奈良・明日香 第3部|なぜ飛鳥は藤原京へ至ったのか【王墓・石造物・終末期古墳】

フィールドワーク|明日香を歩く旅


2026年5月中旬

追記|2026年7月26日
「飛鳥・藤原の宮都」が
世界文化遺産に登録された

飛鳥は
観光地としてではなく

王宮
寺院
王墓
石造物が重なる

国家形成の現場として
改めて世界に認められた

飛鳥は

王権が国家へ変わっていく場所だった

第1部では

三輪・磐余から飛鳥へ

王権の舞台がなぜ移ったのかを見た

第2部では

飛鳥宮

甘樫丘

飛鳥寺

蘇我氏

そして宮都の形成を追った

だが

飛鳥は

宮だけで終わる場所ではない

ここには

王墓がある

石造物がある

渡来系氏族の痕跡がある

古道がある

そして

藤原京へ向かう

制度国家の気配がある

飛鳥国家は

飛鳥宮だけで完結しなかった

王統の記憶は

明日香南西部へ伸び

檜隈の地形と重なり

終末期古墳へ刻まれる

その先で

王権は

藤原京という

本格的な都城へ向かっていく

本稿では

明日香南西部の王墓群

石造物

古道

氏族の痕跡を歩きながら

飛鳥の王権が

どのように制度国家へ向かったのかを見ていく


王墓Map
出典:地理院地図(国土地理院)をもとに筆者が地点表示・地名追記を行って作成

■ なぜ王墓は明日香南西部へ集まるのか

明日香を歩くと

宮だけではなく

墓の多さに気づく

欽明天皇陵

丸山古墳

牽牛子塚古墳

キトラ古墳

高松塚古墳

中尾山古墳

文武天皇陵

天武・持統天皇陵

岡宮天皇陵付近

明日香の南西部から檜隈周辺には

古墳時代終末期から

律令国家成立期にかけての

王墓

貴人墓

終末期古墳が集中している

もちろん

個々の古墳の被葬者比定には

議論がある

だが

地図上でその配置を見ると

この一帯に

王統の記憶が濃く残されていることは分かる

飛鳥は

政治の中心であると同時に

王統の記憶を刻む場所でもあった

王は

どこに宮を置くかによって

生きている時の権力を示す

そして

どこに葬られるかによって

死後の王統の中へ位置づけられる

生の政治空間と

死後の記憶空間

その二つが

同じ明日香の地形の中で重なって見えてくる

飛鳥とは

王が政治を行った場所であると同時に

王統の記憶が

地形へ刻まれていった場所でもあった

■ 欽明陵と丸山古墳は何を示すのか

飛鳥の王墓を考える時

まず重要なのが

欽明天皇陵である

現在

欽明天皇陵は

明日香村平田の

檜隈坂合陵に治定されている

欽明天皇陵
明日香西側の丘陵縁に位置し
後の王墓群を考える起点の一つになる

注目したいのは

この地が

磐余の中心そのものではなく

飛鳥の南西

現在の明日香村檜隈周辺に近いことである

磐余で王統を再び接続した王権は

欽明の時代を経て

その政治的重心を

飛鳥へ移していく

欽明は

継体の血統と

旧王統の血統を接続した王だった

その陵墓の記憶が

明日香南西部に置かれている

王統再編の後

王権の舞台が

すでに飛鳥へ向かっていたことを考えるうえで

興味深い配置である

ただし

欽明陵を考える時

丸山古墳の存在も無視できない


丸山古墳
飛鳥西方に築かれた巨大前方後円墳
終末期古墳へ向かう直前の巨大王墓文化を考える重要な存在だ

見瀬丸山古墳

あるいは

五条野丸山古墳とも呼ばれるこの古墳は

奈良県最大級の前方後円墳である

被葬者については

欽明天皇説

蘇我稲目説

宣化天皇説

など

複数の見方がある

断定はできない

だが

六世紀後半の王権構造を考えるうえで

極めて大きな存在である

河内で頂点に達した

