「小牧・長久手の戦」中入り軍敗北の構造考察
小牧・長久手の戦い 秀吉の中入り作戦までの経過
天正12年(1584年)、秀吉と家康は尾張東部の小牧・長久手で直接対峙することになりました。
きっかけは、清洲会議後の秀吉の急速な勢力拡大に危機感を抱いた織田信雄の要請でした。
しかし家康自身にも、秀吉の勢力拡大を食い止める目的がありました。
家康の目的
圧倒的な兵力を持つ秀吉軍に対し、小牧山城を中心とした要塞線を構築し、反豊臣勢力が決起するまで秀吉軍を拘束する。
物資の補給は、要塞線の内側にある同盟者・織田信雄の領国から確保する。
秀吉の目的
圧倒的な兵力を背景に、家康・信雄連合軍を包囲する。
可能であれば濃尾平野で決戦を挑み、連合軍を撃滅する。
補給は木曽三川水系と伊勢湾の水運を活用して行う。
戦況
しかし秀吉軍は、小牧山城を中心とする防御線や、野戦築城によって築かれた塹壕・土塁に阻まれました。
その結果、家康の狙い通り戦線は膠着し、数か月にわたって大規模な決戦は行われませんでした。
秀吉の中入り作戦と長久手の戦い
秀吉は膠着状態を打破するため、池田恒興の進言を採用し、家康不在の三河領へ攻撃を行うことにしました。
秀吉の目的は、
● 家康の後方連絡線を遮断すること
● 状況次第では岡崎城を攻略すること
そして、家康が慌てて小牧山城を出た時点で、秀吉本隊がこれを捕捉し、決戦に持ち込む構想でした。
秀吉が編成した中入り軍は総勢約2万人。
以下の4つの隊(軍団)によって構成される縦隊(一列に並んだ進軍形態)でした。
第一隊
池田恒興 約6,000人
第二隊
森長可 約3,000人
第三隊
堀秀政 約3,000人
第四隊
羽柴秀次 約8,000人
目付 堀尾吉晴
長久手周辺の地形
長久手周辺は緩やかな丘陵地帯であり、視界を遮る丘や森林が連続しています。
濃尾平野のような開けた地形ではなく、部隊の位置把握や連携が難しい地域でした。
天正12年(1584年)4月9日
午前4時頃 白山瀬古
羽柴秀次隊が白山瀬古付近に差しかかったところ、中入り軍の動きを察知して追跡してきた徳川軍の攻撃を受けます。
夜間、伸び切った縦隊の後方から奇襲を受けたため十分な防御態勢を整えることができず、秀次隊は短時間で壊乱しました。
午前7時頃 檜ヶ根
堀秀政隊は徳川軍の接近を察知し、檜ヶ根付近で迎撃を実施します。
徳川軍先鋒に損害を与えましたが、家康本隊の接近を知ると戦線を離脱し、秩序を保ったまま撤退しました。
午前10時頃 長久手
最前線にいた池田恒興隊と森長可隊は後方の異変を知り反転。
現在の長久手古戦場周辺で家康軍主力と激突します。
正午頃
激戦の中で森長可が戦死。
森隊は動揺し、続いて池田恒興と嫡男・池田元助も討死しました。
これにより秀吉の中入り軍は事実上壊滅します。
午後2時頃
家康は勝利を確認すると深追いせず、小牧山方面への撤退を開始します。
徳川軍は秀吉本隊の反撃体制が整う前に戦場を離脱し、小牧山城へ帰還しました。
徳川軍の勝因
● 短期戦を前提とした機動力重視の行動
● 中入り軍を迅速に捕捉できたこと
● 夜間に縦隊後方への奇襲を成功させたこと
● 丘陵地帯で伸びた縦隊を分断し、各個撃破できたこと
秀吉側の敗因
● 中入り軍の規模が大きく、行動を察
知されたこと
● 大軍ゆえに縦隊が長大化したこと
● 部隊ごとの練度や行軍速度の違い
により、部隊間隔が広がった可能性があること
● 敵地での行動であり、小荷駄や補給物資の存在が機動力を低下させた可能性があること
中入り軍敗北の構造
一般には長久手の戦いは、
「家康が秀吉軍の中入り軍を撃破した戦い」
として語られることが多い。
しかし私は、敗北の原因は長久手平での戦闘そのものではなく、その前段階にあったのではないかと考えている。
秀吉の中入り軍は、
● 池田恒興隊
● 森長可隊
● 堀秀政隊
● 羽柴秀次隊
によって構成されていた。
本来の目的が家康を小牧山から誘い出すことであれば、池田隊や森隊だけでも十分な脅威になったはずである。
しかし実際には約2万人もの大軍となり、長大な縦隊を形成して行軍することになった。
では、なぜ総勢約2万人もの大軍になったのだろうか。
私は、その理由の一つとして、甥の羽柴秀次に戦功を立てさせたいという秀吉の意図があったのではないかと考えている。
秀次を危険な敵地へ送り込む以上、十分な護衛兵力を付ける必要があった。
その結果、中入り軍は約2万人もの大軍となり、長大な縦隊を形成して行軍することになった。
その結果、隊列は伸び切り、各部隊の間隔も広がった。
最初に崩れたのは最後尾の秀次隊である。
後方を急襲された秀次隊は短時間で壊乱し、続く堀秀政隊も撤退を余儀なくされた。
この時点で池田隊・森隊は事実上孤立した。
池田恒興や森長可は、本来予定していた行動を変更し、後方の異変への対応を迫られた。
また、秀次隊の救援も意識せざるを得ず、戦術上の選択肢も狭まった可能性がある。
戦史を見ると、このような事例は決して珍しくない。
一部隊の崩壊が全体の作戦を狂わせ、指揮官に予定外の判断を強要するのである。
長久手の戦いもまた、その典型例だったのではないだろうか。
もし秀吉の目的が陽動であったなら、長久手付近で停止し、反撃体制を整える選択肢もあったはずである。
また三河侵攻が目的であったとしても、池田隊や森隊を中心とした機動力の高い部隊で実施した方が合理的だったようにも見える。
ところが実際には、
● 家康誘引
● 三河侵攻
● 岡崎城攻略
● 羽柴秀次への戦功付与
など複数の目的が混在していたように見える。
私は、この作戦目的の曖昧さこそが、中入り軍敗北の最大の要因だったのではないかと考えている。
もし秀次隊が存在しなければ、中入り作戦はより機動的なものとなり、家康を苦しめた可能性はあったと思う。
これは太平洋戦争におけるミッドウェー海戦の敗北にも通じるものがある。
ミッドウェー島攻略なのか。
アメリカ空母の誘引撃滅なのか。
日本海軍は複数の目的を同時に達成しようとした結果、作戦全体が複雑化した。
一方、アメリカ軍の目的は極めて単純だった。
「日本空母を撃沈する」
ただそれだけである。
長久手の戦いも同じように見える。
家康の目的は、
「中入り軍を捕捉して撃破する」
という一点に集中していた。
戦争に限らず、組織は目的が増えるほど重くなる。
そして時に、その複雑さが敗北を招く。
私は長久手の戦いを調べながら、そんなことを考えた。
