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2話 永遠の旅人からの遺言

教訓・2 なるべく早く、肉体からの脱出を試みるべし

ここは、どこだ?
しばらく静寂が続いた。

どうやらそのとき、意識が戻ったようだ。
身体のなかに、私の意識が滑り込んだ感覚だ。
ついさっきまでの恐怖の余り私は金縛りの状態に陥り、身動きが出来なかったみたいだ。
寝苦しい熱帯夜に、長い悪夢にうなされていた気分だ。
身体が重い。
今は、まだぼんやりしているものの、戻って来たこの世界が苦痛にさえ感じる。
『また、こちらの世界へ戻ってしまったのか』そう思った。
そして私が死んだら、またあの恐怖の世界に舞戻らなければならないのか。
死後人間の魂は、生きていたときの心の延長上の世界へと赴くというが、明らかにさっきの世界は地獄だ。
何故だ? そしてここはどこだ?
『私の名は?』とじぶんの意識を確かめるように問うてみた。

桜井 新(さくらいあらた)。幼い頃はみんなに『新ちゃん』と呼ばれていた。
八十歳。
ステージ4の肝臓癌を七年前の七十三歳で発症し、寛解(かんかい)には至らなかったが、何とか転位には至らず、抗がん治療と食事改善で生き延びた。

規則正しい機械音が遠くから聞こえている。いつからこうしているのだろうか?
―― そしてこの独特の匂いには覚えがある。そうだ、ここは病室だ。
あぁそうか、私はもうすぐ死ぬのだった。
死んでしまうのだ。
思考がハッキリしてくるにつれ、さっきまで強烈に体感し覚えていた、恐怖に満ちた悪夢の世界の記憶がどこか四次元の彼方に吸い込まれるように薄れていく。
『なぜあんな恐怖の世界の夢を今、見せられたのだろう?』と他人事のように思った。
私のどこかに重大な、心の過ちが有ったのだろうか? 
客観的に冷静に判断しても、私の一生はそんなに間違ったものでもなかったと思う。
なぜなら私の一生は、この世的には出世にも無縁で成功したとも言えないが、平凡でささやかながら自分の家庭を一生懸命護り、個性的でもなく独創的でもなく、面白みにも魅力にも欠けた地味な人間だったが、神さまを信じる生活、つまり信仰に生きた一生だったとじぶんでは思っている。
それは、特段誰にも言わないが、それだけはじぶんで誇れることだとも思っている。
不平よりも感謝の思いがあった人生だと思う。意地の悪い心よりも、優しい心が勝っていたと思う。
なるべく人を恨まず、妬まず、祝福を心掛けてきたつもりだ。
されど、心の間違いもあっただろう。
知らないところで他人に迷惑をかけたり、誤解されたりしたかも知れない。悪気は無かったけれど、それでも人様に不快な気持ちにさせた言動や行動もあったかも知れない。
それは詫びよう。
反省しよう。
死ぬ前に、人生で出会ったすべての人に和解したいと思う。感謝したいと思う。
しかしそんな私が客観的に自分の信仰の有る人生を見て、『原因結果』の法則に照らし合わせても、地獄に赴くとはやはりどうしても考えられなかった。 

迫りくる死自体にはこれっぽっちも怖くないと、冷静に受け止められているのがじぶんでも不思議なくらいだ。
実際はもっと慌てたり、パニックになったりすると少しは想像していたが、意外にも至って平穏でいるじぶんにむしろ驚いている。
それはきっと、生きている間に、正しい信仰を持っていたことが大きいと、いまさらながらに感じている。
それはもう2500 年もの前にインドの聖者、釈迦が説いた『生老病死』の四苦のうち、少なくとも『死』の苦しみから心捉われることなく、開放されていることを意味する。
「あぁ、有難い」瞬間的にそう思った。
死がそれほど怖く感じることがない人生なんて、これほど有難いことはない。それはお金持ちがいくら金を積んでも、この世では決して得られないものである。
その一点だけ取っても、信仰を持った人生がどれ程素晴らしいことであったか、感謝が込み上げてくる。
 しかし死後の世界に赴くことに、不安がまったくないといったら嘘になる。死は私の魂がこの肉体を離れ、あの世に移行するだけのことだから、この世からの卒業に過ぎない。それは理屈では分かっているが、あの世を信じ確信している私にとっても、未知なる出来事には違いないからだ。
『すべての恐怖心は無知からきている』という。
無知が恐怖心を呼び込んでいるすべての正体なのだ。
あの世がどんなところか知識では知っていてもやはり未経験な分だけ、当然不安はある。
それはそうだろう。
この世でさえも、新しい学校への編入とか、新しい職場への出社の第一日目は緊張するのが当たりまえだ。
まして八十年入り込んでいる、住み慣れた肉体を脱ぎ捨ててこれを出ていかなくてはならないのだ。肉体への執着はないが、肉体を出ていく不安はある。肉体を捨てると決意した瞬間、緊張しない方がおかしいと思う。

