【仏教の視点】「血筋は争えない」という言葉の残酷さと嘘
世間ではよく、「血筋は争えない」とか「血は争えない」という言葉が使われます 。例えば、親がDVなどで問題を起こした人だと、その子どもが怒鳴ったりしただけで「血は争えないね」と言われたり、兄が犯罪を起こすと「弟も血は争えないから結婚は辞めた方がいい」と言われたりすることがあります 。
日本には血統や家柄を重んじる人も多いですが、仏教を説かれたお釈迦様は、血統や血筋に振り回されるのは愚かなことだと教えられています 。

では、遺伝子や家系といったものを仏教ではどう捉えているのでしょうか。この記事では、血統で人の優劣を決めることの無意味さと、人間の本質について仏教の視点から詳しくお話しします 。
1. 血筋は「縁」、行いが「因」
仏教には「因と縁が結びついて結果が現れる」という「因縁果の道理」という教えがあります 。
血筋や家族はあくまで「縁(環境)」です 。
決定的な原因である「因」は、その人自身の「行い」です 。

これは、「種」と「畑」の関係に例えられます 。どれほど同じ畑(環境)であっても、蒔いた種(行い)が違えば、カボチャが出たり、ピーマンが出たり、トマトが出たりと、育つ作物はまったく変わってきます 。つまり、同じ父母という環境で育った兄弟であっても、それぞれの行いが違うため、現れる運命は変わってくるのです 。

また仏教では、生まれる前からの過去世の行いである「宿業」を因とし、父母を「縁」として生まれてくると教えられています 。宿業というタネが一人ひとり違うため、同じ両親の元に生を受けても、容姿や才能、性格はそれぞれ異なるのです 。両親は畑を提供することはできても、タネが違う以上、両親の力だけで全てをどうにかできるものではありません 。

「同じ両親から生まれたのだから全て同じはずだ」という考え方は仏教では否定されており、これからのタネまき(行い)によって人生はどんどん変わっていくと教えられています 。
2. 加害者家族への残酷なバッシング
「同じ畑なのだから、兄がカボチャなら弟もカボチャに違いない」という偏見が引き起こす悲劇の一つが、加害者家族へのバッシングです 。
今から約10年前、秋葉原で通り魔殺人事件を起こした加藤智大死刑囚の弟さんは、自ら命を絶ちました 。彼は事件後、「犯人の弟」という理由で仕事を追われ、家を転々とする生活を強いられました 。引っ越し先で見つけた仕事も、素性がバレると「連続通り魔殺人犯の弟がいるレストランで食べたくない」といった風評被害を恐れる店側から辞めてくれと言われてしまったのです 。

そんな絶望の中で恋人ができ、「あなたはあなただから」と受け入れてもらえたことで生きる勇気をもらいました 。しかし、結婚直前になって相手の家族から「犯罪者の兄弟と娘を結婚させるわけにはいかない」と猛反対され、破談になってしまいます 。

彼が亡くなる前に残した手記には、胸を締め付けられるような言葉が綴られていました 。
「あれから6年近くの月日が経ち、自分はやっぱり犯人の弟なんだと思い知りました。加害者の家族というのは幸せになっちゃいけないんです。それが現実。僕は生きることを諦めようと決めました。死ぬ理由に勝る、生きる理由がないんです。どう考えても浮かばない。何かありますか。あるなら教えてください。」
また、別の無差別殺人事件を起こした高校生の母親も、激しいバッシングに苦しみました 。息子が事件を起こした後、ワイドショーなどで「家族から虐待を受けていたようだ」「両親が不仲だった」などと、事実無根の情報をコメンテーターに無責任に語られ、それが瞬く間に拡散していったのです 。いつしか自分の存在がモンスターのように宣伝され、多額の賠償責任や経済的な苦境に加え、個人情報まで晒されるという地獄のような苦痛を味わいました 。