巨大前方後円墳の時代は

この頃

終わりへ向かっていく

一方

飛鳥では

氏族

外交

制度

が重なり始める

丸山古墳は

巨大古墳国家の

最後の巨大な影であり

同時に

飛鳥という新しい政治空間の入口に立つ存在だったのかもしれない

欽明陵と丸山古墳を並べて見る

王権はまだ

古墳時代の世界に立っている

しかし

その足元では

すでに

飛鳥国家が動き始めていた

■ 檜隈とは何だったのか

明日香南西部を歩くと

檜隈という地名が見えてくる

檜隈は

飛鳥に隣接する地域であり

東漢氏との関係が深い土地として知られる

東漢氏は

古代国家形成に関わった

有力な渡来系氏族の一つである

この一帯には

東漢氏の祖神との関係を伝える

於美阿志神社

於美阿志神社
檜隈寺跡周辺に鎮座し東漢氏の祖神との関係を伝える

東漢氏の氏寺とされる

檜隈寺

檜隈寺跡
明日香南部の檜隈は渡来系氏族との関係が深い地域として知られる

さらに

高松塚古墳

キトラ古墳

といった

東アジア的な意匠を持つ壁画古墳がある

檜隈は

単なる地名ではない

飛鳥国家が

朝鮮半島や中国大陸から入ってくる

技術

知識

思想

文化を

受け止めた地域の一つだったのではないか

文字

仏教

建築

工芸

土木

外交実務

制度知

そうしたものは

飛鳥宮へ

直接降ってきたわけではない

渡来系氏族

工人

寺院

交通路

墓制

いくつもの媒介を通じて

王権の中へ組み込まれていった

檜隈は

その受け皿の一つだった可能性がある

ここで

明日香南西部の風景が変わって見える

この場所は

単なる王墓地帯ではない

王統の記憶と

渡来系氏族の記憶

大陸・朝鮮半島から流入した

技術と知識の痕跡が

同じ地形の中に重なっている

王墓

氏族

壁画古墳

古道

檜隈とは

飛鳥国家が

外から来たものを

国家の内部へ取り込んでいく

一つの接続地帯だったのかもしれない

東漢氏を考える時

もう一つ

興味深いことがある

その系譜は

飛鳥で終わらなかった

東漢氏の系譜につながるとされる氏族の一つに

坂上氏がいる

その坂上氏から

後に

坂上田村麻呂が現れる

八世紀末から

九世紀初頭

征夷大将軍として

国家の東北経営に関わった人物である

飛鳥で

王権を支えた

渡来系氏族の力

それは

一代限りの

外来技術者集団ではなかった

氏族として

国家の内部へ根を張り

世代を越え

やがて

国家の軍事を担う側へも

つながっていく

そう考えると

飛鳥とは

単に

外の技術を受け入れた場所ではない

外から来た人々と

その力を

国家の内部へ組み込んでいった場所でもあった

檜隈で見えるのは

渡来文化の痕跡だけではない

その後の日本国家へ続いていく

氏族の時間でもある

■ 牽牛子塚古墳は何を語るのか

牽牛子塚古墳を遠望する
明日香西南部の丘陵上に築かれた終末期古墳

飛鳥の終末期古墳を考える時

牽牛子塚古墳は重要である

牽牛子塚古墳は

明日香村越にある八角墳である

発掘調査によって

八角形の墳丘であることが確認され

第37代・斉明天皇陵の有力候補として知られる

注目したいのは

墳形である

前方後円墳ではない

八角墳である

巨大前方後円墳は

古墳時代の王権を象徴する形だった

だが

七世紀になると

大王墓は

前方後円墳から

方墳

円墳

八角墳へと変わっていく

牽牛子塚古墳では

墳丘が八角形に整えられ

石敷が巡り

凝灰岩の切石が用いられ

内部には

二つの墓室を持つ

横口式石槨が設けられている

ここに見えるのは

