見出し画像

旧約聖書の一週間を、無自覚に生きている日本人

旧約聖書の天地創造の話を読んでいて、面白いと思った。

神が世界を七日で作る。

一日目に光が生まれ、昼と夜が分かれる。
二日目に空ができる。
三日目に海と大地が分かれる。
四日目に太陽、月、星が作られる。
五日目に水の中の生き物と鳥が作られる。
六日目に地上の生き物と人間が作られる。
そして七日目に神は休む。

ここで驚いたのは、単に「世界は神が作った」という話ではなく、そこに「一週間」という時間のリズムがすでに刻まれていることだった。

六日働いて、七日目に休む。

今の僕たちにとっては、月曜から金曜まで働いて、土日に休むという感覚はあまりにも当たり前になっている。でも、その根っこをたどると、旧約聖書の天地創造や、ユダヤ教の安息日の思想につながっている。

もちろん、七日周期そのものには古代メソポタミアや月の満ち欠けとの関係もあるらしい。ただ、ユダヤ教の中でそれは「六日働き、七日目に休む」という宗教的・倫理的な形を与えられた。

つまり、一週間とは単なる便利なカレンダーではない。
そこには、神が世界を作り、神が休んだという、かなり深い宗教的な物語が埋め込まれている。

でも日本人は、そのことをほとんど意識していない。

日本にこの西洋式の週制度が本格的に入ってきたのは、明治の近代化の流れの中だった。太陽暦が導入され、官庁でも日曜休み、土曜半休のような制度が整えられていく。

つまり日本人は、旧約聖書を信じているわけでもなく、ユダヤ教の安息日を理解しているわけでもなく、キリスト教的な時間感覚を自覚しているわけでもない。けれど、生活のリズムとしては、その流れを受け継いだ「一週間」の中で生きている。

ここが面白い。

日本人は、外から来た制度や文化を受け入れるとき、その背後にある信念や教義まで一緒に受け入れるとは限らない。むしろ、意味の中身は抜いて、形だけを生活に取り込むことが多い。

クリスマスもそうだ。

本来はキリストの降誕を祝う宗教的な日である。けれど日本では、イルミネーション、ケーキ、プレゼント、恋人たちのイベント、商業的な祝祭になっている。

チャペルでの結婚式もそうだ。

本来なら、神の前で誓うという宗教的な儀式である。けれど日本では、白いドレス、バージンロード、ステンドグラス、厳かな雰囲気という「様式美」として受け入れられている。

中身はない。
けれど形はある。

そう考えると、日本文化には一種の空虚さがある。外来文化の信仰や思想の核を抜いて、感じのいい様式として取り込んでしまう。

ただ、この空虚さは、単なる弱さとも言い切れない。

日本には、日本なりの宗教的な根っこがある。

たとえば、本を踏んではいけないという感覚。
道具を粗末にしてはいけないという感覚。
野球選手がバットやグローブを大切にし、グラウンドにお辞儀をする感覚。
古い人形をそのまま捨てにくく、供養したくなる感覚。
山や森や大木や岩に、なんとなく神聖な気配を感じる感覚。
神社にお参りする。
初詣に行く。
お守りを持つ。
墓参りをする。
「ここは気がいい」と感じる。

これは、教義としての宗教ではない。
文章化された信仰告白でもない。
けれど、かなり深いところにある宗教感覚だと思う。

八百万の神。
自然信仰。
祖霊信仰。
アニミズム。
ものには魂が宿るという感覚。

日本人の根っこには、そういう土着的で身体的な宗教性が残っている。

キリスト教やイスラム教のような一神教は、神とは何か、世界はなぜ存在するのか、人間はどう救われるのか、罪とは何か、死後どうなるのか、歴史はどこへ向かうのか、という大きな体系を持っている。

一方、日本的な宗教感覚は、もっと具体的だ。

この木は切りにくい。
この井戸は粗末にできない。
この本は踏めない。
この道具には魂がありそうだ。
亡くなった人に申し訳ない。
この場所では手を合わせたい。

目の前のもの、場所、自然、死者、道具への畏れから始まる。

だから、日本人は外来の宗教や制度を受け入れるときも、「それが本当かどうか」より、「それが場を整えるか」「気分に合うか」「生活に使えるか」を重視するのかもしれない。

一週間は、宗教的な意味を抜かれて、学校や会社や役所のリズムになった。
クリスマスは、救済の物語を抜かれて、冬の祝祭になった。
チャペル結婚式は、信仰を抜かれて、人生の節目を演出する様式になった。

中身を抜いて、形だけを受け入れる。
でも、その形は完全に無意味ではない。
日本人はそこに、自分たちなりの「場の感覚」や「節目の感覚」を流し込んでいる。

だから日本の宗教性は、上から見ると空っぽに見える。
でも下の方には、かなりしぶとい感覚が残っている。

世界はただの物質ではない。
場所には気配がある。
道具には魂がある。
自然には力がある。
死者や先祖はどこかで見ている。
だから、粗末にしてはいけない。

旧約聖書の一週間を、ほとんど意味も知らずに使っている日本人。

その無自覚さは、たしかに空虚でもある。
けれど同時に、日本人が外来文化を自分たちの生活感覚に変換してきた歴史そのものでもある。

信じていないのに使える。
意味を知らないのに馴染む。
中身を抜いて、形を暮らしにする。

そこに、日本文化の弱さと強さが同時に表れている気がする。

いいなと思ったら応援しよう!