原 敬 ~社会基盤の近代化を推進した「平民宰相」~
深い谷をまたぐ橋ができて人の交流が生まれ、文化が流入する。堤防や水門ができたことで、街が洪水から救われる――。私たちの暮らしは古今東西、インフラによって劇的に進歩してきました。
インフラづくりは、土木の仕事。この連載では、その時々にインフラづくりを主導し、あるいはその発展に寄与することで時代をデザインしてきた「土木人」を一人ずつ紹介します。
今回登場するのは、社会基盤の近代化を推進した「平民宰相」原敬(1856-1921)です。
土木学会土木図書館委員会土木人物調査小委員会
https://committees.jsce.or.jp/lib08/

出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」デジタルコレクションよりhttps://www.ndl.go.jp/portrait/datas/172/
原敬(はら・たかし)は1856(安政3)年に盛岡藩の上級武士の家に生まれた。ところが、明治維新に際して盛岡藩は他の東北諸藩とともに明治新政府に抵抗、敗北し、盛岡藩出身者は、不利な立場に置かれることになった。原は旧藩の学校やキリスト教神学校、司法省法学校などで、日本が近代化を進めるうえで必要とされた外国語や西洋の知識・学問を身につけ、そのハンデを乗り越える。新聞記者を経て、外務省、農商務省で官僚としてのキャリアを積み、その能力は明治政府の実力者である伊藤博文らに認められるところとなった。

附絶筆メモ・本箱(岩手県指定有形文化財) ※原敬は詳細な日記を付けていた
1900(明治33)年に伊藤が立憲政友会を組織すると、原もそこに加わり、指導者の一人となる。以後、政党政治の発展に尽力し、政友会の第3代総裁、1918(大正7)年には首相となり、日本初の本格的な政党内閣を組織した。爵位を持たないことから「平民宰相」と呼ばれた。
インフラ整備で国と国民を豊かにする
原と政友会は、鉄道・港湾・道路・学校・病院などの社会基盤を積極的に建設・整備し、国と国民を豊かにしようとする積極政策を主張していた。インフラ整備への期待は、地方の人々の政友会に対する支持にもつながった。
原内閣は、第一次世界大戦下の好況によって得られた財源に基づき、積極政策の実現を図る。鉄道を中心として港湾や道路を含めた体系的な交通網の整備がめざされた。鉄道については、幹線の広軌化よりも地方に鉄道網を拡大することを選んだ。1919(大正8)年には、道路に関する基本法である道路法が制定された。調査審議機関の道路会議も設置され、第一次道路改良計画が立てられた。1920(大正9)年には鉄道院が鉄道省に昇格した。原の死後ではあるが、1922(大正11)年には、支線網の拡充をめざす改正鉄道敷設法が成立する。
将来を見据えた長期戦略としての土木政策
都市化の進展に対応するため、1919(大正8)年に都市計画法、市街地建築物法が制定され、都市計画に関する法制度が整えられた。治水計画も見直しが行われ、1921(大正10)年、第二次治水計画が策定された。しかし、普通選挙に慎重であったことや、政友会にまつわる政治とカネの問題の発覚(原自身は私腹を肥やすことはなかったけれども)、強力な指導者である原の権力などに対する世論の反発が強まるなか、1921(大正10)年、原は東京駅で暗殺された。
原が進めた土木に関わるインフラや制度の整備は、党勢拡大のための地方への利益誘導にとどまるものではなかった。第一次世界大戦後の国際的な経済競争への対応はもちろん、現状のニーズに応えたうえで、将来の日本全体の発展をめざしたものであった。 (土田宏成 聖心女子大学教授)
【参考文献】
『原敬 外交と政治の理想』上・下 伊藤之雄(講談社〈講談社選書メチエ〉、2014年)
『原敬 「平民宰相」の虚像と実像』清水 唯一朗(中央公論新社〈中公新書〉、2021年)
『原敬 日本政党政治の原点』季武嘉也(山川出版社〈日本史リブレット人〉、2010年)
【人物略歴】
1856(安政 3)年 盛岡藩士の次男として現在の盛岡市に生まれる
1882(明治15)年 井上馨の推挙を受け外務省に入省、外交官になる
1900(明治33)年 伊藤博文が結成した立憲政友会に参画
1906(明治39)年 内務大臣に就任(その後も2度就任)
1918(大正 7)年 第19代内閣総理大臣に就任、国民からは「平民宰相」と呼ばれた
1921(大正10)年 東京駅構内にて暴漢に刺され亡くなる(暗殺)
【分野】
政治、鉄道、道路