巨大さだけではない

加工

設計

方位

格式

王墓の形そのものが

変わり始めている

王権は

巨大な墳丘によって

力を可視化する段階から

一定の形式と秩序によって

王墓を表現する段階へ移っていく

牽牛子塚古墳
整備された墳丘の背後に明日香の山並みが広がる

牽牛子塚古墳は

その変化を

歩いて感じられる場所である

巨大さより

形式

構造

方位

王権の理念

古墳は

ただ大きいものではなくなる

王の位置を

新しい秩序の中で示す装置へ変わっていく

■ キトラ古墳と高松塚古墳は何を示すのか

キトラ古墳
明日香南部の丘陵斜面に築かれた終末期古墳
高松塚古墳とともに壁画古墳として知られる

飛鳥の終末期古墳で

最も印象的なのが

キトラ古墳と高松塚古墳である

高松塚古墳
小さな墳丘の内部に極彩色壁画を持つ石室が築かれていた
高松塚古墳壁画の人物群像
服飾や持物には7〜8世紀初頭の宮廷文化と大陸との接続が表れている

高松塚古墳には

人物群像

四神

日月

星宿図が描かれた

キトラ古墳には

四神

十二支像

天文図が描かれている

これらの古墳には

単なる墓を超えた

東アジア的な宇宙観が描かれている

青龍

白虎

朱雀

玄武

天文

方位

時間

守護

死者は

ただ土の中へ葬られたのではない

宇宙の秩序を描いた空間の中へ置かれた

ここには

中国古代の天文・方位思想を含む

東アジア的な宇宙観と

朝鮮半島との交流を背景に伝わった

技術文化の重なりが見える

三輪の王権は

山の神に接続された

磐余の王権は

神話と王統に接続された

そして飛鳥では

王権を取り巻く世界認識そのものが

より広い宇宙秩序へ接続されていく

王は

土地の神だけではなく

方位

時間

という秩序の中でも

位置づけられ始める

高松塚古墳とキトラ古墳は

その変化を象徴する

とくに

キトラ古墳の天文図は印象深い

天を読み

方位を整え

死者を

宇宙の中へ配置する

飛鳥では

地形の王権の上に

新しい世界秩序が

重ねられ始めていた

■ 飛鳥の石造物は何を示すのか

明日香を歩くと

奇妙な石造物に出会う

明日香の集落に残る亀石
巨大な石造物が現在の生活空間の中にそのまま残されている
猿石
人物とも異形の存在とも見える石像群
明日香には用途や意味を断定しきれない石造物が残る

猿石

亀石

酒船石

亀形石造物

益田岩船

明日香には

不思議な石が多い

単なる

謎の石として見ることもできる

だが

明日香全体の構造の中で見ると

別の姿が見えてくる

飛鳥は

石の都でもあった

石は

水を導く

祭祀を支える

境界を示す

権力を可視化する

七世紀の飛鳥では

石造技術が

水の祭祀

宮殿空間

墓制

庭園

儀礼空間

権威表現

さまざまな場面に使われていく

とくに

酒船石や亀形石造物は

祭祀

庭園

王権空間の演出

そうしたものとの関係が考えられている

石は

ただ置かれたものではない

削られ

組まれ

水を導き

空間を形づくる

一方

猿石や亀石は

その意味が完全には分からない

だからこそ

飛鳥の深さを感じさせる

神話の世界でもなく

完成した律令国家でもない

その中間で

王権は

方位

を組み合わせながら

新しい国家空間を作ろうとしていた

石造物は

その過程で

飛鳥の空間そのものが

人の手によって再設計され始めた痕跡なのかもしれない

■ 岡宮天皇陵と紀路――王統の記憶と外への道

岡宮天皇陵付近の谷地形
明日香南部へ延びる道と耕地が山間の細い空間に沿って続く
(現地写真をもとにイメージ補正)

