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君は生きているのか

生命保険のセールスレディは母の友達だった。

「そろそろガンに備えた保険に変えたほうがいいわよ」

と言われても、私は上の空で

「おばちゃん、ありがとう。また今度ね」

と軽く交わしたのは、つい先月のことだ。


例年より早い梅雨入りをした頃、誰もが夏の訪れが早まるのではないかと嫌な予感を漂わせた朝だった。

ベッドの中で目が覚めてから、自分の体の違和感に気づくまで、多くの時間を必要としなかった。ただ、いつもと「何か」が違うだけで、明確な何かは顔を洗って、洗面台の鏡を見るまではっきりとしなかった。

そして、その嫌な予感は、暑さだけに広がったのではなく、私自身にも例外なく広がり始めていた。


その違和感は首のリンパ節の腫れと発熱を気づかせたけれど、そんなことは誰だって長い人生の途中、生きていれば、一度や二度、経験することでしょう?と、咄嗟に誰でも思うのではないだろうか。それを裏付けるように、最初に訪れた内科のクリニックでは、よくあるリンパ節炎だと言われた。「念のため」大きな病院で診てもらってと言われたじゃないか。念のため、と。
それなのに、一向に熱も下がらず、リンパの腫れも引かない。行き先は、白衣を纏う人々に近所づきあいのような親しさのあるクリニックから、清潔で洗練された簡素な白衣を纏う総合病院になり、機械化と細分化で人々を縦割に廊下に座らせる総合病院では、いくつかの診療科を回ることになった。朝の光に包まれて、病院に入ったはずなのに、今夜はここで過ごすしかないねと、乗り継ぎがうまくできなかった時に空港で味わう夜のような空気を漂わせる時間まで滞在することになるほどだ。


そんな日を何回か重ねたあと、「しばしば起こるリンパ節炎を伴う感染症だと思うけれど」と最初に言った医師は、裏切るように「悪性の可能性も考えましょう」と言い出した。


は?

あの状況で、それ以外の言葉を見つけられる人はいるのだろうかと、会計の番号札を見つめながら思った。

ピピという音とともに、番号が表示され、自動精算機の前に立つ。自動精算機には、8,800円と表示され、毎回1万円前後の出費は、じわじわと痛いなと感じる。


無表情の空間で放たれた「悪性かも」という言葉の「かも」が持つ余白の破壊力は想像以上だった。誰でもいいから泣き声で掻き消してくれと願うほど、静かに事実だけが並べられた。そして検査が進んでいくほどに「かも」の余白が、始まろうと意気込む夏の光にどんどん消されていった。まるで季節のほうが先に、未来へ進む決意したようで、世の中のすべてに裏切られた気分になる。

誰が何と言っても、きっと夏は訪れる。誰が何と言っても、私の状況が悪性「かも」しれないという事実が変わらないように。今日も生きていたから、明日も当然生きていると思うのは、幸せな勘違いなのだと実感した。


毎日何人の人が、無機質な診察室でこういう告知を受けるのだろう。癌の告知を受けた人の気持ちを察することぐらいは、これまでだってできたはずなのに、「ああ、こういう気持ちってこんなふうに見ている景色を変えるんだ」と初めて知ったかようだった。そして明日には自分も向こう側の一人にカウントされるのかもしれないと思うと、決定的な言葉さえ聞かなければ健康なままでいられる気がした。


ふと、生命保険に「がん特約」を付けなかったことを思い出し、自分の状況をさらに実感した。おばちゃんが勧めてくれたのは、がんと診断されたら300万が即座に支払われるという内容だったけれど、月額の保険料が3,000円程度上がると知って、特約の契約をしなかったのだ。「日本は国民皆保険なんだし、保険外診療の高価な治療や、海外での先進治療を受けるつもりなんてないから」と笑った自分を憎みたい。

ただどちらにせよ、今はまだ診断にすら至らない私が、受診のたびに寄るコンビニで買うコーヒー代はカバーされない。病院通いが始まって、スマホの充電が途中でなくならないために、と性能の良いモバイルバッテリーを買い足したことなんて、私の勝手な都合の話なのだ。会社に雇用されているわけでもないフリーランスの私が、今夜は疲れたからと仕事を明日に回した分、受けられなかった仕事を補償する制度なんてどこにもない。弱小フリーランスには、社会保障の欠片もないことを思い知り、休みを取ることが即ち仕事を失うきっかけになることにも怯む。


どれほどの後悔と絶望が、入り乱れた時間を過ごしただろう。

まだこんなにも生きていたかったのかと、まだこんなにも書きたいことがあるのかと、愕然とした。誰も代わりに生きてくれないのではない。この人生は、私にしか生きられないように出来上がっているだけだった。


きっと私はずっと「よくわからない」只中にいる。

それは、輪郭を持たないものなのかと思っていたけれど、「よくわからない」というはっきりとした宣言をされたところで、やっぱりよくわからないのだ。

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