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ブッダは何を目指したのか?私たちが求める幸せとの「根本的なズレ」

「80歳になってからブッダは最後の旅に出たと聞きました。一体最後になって、ブッダの目指したものは何だったのでしょうか?」

今日は、ある方から寄せられたこんな深いご質問から、仏教が本来目指していることについてお話ししてみたいと思います 。

今から約2600年前のインドに現れ、仏教を説かれたブッダ 。悟りを開かれる前の名前はゴータマ・シッタルタといいました 。35歳のときに仏の悟りを開かれて「ブッダ(仏の悟りを開かれた人)」となられ、80歳で亡くなられるまでの45年間、仏として教えを説き続けました 。その教えを仏教といいます 。

たしかにブッダは80歳になられてから最後の旅に出られ、その旅の途中で亡くなられました 。人生の晩年に旅に出るというと、ご自身の死期をさとって何か特別な心境の変化があったのではないか、と小説やドラマのように想像してしまいますよね 。

しかし、実際は80歳になってから特別に旅に出られたというわけではありません 。お釈迦様のご一生というのは、広範囲のインドにわたって布教の旅を続ける「旅の連続」だったのです 。慰安旅行や観光旅行といった目的ではなく、各地の人たちに少しでも仏の教えを伝えたいというただ一つの思いで、常に旅立たれては各地で説法をされていました 。

では、お釈迦様はなぜそこまでして人々に仏法を伝えようとされたのでしょうか?仏法を説かれた目的は一体何だったのでしょうか?

実は、その答えを知ることは、「私たちが何のために生まれ、なぜ色々と辛いこともあるのに生きていかなければならないのか」という、私たちの人生の根本的な答えを知ることにも繋がります 。


1. 仏の心は「大慈悲」であり、目的は「抜苦与楽」

ブッダが仏教を説かれた目的。それは漢字四文字で明確に表されます 。 「抜苦与楽(ばっくよらく)」です 。

「苦しみを抜いてやりたい(抜苦)」そして「楽を与えたい(与楽)」。これこそがブッダが説法された目的でした 。

これは仏様の心そのものでもあります 。お釈迦様は「仏心とは大慈悲これなり」と言われています 。今日でも「慈悲」という言葉を使いますが、これも元々は仏教の言葉です 。

  • 慈(じ):苦しんでいる人を放っておけず、その苦しみをなんとか抜いてやりたいという「抜苦」の心 。

  • 悲(ひ):楽しみを与えてやりたい、楽を与えたいという「与楽」の心 。

「苦を抜くを慈といい、楽を与うるを悲という」と言われるように、慈悲とはまさに抜苦与楽のことなのです 。仏の悟りを開かれた方の心は「大慈悲」であり、苦しんでいる人がいるとじっとしておれず、なんとか幸せを与えてやりたいと願うのが仏の心です 。その心で説かれた教えだからこそ、仏教の目的は抜苦与楽となります 。

また、お釈迦様は「仏法を説く者は医王の如くせよ」と教えられています 。説法をする者は、医者の自覚を持って法を説きなさいということです 。現在の医療従事者の方々が、呼吸困難で苦しむ人をなんとかサポートしようと懸命になり、健康になるまで寄り添うのと同じです 。

「こういう話をすればウケるだろう」「みんなから評価されるだろう」といった目的や狙い、私利私欲で教えを説いてはいけないとお釈迦様は戒めています 。説法の目的はあくまで抜苦与楽であり、苦しんでいる人のその苦しみを癒やし、幸せになるように説きなさいと、お弟子たちに対して言われているのです 。

2. 私たちが生きる目的も「抜苦与楽」

ブッダの目的が抜苦与楽である一方、迷いの衆生である私たちが仏教を聞く目的は何でしょうか? 実はこちらも「抜苦与楽」なのです 。

私たちは皆、不安や不満、空しさ、寂しさといった苦しい心を抜き取りたいと願っています 。そして、楽になりたい、幸せになりたい、安心したい、満足したい、充実したいという心を持っています 。苦しみを抜き、幸せになる。それが私たちが仏教を聞く目的であり、もっと言えば「私たちが生きている目的」そのものと言っていいでしょう 。

私たちが抱える苦しみとは、代表的なもので言うと「貧・病・争」です 。

  • 経済的な苦境(仕事の収入が上がらない、会社の経営が上手くいかない、個人事業主で収入が半減したなど) 。

  • 肉体や心の病気 。

  • 人間関係の争い(夫婦間、親子間、職場でのぶつかり合いなど) 。

これら生きる上での苦しみをどうやって抜くかが私たちの関心事です 。そして求める「楽」とはその反対です 。

  • 経済的に豊かで欲しいものが買える暮らし 。

  • 親子ともに健やかな健康 。

  • 家族や職場の仲が良い状態 。

苦しい状態から、こうした幸せな状態になるにはどうしたらいいか。そこに私たちの努力や知恵は集中しています 。政治、経済、医学、科学、法律、道徳、芸術、スポーツといった人間の一切の営みは、いかにして苦しみの状態から幸せな状態へ持っていくかという試行錯誤なのです 。