明日香を歩くと

古道の気配も残っている

岡宮天皇陵付近

紀路の道標

岡宮という名には

もう一つ

王統の記憶が残されている

岡宮天皇

その名だけを見ると

一人の天皇が

ここに眠るように思える

だが

岡宮天皇とは

草壁皇子のことである

天武天皇と

持統天皇の皇子

皇太子となりながら

即位することなく

689年に早世した

それでも

後世

草壁皇子には

「岡宮御宇天皇」

という称号が贈られた

即位しなかった皇子が

なぜ

後から

「天皇」として位置づけられたのか

草壁皇子の子には

文武天皇

元正天皇がいる

その妃

阿閇皇女も

後の元明天皇である

自らは

皇位に就かなかった

だが

その後の王統を考える時

草壁皇子は

極めて重要な接続点に立っている

草壁皇子の父は

天武天皇

母の持統天皇は

天智天皇の皇女だった

さらに

妃の阿閇皇女も

天智天皇の皇女である

壬申の乱では

大海人皇子

後の天武天皇が勝利した

その後

皇位は

天武天皇の系譜を中心に

つながっていく

だが

その王統を

単純に

「天武系が勝ち

天智系が消えた」

と見ることはできない

天武の王統には

天智の血統も

深く重なっていた

草壁皇子は

その接点に立つ

武力によって

勝者は決まる

だが

王統は

戦争の勝敗だけでは続かない

誰からつながるのか

誰と婚姻するのか

次の王を

どの系譜へ置くのか

王権は

過去と未来を

つながなければならない

ここで

磐余で追ってきた

王統の正統性を思い出す

王権は

現在の王だけでは成立しない

なぜ

この王が

王なのか

この系譜は

どこから続いているのか

国家は

自らの王統を

説明する必要がある

草壁皇子は

即位しなかった

それでも

文武

元正へ続く

王統の接続点となり

後世

「岡宮御宇天皇」と追尊された

後の王統から

過去を振り返り

系譜の中へ

草壁皇子を位置づけ直した

そう見ると

岡宮という名は

一人の皇子の記憶だけではない

王統が

自らの過去を

整理していく姿を

伝えているようにも見える

飛鳥から紀伊方面へ向かう古代の幹線道・紀路を示す道標
 王墓群の南側には山間を抜ける交通軸が延びていた
(現地写真をもとにイメージ補正)

このあたりを歩くと

飛鳥が

閉じた盆地の奥ではなかったことが分かる

飛鳥は

道によって外へ開いていた

紀伊へ向かう道

吉野へ向かう道

大和川へ向かう道

難波へ向かう道

山背へ向かう道

東国へ向かう道

国家は

宮の中だけでは成立しない

道があり

使者が通る

兵が動く

物資が運ばれる

僧や工人が移動する

地方の豪族や人々が

中枢と接続する

道は

国家の血管である

岡宮天皇陵付近に残る

王統の記憶

紀路が示す

外部への交通軸

この二つを並べると

飛鳥が

内に閉じた王宮ではなく

外へ命令を送り

外から人と技術を受け入れる

国家中枢だったことが見えてくる

飛鳥・古道Map
出典:地理院地図(国土地理院)をもとに筆者が地点表示・地名追記を行って作成

■ 雷丘と甘樫丘から何が見えるのか

雷丘・畝傍山・二上山
雷丘付近から望む明日香の地形
山々の間に平地が伸び、王宮・寺院・豪族拠点が近接していた
(現地写真をもとにイメージ補正)