しかし死期が近づいたら、できるだけ早く肉体から抜け出たほうがいい。

生きているときに信仰を持たず、目に見えることだけが本当の世界と思い込み、あの世の存在を信じず嘲笑い生きてきた人間にとって、死ほど怖いものはないだろうと想像する。
じぶんが死体となって棺桶に寝かされ、色鮮やかな花に囲まれながらも、肉体の腐敗を防ぐために身体を囲む様に敷き詰められたドライアイスが冷たく感じても、瞬きひとつ動かせない現実に直面したときに、そのとき初めて『無知』からくる恐怖を身を持って体験することだろう。
死んでいないのに死んだふうに扱われる恐怖。
しかし葬儀は中断されることなく本人の思惑とは別に、粛々と至って淡々と葬儀屋のスタッフにより、滞りなく続けられるのだ。
死は生前の延長上にあるのだから、生きているうちに理解出来ない漢文の難解な読経が、どんなに偉いお坊さんが唱えようとも、死んで分かる筈もない。
それは、ちんぷんかんぷんだ。
しかし葬儀の講話の中で、『死んだらこの有難いお経の内容は理解出来て悟り、極楽浄土へ行ける』だの『死んだらみんな仏になるのです』とか確かなあの世の知識が無い、実はあの世の世界を信じていない唯物論のお坊さんは、場当たり的にいい加減なことを言っているが、そんなの嘘っぱちだと死体の本人は『偽説法』を動けず聞いている。
死んだだけで『仏』になったり、難しいお経が理解出来るのなら、生きてきた努力はまったく無駄ということだ。それは唯物論者と同じで、結果平等思想であり、釈迦の努力・精進を説いた宇宙のルール、『縁起の法則』を真っ向から否定する考え方だ。
そもそもそのお坊さん自体の存在意義の、自己否定でもあることにも気づいてはいないのが、哀れを通り越して、滑稽である。
死んだだけで突然悟って、難しい漢文のお経を突然理解して、『仏』になれるのなら、死への印籠を渡す坊さんの存在はいらないからだ。
死はこの世の卒業式ではあるが、一律の免罪符ではないということだ。
人生の通信簿に、努力に応じた点数の違いは当然あって然るべきであるし、それが物の道理であろう。
それが仏教でいう『因果応報』、原因結果の法則である。

しかしそんな宗教的真理を生前知ろうともせず、神を信じず、信仰する者を笑って面白おかしく過ごした者は、生前の撒かれた種が死ぬときに結果となって芽吹いて現れるのは、やはり法則どおりなのだ。しかもその結果は、想像を絶するほどの、苦痛を伴うこととなるから恐ろしい。
それは死んだと思っても意識は死んでおらず、死んでも死んでいない状態が理解出来ず、じぶんは一体どうしていいのか分からず肉体がじぶんと思い込み、肉体から出ることに底知れぬ恐怖を感じ肉体にしがみついていたら、それはじぶんが肉体と共に火葬場に運ばれ、『じぶんは死んでいない! まだ生きているのだ! 誰か、火葬を止めてくれ! これは、立派な殺人だぞ! 病院の医師、看護師、火葬場の司会、スタッフ、坊主、ワシを死んだと陥れた奴らの共犯だぞ!』そう、わめこうが泣き叫ぼうが、『生きたまま焼かれる』ということなのだ。
狭く暗い釜土の中に放り込まれ、ドアを閉じられ、外から『焼き上がり』の時間を親族に告げる声が聞こえ、真っ暗の中で青白いものが光ったと思えば、それはガスに火を点けられたということで、じぶんは『生きたまま』『焼き残し』のないように強烈な熱風の炎の対流の中で、まんべんなく燃やされ尽くすのだ。
生き地獄とはよくいったもので、これほど残酷で苦痛に満ち、恐ろしい体験は他にはないと思う。
つまり『肉体は死んでいる』が『意識は生きたまま』焼かれるということなのだ。
だから『肉体』は、今回、新たな人生経験をするための仮のじぶんの乗り物と悟り、さっさと肉体を脱ぎ捨て、参列者側に回り、じぶんの肉体とのお別れを客観的に眺めたほうがどれほどか幸せな死に方か、いうまでもない。
あなたがもし無神論であってあの世や魂の存在を信じない人生を歩んだのなら、または生前それについて興味関心がなく『死』に対して全く無知だったとしても、『死んだらなるべく早めに肉体から脱出する』という、たったこれだけの教訓を思い出してほしい。