例えば科学の世界では、ノーベル賞を受賞するような方は、人類が苦しんでいる物事を改善し、多大な貢献をした方々です 。人間関係でトラブルが起きれば、それを解決するために法律が整備されたり、道徳が重んじられたりします 。

このように私たちも常に抜苦与楽を求めており、ブッダも抜苦与楽を説いています 。一見すると目的が完全に一致しているように思えますよね 。

3. ブッダの目指した「抜苦与楽」との根本的なズレ

しかし、私たちが目指す抜苦与楽と、ブッダが説く抜苦与楽には根本的な違いがあるのです 。この違いがあるからこそ、仏教の教えはなかなか多くの人に浸透しにくい部分でもあります 。

一体何が違うのでしょうか?

私たちが抜きたいと願っている苦しみは「生活苦(生活上の苦しみ)」です 。病気が嫌だ、貧乏が嫌だ、人間関係の衝突をなんとかしたいといったものです 。 一方、ブッダが抜いてやりたいと願っているのは「人生苦(人間存在そのものの苦しみ)」なのです 。

また、私たちが求めている幸せとは「欲が満たされた幸せ」です 。仏教では代表的な欲を「五欲(ごよく)」と説いています 。

  • 食欲:美味しいものを食べたいという欲 。

  • 財欲:お金が貯まっていく欲 。

  • 色欲:男女の欲 。

  • 名誉欲:人から褒められたい、承認されたいという欲 。

  • 睡眠欲:いつまでも寝ていたいという欲 。


【五欲とは】


私たちはこれらを満たす楽しさを求めています 。しかし、ブッダが与えたいと願う幸せは「信楽(しんぎょう)」と呼ばれるものです 。これは「人間に生まれてきてよかった!」という生命の歓喜、大安心・大満足の世界を指します 。

4. 越えても越えても続く「山路」の先にあるもの

この「生活苦」と「人生苦」の違いを理解するために、ある一つの歌をご紹介します 。

「越えなばと 思いし峰に きてみれば なお行く先は 山路なりけり」

私たちは目の前にそびえる「病気」や「人間関係」といった山を、「これを越えたならば幸せになれる、安心できる、満足できるんだ」と思って一生懸命に乗り越えようとします 。しかし、やれやれと山を越えてみたならば、その向こうにはさらに大きな次の山が待っているのです 。

一時的には「やれやれ」と思っても、また次の山に向かって頑張らなければ安らぐことができません 。人間生きている以上、病気になることもあれば、人間関係の悩みも常にありますし、経済的に追い込まれることもあります 。

会社でノルマを果たして「これでリストラに遭わなくて済む」と思っても、また次の月のノルマがやってきます 。会社を立ち上げて「今年はなんとか乗り越えた」と思っても、来年はどうだろうか、再来年はどうだろうかと様々なことが起きます 。 ガンになってなんとか治ったとしても、また再発する恐れがあります 。人間関係でようやく離婚できたと思ったら、今度は違う人間関係で悩むことになります 。

次から次へと苦しみの山はやってきて、やがては老いや病魔が訪れます 。人間が生きるということは、苦しみの山を乗り越え続けるようなものなのです 。

これら一つ一つの山が「生活苦」です 。この山をどう乗り越えるか、どうやって関係を改善するかについて、私たちは様々な人の力を借りて乗り越えていきます 。

しかし、乗り越えても乗り越えても次の山があり、最後はいつか死んでいかなければなりません 。いつか今度は「この山は乗り越えられませんね」という時が、どんな人にも必ずやってきます 。最後は倒れなければならないとしたら、一体何のために私たちはこの苦しみの山路を歩き続けなければならないのでしょうか?

生きている目的がわからず、ただひたすら山道を登り続けてやがて死んでいく、その空しさ。これこそが「人生苦」なのです 。

ブッダの目的

ブッダが狙いを定めているのは、まさにこの根元的な「人生苦」を抜いてやりたいということなのです 。

生活苦を抜くことは人間の手でもある程度できますが、また次の苦しみがやってきます 。欲を満たす幸せも、一度満たしてもすぐに色あせてしまいます 。お腹がいっぱいになって大満足だと言っても、一晩寝て朝になればまたお腹が空きます 。お金が入って嬉しいと言っても、しばらくするともっと欲しいという気持ちに変わります 。

私たちが求める抜苦与楽には完成がなく、いつまでも楽しませ続けてはくれません 。それはまるで、ゴールのないマラソンを走らされているようなものです 。

だからこそブッダは、「それは可哀想だ。なんとかして苦しみの根本である人生苦を抜き取り、色あせることも薄れることもない安心と満足を与えてやりたい」と願われたのです 。これが仏教の本当の目的です 。

仏教の教えを聞くと少し難しく感じてしまう人がいるのは、私たちが日常的に求めているニーズとは根本的に違い、もっと大所高所に立って苦しみを抜き、幸せを与えたいという「仏の悟りを開かれた方の教え」だからなのです 。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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