雷丘に立つと

明日香の地形が見えてくる

甘樫丘から望む飛鳥
谷と小盆地の中に集落と耕地が広がり
その近距離に王宮と豪族の拠点が置かれた

甘樫丘に立つと

さらに広い

南部大和の空間が見える

畝傍山

香久山

耳成山

飛鳥

磐余

檜隈

藤原京

それぞれ別の歴史用語として覚えていた場所が

同じ地形の中へ入ってくる

ここで分かるのは

飛鳥が

一点ではなく

面で成立していたということだ

飛鳥宮

飛鳥寺

甘樫丘

雷丘

檜隈

欽明陵

高松塚

キトラ

藤原京

これらは

地図上の別々の点ではない

石造物

一つの地形の中で

互いに近接している

だから

飛鳥を理解するには

地図だけでは足りない

歩く必要がある

坂を上り

丘に立ち

古墳の位置を見て

道の向きを感じる

その時

点だった史跡が

線になる

線が

面になる

そして

飛鳥国家が

どのような空間の中で立ち上がったのかが

少しずつ見えてくる

■ 石舞台古墳はなぜ巨大なのか

石舞台古墳
巨大な横穴式石室が露出する
飛鳥南部に巨大な墓を築いた勢力の大きさを今に伝える

明日香を象徴する古墳として

石舞台古墳がある

巨石を組み上げた

巨大な横穴式石室

被葬者については

蘇我馬子説がよく知られる

もちろん

断定はできない

だが

石舞台古墳が

蘇我氏の権力を考えるうえで

重要な存在であることは間違いない

飛鳥国家は

天皇だけで作られたわけではない

蘇我氏

物部氏

東漢氏

秦氏

大伴氏

中臣氏

多くの氏族が

王権を支え

争い

組み替えられながら

国家を作っていった

豪族系譜・分布Map
6〜7世紀の主要氏族の系譜と大和・河内における拠点分布

氏族ごとに
活動時期と地理的基盤が異なる

石舞台古墳は

その中でも

蘇我氏の巨大な影を感じさせる場所である

飛鳥寺を建立し

仏教受容を進め

王統へ婚姻を通じて入り込み

政治中枢に大きな力を持った蘇我氏

その存在は

飛鳥国家の形成に不可欠だった

しかし

大きな氏族権力は

やがて

王権との緊張も生む

飛鳥とは

王権と豪族が

国家を作りながら

同時に衝突していく場所でもあった

石舞台古墳は

その緊張を考えさせる

そして

その先に

藤原不比等の時代が現れる

蘇我氏が

飛鳥国家の形成を担った氏族の一つだとすれば

藤原氏は

その後の国家制度へ

深く入り込んでいった氏族だった

石舞台から藤原京へ

そこには

氏族の力を基盤とする政治から

律令制度によって国家を組み上げる政治への

大きな転換が見えてくる

■ 天武・持統陵墓は何を示すのか

天武・持統天皇陵
飛鳥南部に置かれた王墓は壬申の乱後に
再編された王権中枢との位置関係でも注目される

飛鳥国家の制度化を考えるうえで

天武・持統天皇陵は避けられない

天武天皇と持統天皇の時代

王権は

大きく再編される

壬申の乱

天武朝の政治再編

皇親政治

八色の姓

飛鳥浄御原令

持統朝

藤原京

祭祀秩序の再編

そして

「天皇」

「日本」という

国家表現が整っていく時代とも重なる

天武・持統の時代に

王権は

血統

軍事

祭祀

制度

都城

複数の面から

再構築されていく

特に

持統天皇は

藤原京へ遷都する

これは

単なる宮の移動ではない

飛鳥の宮から

本格的な都城へ

国家空間そのものが変わる

それまで

王権は

宮を移しながら支配していた

だが

藤原京では

条坊を持つ

広大な都城が現れる

国家は

地形の中に宮を置くだけではなく

空間そのものへ

秩序を刻み始める

天武・持統陵墓は

その転換期の王統を記憶する場所である

飛鳥国家は

ここで終わるのではない

藤原京へ向かって

姿を変えていく

■ 文武天皇陵と中尾山古墳

文武天皇陵
明日香南部の丘陵地に位置する王墓域の南への広がりを地形上で確認できる

藤原京への流れを考える時

文武天皇は重要である

文武天皇は

持統天皇から譲位を受け

若くして即位した

その時代に

大宝律令が成立する

国家は

制度として

より明確な形を持ち始める

文武天皇の時代は

飛鳥の王権が

律令国家へ変わる

決定的な局面の一つだった

なお

『竹取物語』に登場する帝を

文武天皇に重ねる見方もある

ただし

『竹取物語』の成立は

文武天皇の時代より

約二百年後とされる

同時代史料ではない

それでも

大陸的な天文観や

異界への想像力が重なった

飛鳥・藤原期の記憶を考える時

月へ帰るかぐや姫の物語は

不思議な余韻を残す

史実ではない

だが

後世の宮廷文学が

古い王権の記憶を

どこかに映している可能性まで

完全に否定する必要もないだろう

現在

文武天皇陵は

明日香村栗原の

檜隈安古岡上陵に治定されている

一方