これはとても重要なことだ。

なぜなら死後あなたが成仏出来ず、迷い、幽霊となってこの世を永遠に彷徨わなくてすむ確率が、グッと上がる、シンプルで一番効果的な方法だからだ。
いま私があなたにアドバイスを一つだけするとすれば、騙されたと思って、いざというときのために頭の片隅にその『魂のサバイバル方法』を記憶しておいてほしい。
知っているということは、幸福に至る選択肢を広げることなのだ。知識を深めるということは、本物と偽物を拠り分ける知恵を得るということなのだ。本物の真理と、この世の偽物の常識を『分ける』ということが、知性であり『分かる』という意味なのだ。
真実を知っていることは、幸福に至るもっとも効果的な近道である。
よしんばそれを半信半疑で信じていても、そんなに損はないと思う。なぜなら一生懸命に生きてきた最後に辿りつくのが『生きながら、全身を業火で焼かれる』という体験ならば、それがどんなに世間に尊敬される人生であろうが、どんなに豪邸に住もうが、どんなに人も羨む美貌の持ち主だったり、または人間として魅力に溢れ、優しく人格者で尊敬される人であったとしても、その最後の姿はやはり憐れであり、人生としては敗北であると言わざる得ないのだから。
それを世間の人は、理不尽というかも知れない。無神論者は文字通り『神も仏もない』と罵るだろう。理屈っぽいインテリは、『無神論者をも救い上げての、本物の神仏ではないか』と、生前神仏を信じなかったことを棚に上げて、自己中心的な理論を展開するであろう。
しかし『さぁ救ってみろ』と自ら濁流の中に飛び込み、神仏を試そうとする者をだれが救えると言うのだろうか?
自らを救うのは神仏の前で謙虚な『自分』でしかない。
『自分』が神仏の助けを借りて、『自分』を救うのだ。
他の誰ではない。
これが幾転生で学ぶ人生という教室での、神さまが決めた教育方針であり、人生に課題としての苦難・困難が存在する理由の全てだ。

さっきも言ったが、二千五百年も前に、印度のお釈迦さんがすでに言及しているように、物事はすべて『原因結果の法則』て成り立っているということなのだ。
それは、信仰を持たなかった、あるいはあの世を信じなかったという原因からくる結果が、人生の最後に現れただけのことなのだ。

 どこからか息子たちの声が聞こえているような気がするが、それも遠ざかっていく。
私の最期に集まってくれているのか? 
長女の信子(のぶこ)。長男の光(ひかる)。次男の雅樹(まさき)。みんな駆けつけてくれている気配がする。ありがとう。
だれかが耳元で囁いているような気がするが、声が遠くて今の父さんには、聞こえ辛いよ。
「父さん、人生には、人生の最後には、『和解』と『反省』と『感謝』が必要だよ。日ごろの信仰心を思い出して」と聞こえる。
今のは長男の光の声か? 光、なかなか言うじゃないか。お前たちの人生観にも少しは、信仰というものが根付いたのか? その言葉が心の奥そこから滲み出たものならば、こんな嬉しいことはない。
しかしなぁ、葬式という非日常的体験を通して、一時的な『死』に対して謙虚になっているだけじゃあ、駄目だよ。
残した母さんを始め、お前たち三人の子どもに灯った信仰の火種を考えると、なにか良いことがあったときだけ信じるとか、悪くなったら信じないとか、それが『ご利益信仰』なら、信仰のまだまだ初歩の初歩だよ。
信仰は幸福の基だが、信仰を幸福の取引の道具にしちゃあ、駄目だよ。信仰はギブ・アンド・テイクじゃないんだ。信仰したら幸福が与えられるんじゃあないんだ。信仰することが幸福なんだ。その他の幸福は、すべて『オマケ』なんだよ。父さんの言いたいことが、分かるかなぁ?
父さんが生涯を通じて一番大切にしていた信仰の言葉は、『仏言』による、『不条理なれど、我信ず』という言葉だよ。
だから日ごろの生活のなかで、神さまの慈悲を感じ取り、それに感謝して、行動で世間にお返しする生活が、本当の人間のあるべき生活なんだと、家族に感じて欲しかったな。
――まぁ、そういう私も、そんなに偉そうなことは言えないけどね。愛を与える生き方が正しいと知っていながら、それでも心の中の大半はじぶんのことで締められ、まだまだ人に優しくすることが出来たと思うと、やはりそれだけが心残りだ。
そして正直に今思うのは、この世に未練があるとすれば、神さまを信じて生きる素晴らしさを、縁ある周りの人に、充分に伝えられなかったことだ。
妻にも、子どもたちにも、折に触れて『真理』を伝えたつもりでいたが、私の影響力、感化力の至らなさが、遂にこの家族の中から本当の信仰心を受け継ぐ者が出なかった。
薄っすら、信仰というものを掴んだとは思うが、みんな熱心な信仰者とはいえなかった。仕方なく、私の信仰する姿に合わせてくれていたというか、黙認してれていたのだろう。もちろん、家族に信仰を反対されたり妨害されたりするよりは、黙認という形でも許してくれたのは感謝している。力不足の父親ですまなかった。
そんなことを考えていたら、また睡魔に襲われるようにして、夢うつつになる。今度は虹色の世界が私を包んでいく。そしていろいろな人の顔が思い出されてくる。
あぁ、あの人にはお世話になったな。私は感謝していたが、伝わっていたのかなぁ。もっとちゃんと言葉で感謝を伝えておけばよかった。
あの人とはなんだか馬が合わなかったし、それが心で伝わりお互い嫌っていたが、いま思うと、そんなに悪い人でもなかったなぁ。なぜ、もっとあの人のことを知ろうとしなかったのだろうか。