もし仮に、人間の価値が「血筋」で決まるのであれば、私たち自身はどうでしょうか 。
5代遡れば32人(幕末頃)の先祖がいます 。
戦国時代まで遡れば100万人にもなります 。
これだけの数が入れは、尊敬できる人もいれば、友達になりたくないような人もいたはずです 。
当然、窃盗や強盗、殺人などあらゆる犯罪を犯した人の血も、私たちには流れていると言えます 。

だからこそ、血筋や家族ですべてが決まるという風潮は、仏教の視点からは明確に否定されるのです 。
3. 私たちと殺人犯に「明確な違い」は存在しない
凶悪な事件を起こした犯人と、私たちはどれほど違うのでしょうか 。 ある若者は、次のような本音を語っています 。
「死ぬ理由はないが生きる理由もないし、死のうかなって思ってる。バイク買おうかなって思ってるけどお金たまるのにあと3ヶ月はかかるし人生は早送りも出来ないし辛気臭いよね。3ヶ月も面倒だから死のうかなって思ってる。まぁどうせ死なないのだろうけど。死ぬより事件を起こすタイプかもしれない。イラっとして切れてしまいそうになる。切れる理由もないのだけど。なんもないんだよね。なんもないからなんかあまりにもつまんなくて切れてしまいそうになったり死にたくなる。友達もいないし彼女もいないし。つまんない人生だなぁ~。働いて働いて、やっと休みも暇で暇で、また働いて働いて。。早送り出来ないかなぁ。」
このような閉塞感や、人生をひっくり返してしまいたいような破壊願望は、決して特別なものではなく、多くの若者が抱えている感情かもしれません 。少しの引き金(縁)が重なれば、誰でも事件を起こしかねない危うさを抱えているのです 。

長年『FRIDAY』でカメラマンとして数々の凄惨な事件を取材してきたある人物も、猟奇的な殺人犯たちの共通点を探るために取材と現場検証を重ね、一冊の本を書きました 。最初は「彼らは人間ではない、我々とは違う」と思って取材を始めたそうです 。
しかし、彼が辿り着いた結論は「自分たちとの明確な違いは存在しない」というものでした 。 取材を通して殺人に至る背景を知るうちに「無理もない」と感じ、自身の心の中にも、理不尽への怒りや、持てる者に対する嫉妬といった「ドロドロした人に言えない心」が確かにあると気づいたのです 。
4. 仏教が教える「生きる理由」
親鸞聖人はご自身の心を真面目に見つめられ、次のように告白されています 。
さるべき業縁のもよおせば、いかなる振る舞いもすべし
「あいつがいなければあれが自分のものになるのに」という欲
「あいつ死んでくれたらいいのに」という腹立ちや嫉妬
こうしたドロドロしたものを持っており、縁さえ揃えば人間は何をしでかすか分からない恐ろしいものを抱えている 。「あんなことだけは絶対にやらない」と言い切れる人は一人もおらず、仏教ではすべての人は煩悩の塊であり、変わりは何もないと教えられています 。ましてや「血筋が悪いから」と加害者家族だけを悪者にして、「自分はそんなことしない」などと言い切ることは誰にもできないのです 。

自ら命を絶った弟さんの「生きる理由がない。あるなら教えてください」という悲痛な問い 。 人間は煩悩の塊であり、時に恐ろしい罪を犯す可能性がある存在ですが、「たとえそうであっても、なお生きる理由がある。そんな私たちが本当の幸せになれる救いの道がある」というのが仏教の教えです 。
どんな血筋の者でも、どんな罪を造った者でも救われる本当の幸せの道があることを明らかにしたのが、親鸞聖人の教えなのです 。彼にも、この教えを知って生きてほしかったと強く願わずにはいられません 。

結びに
「血筋」や「家柄」で人の価値を決めつけることは、事実無根の思い込みであるだけでなく、時に人を死に追いやるほどの鋭い刃になります。
この記事が、加害者家族へのバッシングに苦しみ思い詰めている方への歯止めとなり、またそうした社会の風潮を少しでも変えていくための一助になればと切に願います 。
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