明日香村平田の中尾山古墳を

文武天皇陵の有力候補とする見方がある

中尾山古墳は

八角墳であり

横口式石槨を持つ

終末期古墳である

大切なのは

陵墓比定を

ここで断定することではない

文武天皇の時代は

大宝律令の時代である

そして

その王統の記憶を考える空間には

檜隈

高松塚

キトラ

天武・持統陵

藤原京が近接する

この一帯には

飛鳥国家から

律令国家へ移る時代の

王墓級古墳が集中している

そこに

飛鳥国家の終わりと

藤原京国家の始まりが

重なって見える

■ 藤原京と陵墓エリアはどう響き合うのか

藤原京跡
明日香の谷から北へ出ると視界は一気に開ける

王権は盆地南部の小空間から
計画都市へ移った

藤原京は

飛鳥国家の到達点である

それまでの飛鳥は

氏族拠点

古道

石造物

が重なった

複合的な王権空間だった

だが

藤原京では

国家は

本格的な都市として設計される

条坊

宮城

官衙

都城軸

大極殿

朱雀大路

国家は

地形の中から立ち上がるだけではなく

地形の上へ

秩序を刻むようになる

さらに

藤原京を考える時

大官大寺の存在も見逃せない

飛鳥で進んだ仏教受容は

藤原京の時代には

国家が寺院を

政治秩序の中へ組み込む段階へ進んでいく

寺は

氏族だけの祈りの場ではなくなる

国家と仏教の関係も

新しい段階へ入る

藤原京とは

宮城と官衙だけではない

寺院を含め

律令国家の空間を整えようとした

巨大な都城だった

王墓Map
出典:地理院地図(国土地理院)をもとに筆者が地点表示・地名追記を行って作成

ここで見たいのが

藤原京と

明日香南西部の王陵墓エリアとの位置関係である

藤原京の南には

明日香の王墓群が続く

天武・持統陵

文武天皇陵

中尾山古墳

高松塚古墳

キトラ古墳

檜隈

欽明陵

丸山古墳

これらは

藤原京の周囲に

完全に無秩序に散らばっているようには見えない

少なくとも

大きな地形感覚として見ると

藤原京の南側に

王統の記憶が濃く残る地域が広がっている

もちろん

これを

現代の測量線のような

完全な正中線として断定することはできない

それでも

藤原京の都城空間と

明日香南西部の王墓群は

同じ南部大和の地形の中で

強く響き合って見える

ここに

飛鳥から藤原京への転換が見える

飛鳥では

氏族拠点

石造物が

地形の中へ重なっていた

藤原京では

それらを

都城の秩序へ組み直そうとする

飛鳥は

混成した王権空間だった

藤原京は

それを制度空間へ変換する試みだった

そして

その南側には

王統の記憶を背負う

王陵墓エリアが残る

国家は

過去を捨てて都市になったのではない

飛鳥の王統記憶を背後に抱えながら

藤原京という

制度都市へ向かった

■ 藤原不比等は何を完成させたのか

藤原京を考える時

避けられない人物がいる

藤原不比等である

不比等は

中臣鎌足

後の藤原鎌足の子である

文武朝以降

国家中枢で大きな影響力を持ち

その政治的系譜は

後の聖武朝へもつながっていく

不比等は

単なる有力貴族ではなかった

大宝律令

官僚制

王統との婚姻関係

その動きは

制度と王統の双方へ及んでいる

飛鳥までの国家には

王統

氏族

仏教

渡来技術

古墳

祭祀

複数の力が

濃密に重なっていた

藤原京から律令国家へ向かう時代

それらは

律令

官位

戸籍

税制

都城

という制度へ

次第に組み直されていく

不比等は

その変換を担った

制度側の重要人物の一人だった

石舞台古墳に象徴される

蘇我氏の巨大な影

飛鳥国家の形成に

その力は不可欠だった

だが

時代が進むと

国家の統治構造は変わる

氏族間の力関係だけではなく

律令と官僚制度が

国家を支えるようになる

飛鳥には

蘇我氏の巨大な影が落ちていた

そして藤原京以後

藤原氏は

国家制度の深部へ入り始める

この政治構造の転換も

飛鳥から藤原京へ至る道の一部である

■ 日本書紀は何を整理したのか

国家が制度として形を持つ時

必要になるものがある

歴史である

なぜ

この王統が正統なのか

なぜ

この国が存在するのか

神話から現在まで

国家は

どのように続いてきたのか

それを語る

公式の歴史が必要になる

その大きな到達点が

『日本書紀』である

『日本書紀』は

720年に成立した

藤原京の時代そのものではない

だが

その編纂へ向かう流れは

天武朝から始まっていたとされる

帝紀

旧辞

諸氏族の伝承

国家は

それまで別々に存在した記憶を

自らの来歴として

整理していく

『日本書紀』は

単なる昔話の集成ではない

国家が

自分自身を説明するための

正史だった

神武東征

崇神の祭祀再編

河内の巨大古墳

雄略

