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SF小説|ブラックホールの向こう側

ある宇宙飛行士が、ブラックホールに飛び込んだ。
それは英雄的な任務というより、ほとんど自傷に近い行為だった。

引き延ばされ、千切られ、素粒子の泡として宇宙に溶ける。
それが人類が到達した「常識」だった。
誰もがその限界を知っていたし、だからこそ誰も賛成しなかった。

それでも彼は志願した。
理由は単純で、そして愚かだった。

――知りたかったのだ。

ブラックホールの中心、特異点。
数式の中にしか存在しない場所。
そこでは時間も空間も意味を失い、因果すら折り畳まれるという。
西暦2100年に至っても、人類はその入口に立っただけで、決して中身を覗くことはできていなかった。

誰もが欲しがる情報だった。
だが、誰一人として命を差し出す覚悟はなかった。

彼だけが例外だった。


間近で見るブラックホールは、想像よりもずっと静かだった。
轟音も、嵐も、咆哮もない。
そこにあるのは、ただ「在る」という事実だけだった。

落ちる、という感覚はなかった。
穴に吸い込まれるというより、世界そのものがこちらへ傾いてくる
漆黒は完全な黒ではなく、周囲の宇宙とは異なる、わずかに歪んだ色を帯びていた。
重力が光を曲げ、星々は引き延ばされた絵画のように縁を歪めている。

美しかった。
恐ろしいほどに。

「これが……人類が恐れてきたものか」

彼は記録装置を停止した。
ここから先は、人類史ではなく、個人史だった。


境界を越えた瞬間、痛みはなかった。
圧力も、引き裂かれる感覚もない。
無重力の中で、無数の光が流星の群れのように流れていく。

時間は伸び、同時に薄まっていく。
思考は奇妙なほど澄んでいた。

――どこまで行くのだろう。
――本当に、死ぬのだろうか。

そんな、のんきですらある問いが浮かぶ。
恐怖よりも先に、好奇心があった。
それが彼の、そして人類の性質だった。

次の瞬間、光が止まった。

いや、止まったのではない。
一定の法則に従って流れていることを、彼の脳が理解した

見渡す限り、見知らぬ星空。
配置も、色も、物理定数すら違うように感じられた。
辛うじて背後を振り返ると、あの漆黒の球体が遠ざかっていく。

「……通り抜けた」

言葉にした瞬間、現実になった。

彼は震える手で腕時計のストップウォッチを止めた。
表示された数値は、0.01秒。

「冗談だろ……」

人類が数十億年かけて恐れ、回避し、理論で包囲してきた現象が、
彼にとっては、瞬きよりも短い出来事だった。

笑いがこみ上げ、次いで涙が溢れた。
男泣きだった。
宇宙服の中で、声にならない嗚咽が反響した。


特異点の記憶は残っていなかった。
いや、残せなかったのだろう。

もし観測するには、プランク時間で思考できる脳が必要だったのかもしれない。
人類は、知ろうとするにはまだ粗すぎた。

ふと、現実が戻ってくる。

酸素残量。
推進剤。
通信。

どれも絶望的だった。
人工衛星はない。
星図は役に立たない。
目標とできる恒星すら、どれが何なのか分からない。

「一体……どこなんだ、ここは」

答えは返ってこない。

彼はようやく理解した。
自分は勝利者でも英雄でもない。
ただ、境界を一歩踏み越えてしまった存在なのだと。

宇宙は挑戦を罰しない。
称賛もしない。
ただ、無関心に広がっている。

通信手段はなかった。
この奇跡も、この絶望も、誰にも伝えられない。

それでも彼は、星々を見つめ続けた。
人類がここに来られなかった理由を、
そして、それでも来ようとする理由を、
胸の奥で静かに反芻しながら。

宇宙はあまりにも大きく、
人類はあまりにも小さい。

それでも――
この一瞬の好奇心のために、
人は命を差し出してしまう。

それが勇気なのか、
それとも、救いようのない愚かさなのか。

その答えを知る者は、
この宇宙には、もう彼しかいなかった。

そして彼は、
誰にも届かない通信ボタンに、
そっと手を伸ばしたまま、
星々の沈黙の中に漂い続けていた。


つづく



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