第7部飛鳥時代(3)律令制度の功罪
#序説
大化の改新(645)〜平城京遷都(710)までの主要年表
① 645年 乙巳の変(蘇我氏滅亡)=大化の改新: 中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我入鹿を討ち、豪族支配の終焉が始まる。 → 庶民にとっては「支配者が変わる」だけで、生活の不安が増す。
② 646年 改新の詔(公地公民制・班田収授法の方針) 豪族の私有地・私有民を廃し、土地と人民を国家が直接把握する方針が示される。 → 戸籍作成・田地調査が始まり、村々に“国家の目”が入り込む。
③ 663年 百済滅亡・白村江の戦いで日本大敗 → 九州の防衛強化(水城・大野城)、防人の徴発など、庶民の負担が急増。
④ 667年 近江大津宮遷都 → 都の移転に伴う物資輸送・労役が地方農民に重くのしかかる。
⑤ 670年 庚午年籍=こうごねんじゃく(初の全国的戸籍)作成 → 班田収授法の実施準備。村ごとの人口把握が厳格化。
⑥ 672年 壬申の乱(天武天皇即位) → 内乱による徴発・逃散・荒廃。勝者側の新体制で戸籍再整備が進む。
⑦ 689年 飛鳥浄御原令施行(天武〜持統) → 班田収授法の実施体制が整い、租庸調の徴税が本格化。
⑧ 694年 藤原京遷都 → 都城建設のための木材・布・労働の徴発が増大。
⑨ 701年 大宝律令完成(律令国家の成立) → 班田収授法・租庸調制が法的に確立。庶民の負担が制度化される。
⑩ 710年 平城京遷都(奈良時代へ) → 都城制が完成し、律令国家の徴税・労役が全国に浸透。
7世紀半ばの倭国は、豪族同士の争いが続き、中央の力はまだ弱かった。 その中で、のちに「律令国家」へつながる大きな転換点となったのが、大化の改新である。 だがその改革は、政治の舞台だけでなく、村々の暮らしにも静かに、しかし確実に影響を及ぼしていった。
■ 大化の改新 ― 中央集権への大きな賭け
645年、中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我氏を倒して政権を握る。 これが「大化の改新」と呼ばれる政治改革の出発点である。
彼らが目指したのは、豪族が土地と民を私物化する古い仕組みを壊し、 天皇を中心とした新しい国家をつくることだった。
● 公地公民 ― 土地と人を“国家のもの”へ
改新の中心となったのが公地公民の理念である。 土地は豪族の私有ではなく国家のもの、 人々も豪族の支配下ではなく国家の民――。
この考え方は、庶民の生活に直接関わる大転換だった。 なぜなら、誰に税を納め、誰の命令で働くのかが変わるということだからだ。 豪族の館に仕えていた農民たちは、これからは“国家の農民”として扱われるようになる。
■ 班田収授法 ― 土地を割り当て、税を取る仕組み
公地公民の理念を実際の制度にしたのが、班田収授法である。 これは6年ごとに戸籍を作り、 ・6歳以上の男女に口分田を与える ・死ねば返させる という仕組みだった。
●① 対象者
6歳以上の男女すべてに口分田を与える(戸籍に基づく)
男性は2反、女性はその2/3程度(地域差あり)
●② 口分田の性格
売買禁止
死亡時に国家へ返還(公地公民制の根幹)
●③ 6年ごとに班田(再配分)
戸籍作成(庚午年籍など)に基づき、6年ごとに田地を再配分
実際には遅延・未実施が多い(後述)
●④ 税負担(租庸調)との連動
租:口分田の収穫の約3%を稲で納める
庸:成年男子が都で10日間の労役、または布で代納
調:成年男子が特産物を納める(布・絹・鉄など)
●⑤ 労役(雑徭=ぞうよう)
年間60日以内の地方労役
都城建設・道路整備・運搬など
この土地で農民は稲を作り、 その収穫から租(そ)を納める。 さらに、布を納める調(ちょう)、労役の庸(よう)など、税の体系も整えられた。
● 庶民にとっての“功”と“罪”
班田収授法は、 「土地を与えられる」という点では庶民に安定をもたらした。 しかし同時に、 「国家が戸籍で人々を管理し、税と労役を確実に取り立てる」 という重い側面もあった。
つまり、律令制度は 庶民の生活を守る仕組みであると同時に、縛る仕組みでもあった という二面性を持っていた。
② 公地公民制の理念と現実の乖離
豪族(のちの郡司層)が依然として土地支配力を保持。
実際には“国家の土地”より“地元有力者の土地”として扱われる場面が多い。
③ 労役・運搬負担の過重
租庸調に加え、都城建設(藤原京・平城京)で雑徭が激増。
遠隔地(九州・東北)では運搬負担が特に重く、労役のために農作業ができない事態が頻発。
④ 口分田の返還義務が農民の生活を不安定化
家族の死亡・離散で口分田が返還され、残された家族の耕作面積が急減。
再配分が遅れるため、“田がない期間”が生じる。
⑤ 戸籍・計帳の厳格化による「逃散」増加
租庸調の負担が重く、農民が村を離れる逃散が増える。
逃散者が増えるほど、残った農民の負担がさらに増す悪循環。
⑥ 白村江敗戦後の防衛強化による負担増
防人・兵士の徴発、九州の城柵建設などで労役が増大。
特に西国の農民は、戦争の後始末の負担を直接背負う形となった。
⑦ 気候変動・災害時の救済制度の不備
凶作時でも租の免除が十分に行われず、生活破綻が頻発。
班田収授法は“平年作”を前提としており、現実の農村に合わない。
■ 天智天皇 ― 改革を進めたが、重税の影も
中大兄皇子は即位して天智天皇となり、 近江大津宮でさらに制度改革を進めた。
だが、戸籍や税制が整うほど、 庶民の負担は“制度として”重くなっていく。 豪族の支配から国家の支配へ――。 その変化は、村々の暮らしに確実にのしかかり始めていた。
■ 壬申の乱 ― 権力争いが庶民を巻き込む
672年、天智天皇の死後、後継をめぐって壬申の乱が起こる。 大海人皇子(のちの天武天皇)と大友皇子の争いである。
この戦いは、政治の中枢だけの出来事ではなかった。 各地の豪族や農民が動員され、 村々は兵糧の供出や徴発に追われた。
権力闘争は、庶民の生活を直接揺さぶる。 この時代の典型が壬申の乱である。
■ 天武天皇 ― 律令国家の骨格を固める
勝者となった天武天皇は、 天皇中心の国家体制をさらに強化し、 のちの大宝律令へつながる基礎を築いた。
氏姓制度の再編、戸籍の整備、軍事力の強化――。 これらは国家の安定をもたらしたが、 同時に庶民はより厳密に“国家の民”として管理されるようになる。
🌾 この時代の“におい”
飛鳥の村々では、稲穂が風に揺れ、 人々は相変わらず田を耕し、祈りを捧げていた。
しかし、都では豪族が倒れ、天皇が代わり、制度が変わる。 そのたびに、 ・納める税の量 ・働く日数 ・村の役目 ――こうした“生活の重さ”が変わっていく。
庶民は政治の表舞台には立たない。 だが、政治の変化は必ず庶民の肩に重さとなって降りかかる。 これこそが、飛鳥後期から奈良へ続く律令国家の本質である。(つづく)