継体の王統再接続

欽明朝

推古朝

大化改新

壬申の乱

天武・持統の制度化

それらの記憶は

国家成立の歴史として

一つの時間軸へ編まれていく

明日香で歩いた

王墓や石造物は

地形に残された国家の記憶である

『日本書紀』は

文字によって編まれた

国家の記憶だった

墓で

王統を刻む

都で

秩序を刻む

正史で

歴史を刻む

飛鳥から藤原京へ向かった国家は

空間だけではなく

自らの過去も

国家の秩序の中へ組み込んでいった

その国家形成の流れを

これまで歩いてきた土地に重ねると――

神武東征

▶ 奈良・磐余 第1部|神話
王権正統の地

崇神の祭祀再編

▶ 奈良・磐余 第2部|武と海
崇神朝と海へ向かうヤマト

応神・仁徳の河内巨大化

▶ 奈良・磐余 第3部|海洋国家
倭の五王と巨大国家化

継体の王統再接続
欽明の仏教伝来

▶ 奈良・磐余 第4部|再編
継体・欽明と王統再編――そして飛鳥へ

推古朝
大化改新
壬申の乱
天武・持統の制度化

▶ 奈良・明日香 第1部|転換
新都の選定

▶ 奈良・明日香 第2部|中枢
飛鳥宮と甘樫丘

■ 第3部とは何だったのか

第3部とは

飛鳥の制度化を歩く回である

第1部で

王権は飛鳥へ移った

第2部で

飛鳥は政治中枢になった

第3部で

その中枢は

王墓

石造物

古道

渡来系氏族

宇宙観

律令

藤原京

歴史編纂へ

広がっていく

飛鳥は

突然完成した都ではない

三輪の祭祀

磐余の正統性

河内の巨大国家化

継体・欽明の王統再編

蘇我氏の台頭

仏教伝来

渡来技術

檜隈の東漢氏

石造物

終末期古墳

天武・持統の制度化

藤原不比等らが関わる

律令国家の形成

そして

『日本書紀』へ向かう

歴史編纂

それらが重なり

日本の古代国家は

次第に形を持ち始める

飛鳥とは

国家が完成する直前の

濃密な中間地帯だった

宮だけではない

墓だけでもない

寺だけでもない

石だけでもない

飛鳥は

それらすべてが

同じ地形の中へ重なる場所だった

■ 見えてくるもの

明日香を歩くと

国家の形が

変わっていくのが見える

三輪では

王権は

神の山に接続された

磐余では

神話と王統に接続された

河内では

海と巨大古墳によって拡張された

飛鳥では

仏教

氏族

宮都

渡来技術を取り込みながら

国家へ変わっていった

そして

藤原京では

国家は

本格的な都市として設計された

その流れの中で

王墓も変わる

前方後円墳から

終末期古墳へ

巨大な墳丘から

形式化された王墓へ

地上の巨大さだけではなく

天文

四神

方位

宇宙観を備えた

石室空間へ

石造物も変わる

祭祀の石から

水と儀礼と空間を

設計する石へ

道も変わる

人が歩く道から

国家が

物資

命令を通す道へ

歴史も変わる

伝承として語られていた記憶は

正史へ編まれていく

王墓は

王統を地形に刻んだ

藤原京は

国家を空間に刻んだ

律令は

支配を制度に刻んだ

そして

『日本書紀』は

国家の来歴を時間に刻んだ

ここで日本国家は

山や水や墓だけではなく

都市

制度

歴史によって

自らを支え始める

国家は

一度で完成しない

氏族

仏教

律令

都城

正史

それらが

何度も重なり

組み替えられながら

ようやく

国家になる

明日香第3部とは

その完成直前の風景を歩く旅である

■ 藤原京へ至る道

飛鳥は

国家の完成ではない

完成へ向かう

最後の濃密な中間地帯だった

王権は

飛鳥で国家へ変わり

藤原京で

制度都市として姿を現す

三輪に始まり

磐余を経て

河内で巨大化し

飛鳥で制度化し

藤原京へ至る

その流れは

日本国家形成の大きな背骨である

▶ 奈良・明日香 第1部|転換
三輪・磐余から飛鳥へ
王権の舞台がなぜ移ったのかを歩く

▶ 奈良・明日香 第2部|中枢
飛鳥宮と甘樫丘
王権が国家の中心へ変わっていく場所

▶ 奈良・明日香 第3部|制度化
王墓・石造物・終末期古墳
飛鳥国家が藤原京へ至るまでを歩く

そして

次の舞台は

藤原京へ

▶ 奈良・藤原京|完成
国家が本格的な都城として設計された場所

▶ 総合目次|国家はどこで生まれたのか
フィールドワークで読む古代日本


【プロフィール】古代日本|フィールドワーカー

“国家はどこで生まれたのか”

大和・磐余(いわれ)を起点に
畿内・出雲・吉備・筑紫・東国へ
広がる王権を追う

現地を歩き

文献
伝承
考古を重ね

点を線へ
線を面へ

地形
神祇
海路
境界

その配置から
国家形成を読み解く

―― フィールドノート

古代日本|故地の探訪記も随時配信
 故きを温ねて新しきを知る

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