人はなぜ「推し旅」に出るのか|遍路は、会いたい存在へ近づく巡礼である
For English readers:
This is a slow-travel essay about the Shikoku Henro, Japan’s 88-temple pilgrimage — and about why walking to meet a beloved spiritual figure may not be so different from traveling to follow someone you deeply admire.
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「推し旅」は新しい巡礼である
「推し旅」は、「会いたい存在に近づくために、遠征すること」。
「推し」——自分が強く応援し、会いたいと思う存在——に会いたい。
その人がいた場所に近づきたい。同じ空気を吸いたい。自分もその物語の一部になりたい。
画面越しに見ている「推し」は、まだ情報や記号として受け取っている存在である。そこには、生身の場所や空気がまだない。
でも、現地に行くと
「ここにいたのか」「ここを歩いたのか」「ここで産まれたのか」を実感することになる。
「推し旅」は、単なる情報を自分の体験にかえる旅である。
情報が自身の身体の経験となり蓄積される。

ただ単に「知っている」と「行った」では違う。
行ったことがあると、そこの空気感、音、匂い、肌触りまで身体が覚えている。
「推し旅」は、頭で知っていたことを足、手、耳、目、肌で感じて染み込ませることである。
「推し旅」は単なる観光とは違う。有名な観光地に行ったのと、「推し」の場所に立ったのでは感動の種類が違う。
「私もここにいた」「私もこの時間を共有した」「私もこの道を歩いた」
つまり、「見に行く旅」ではなく、「参加する旅」である。
「推し旅」とは、好きな存在に関する情報を、
自分の身体の「経験」「記憶」として染み込ませ、
その物語に自分も参加するための旅である。
お遍路は、弘法大師・空海、つまり「お大師様」に近づこうとする旅である。だとすれば、「推し旅」は現代の巡礼ではないだろうか。

推し旅は新しいものではない。それは昔から「巡礼」といわれた旅、そのものである。「会いたい存在に近づく旅」、それはお大師様を追いかけるお遍路と変わるところはない。
人は、好きなものを拝んでいるだけでは物足りなくなる。
その存在があった場所へ行き、その場を自分で経験したくなる。
それが、推し旅であり、巡礼であり、お遍路なのだ。
お遍路は、信仰の旅であり、修行の旅であり、巡礼の旅である。
けれど同時に、「会いたい存在を追いかける旅」でもある。
お遍路は現代の推し旅に似ているのではない。
むしろ、推し旅のほうが、お遍路や巡礼の古い構造を受け継いでいるのだ。
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次は「中欧」「北欧」「東欧」に行きたいなあ。