長島一向一揆 織田軍苦戦の理由 地形の特異性
長島一向一揆の時系列
• 第一次(1570年)
• 第二次(1571年5月)
• 第三次(1573年9月〜10月)
• 第四次・最終殲滅戦(1574年7月〜9月)
織田信長は長島一向一揆の討伐に4年の歳月を費やし、その戦いの中で多くの親族や家臣を失っています。
何故、これほどまでに苦戦したのでしょうか。
織田信長を取り巻く各勢力の影響については、本稿では敢えて言及しません。
本稿では、伊勢長島の水郷地帯における戦いの困難さについて考えてみます。
以下は、私の考えになります。
戦国時代の長島は、江戸時代のように居住地や耕作地を堤防で完全に囲った輪中になっていた、という記録はありません。
しかし、河川の堆積によって形成された自然堤防はあったと思われます。
その自然堤防に手を加え、土塁を築き、柵を巡らせれば、それだけで城壁となります。
このような島が長島には点在していました。
つまり長島は、河川という深い堀に囲まれた島々に、それぞれ総構えを備えた城塞が築かれた、巨大な城の複合体だったのです。

巨大な城の複合体
攻撃には、船の利用が欠かせなかったでしょう。
しかも長島は河口部に位置しており、潮の満ち引きや雨季・乾季によって川筋や水路が変化します。
現地の地形や川筋を熟知していた一揆勢は、織田軍の知らない水路や、満潮時・増水時にしか通れない水路を利用して、攻撃も撤退も自由自在だったのではないでしょうか。
私は、織田軍は木曽三川河口部の複雑な地形と、島ごとに築かれた総構えの城塞群に苦戦したのではないかと考えています。
皆様は、どのようにお考えでしょうか。
ぜひ、ご意見をいただければ幸いです。
次回は、一揆勢の最強兵器について考えてみます。

