住まいはどういう経緯だったか忘れたが東武東上線の中板橋に決めた。東京の下町という感じでとても住みやすいところだった。
店頭に立つ販売員である以上、数字に追われるのは当たり前だが、劣悪な労働環境には戸惑った。食堂などあるわけもなくトイレの横の狭苦しい給湯室で弁当をかきこんだ。休みは平日のみ。連休などあるはずもない。同棲していた彼女と遊んでいる暇もなかった。

人通りの多い店舗だったので売上げはそこそこ立った。月に2~300万は売ったと思う。歪みではなく歪み、素人くさいのでギターチューナーは使わない、試奏させるときはギターの粗が隠せるよう大きなアンプでディストーション・サウンド、売りたいものではなくお客さんが買いたいものを売りつける、など(自分ではやりたくない)様々なテクニックを教わった。
渋谷店に数日応援に行かされた。GibsonのSGを見に来た少年に一通り接客した。その日は「少し考えます」と帰ったが数日後ちゃんと来て買ってくれた。ハードケースを物置に取りに行くと乱雑過ぎてどこに何があるのか全く分からず悪戦苦闘した。ちゃんと整理しろよ、と思った。つまらないエピソードで恐縮だがとても印象に残っているので書き残しておきたかった。
ホームである新宿店は年下の副店長が器の小さな奴でことあるごとに苛められた。屋上でかつて栄光の頂点にいた自分自身と比較してあまりの落差にひとり悔し涙を流したこともある。あるとき、あまりにムカついたので退社後、踵を返して店に走って戻り副店長を蹴り倒した。
それでも、夢に向かって歩き始めたという充実感はあった。
そうこうするうち、Oインターナショナルの求人が出た。副社長との面接に臨み「年齢的には異例だが」と言い添えられながらも無事入社が決まった。会社は世田谷にあったので上野毛に引っ越した。

先輩社員(といってもこれまた年下)の同行で新宿、渋谷、池袋、お茶の水、三鷹などの楽器街を回った。担当として横浜、町田を与えられた。横浜の島村楽器を新規開拓したのは良い思い出だ。ミュージシャン志望の店員さんに馴染んで貰おうと金髪にしたのもこの頃だ。

社内でTHE ALFEEの高見沢さんのラックシステムを組んでいた。ローディに就いていたクラフトマンは大の仲良しだった。彼の勧めによりSuhrで試奏させてもらったが素晴らしいサウンドに圧倒された。当時の嫁がTHE ALFEEの大ファンだったので「楽屋で高見沢さんに会えないかな?」と訊くと「それは絶対に無理だよ」と言われた。
イシバシかどこか忘れたが店員さんを食事に誘って「馴れ馴れしいんだよね」と吐き捨てるように言われた。社用車のバンの中でひとり泣いた。発達障害ゆえか相手との距離感を図るのが苦手だったようだ。営業部長が頭を下げに行って事なきを得た。
イケベ楽器のとあるお店の改装の応援に行った。その辺に立っていたおじさんに「大変ですね」と話しかけたら食事に誘われCoCo壱に行った。名刺交換するとイケベの社長さんだった。翌朝、営業部長に「蒼乃、昨夜は大活躍だったんだって!」と開口一番に言われて照れたのも良い思い出だ。
しかし、崩壊の日は迫っていた。
なかなか成績は伸びなかった。営業部長に「お前は能力がないからテリトリーが狭いんだよ」と罵声を浴びた。数ヶ月が過ぎたとき、副社長に呼び出された。「会社に闘いに来ている姿勢が見えない」「君に電話がかかってくるのを聞いたことがない」「周りからも、なんやあのおっさん、みたいな感じで浮いている」「大企業の垢が抜けていない」と冷静な言葉ながらも散々に言われ、解雇を示唆された。
わたしは受け入れた。
「もう一度やらせてください!」
と頭を下げる気力はなかった。
それでも、楽器業界の求人を探してBacchusブランドで有名なディバイザーの内定を得た。しかし、一度折れた心は戻らず結局辞退した。
わたしの夢は呆気なく潰えた。いや、夢というより単なる逃避だったのかもしれない。わたしの楽器に対する情熱などその程度だったのだ。あのとき、わたしに解雇を告げたのは副社長の優しさだったのかな…といまは思える。
しかし、挫折は挫折。
楽器店で試奏すると「お仕事用のギターですか?」と訊かれるほどの腕前だったギターは触る気にもなれなくなった。あんなに愛読していたギターマガジンやプレイヤーも辛くて読むのを止めた。

でもいまは、やらなかった後悔より、やった挫折のほうが経験値という財産になったと思っている。
因みに、PREMIUM GUITARS KYOTO予定地はガレージとなりGR86が原寸大の置物として鎮座している。

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