うちの妻にも、我儘言って、迷惑かけたなぁ。こんなに早く別れがくるなら、もっと優しい言葉をかけてやればよかった。感謝を形に現せばよかった。
私は生涯に妻に花の一本も買ってやらなかったことを悔いた。
人生って別に、やれないことをやる必要はない。やろうと思えばやれることを、日常の中でどれだけやるかが大切なことだったと、愚かにも人生の最後で気づいた。
人生、やろうと思えば、なんでも出来る。決意さえすれば、今の瞬間からでも出来ることは山のようにある。始めようとすれば、なんだって始められる。こんな簡単で素晴らしいことを、なぜしなかったのか、してこなかった後悔しかない。
『時間は命なり』という言葉の意味が、今やっと理解できた気がする。

人生とは『時間』であり、『時間』とは我々の『存在』そのものでもある。
そしてその『時間』とは、『仏』そのものの『命』でもある。
私の信仰している教えの経文の最初の言葉に、初めにして最大、最終の教えが説かれている。
それが『大宇宙に、光りあり』という教えだ。
この一言が、宇宙の成り立ち、いわゆるビックバンという物理現象の本当の霊的真実の背景を明かし、永遠にして循環であり初めにして完結である宇宙の秘密を、最初に余すことなく解き明かしている。
そしてそこに、宇宙の成り立ちと人間の立場が明確に語られているのだ。
『光り』には存在に不可欠な二大要素が含まれる。
それは前に進むという性質を含んでいる光とは、『時間』を内包するエネルギーだ。
そしてもう一つの光りの特性として、拡散し拡がる性質、『空間』をも内包するエネルギーということだ。
つまりこの大宇宙は、西洋的に言うと神(クリエーター)、東洋的に言えば根本仏の思いが物事に先立ちてあって、それが具体的に光となって『時間』と『空間』が同時に創造され拡がったということを明確に説いている。
これに続く言葉は『光りは、仏の、命なり』だ。
これは全ての存在に、仏の命が吹き込まれているという言葉である。つまり、宇宙も時間も空間も人間も仏の思いで創造された『被造物』であり、それは仏の命を吹き込まれた存在、すべては仏の慈悲の展開である。故に、我々は仏の念(おも)いによって創られた『時間』内包する『光り』とともに創られた『被造物』であり、そのクリエーターによって、『光りは仏の命なり』とまで明言された、我々、もしくは森羅万象の『存在』とは、本来、仏の命と同根の尊いものだということだ。
これが仏典に書かれている『森羅万象に、仏性あり』ということであり、『時間は命なり』とは『生きるとは、仏の命を燃やし尽くす尊い時間のこと』を現す言葉だと思う。
死ぬ前にして分かったことは、『時間を無駄にした』という後悔だ。それは『仏の命を無駄にした』という深い悔悟(かいご)の心の涙でもある。
少なくとも私は、私の生涯を賭して信じた教えの一部を、そう理解している。

            (第3話に続く)

       

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