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哲学してみようか?(6)   「不殺生」のジレンマ

ジレンマ: 生き残るための「殺生」か、理念を守るための「滅亡」か。

1.釈迦の教え:「生の等価性」

ぼくがたどり着いた「自分と他者の生は等価である」という考えは、仏教の根本である「不殺生(ふせっしょう)」の思想と深く響き合っていると思う。

お釈迦様が説いた「五戒」の第一は「殺してはならない」だった。
これは生命への深い共感に基づいている。
ぼくがこうした考えに行き着くのは、日本という風土の中で教育を受け、無意識のうちに仏教や禅宗の考え方を学んできたからだろうか。

2.現実社会という高い壁

しかし、この理想を貫こうとすると、一つの過酷な現実に直面する。

「もし他国(ロシア、北朝鮮、中国)が武力で侵攻してきたときに、
 不殺生を徹底すれば『敗者』となり、自分だけではなくて、愛する人々や文化さえも失う」

という現実的な問題だ。

2024年2月のインド旅行では、アショカ王は、インドを統一するまでに行った残虐行為(征服した一つの村の男5万人以上を皆殺しした)を反省して、仏道に帰依しインド全土に「不殺生」を唱えた(石柱のライオンはインド国旗になっている)。

しかし、息子の代に、小乗仏教の本部をセイロン島(現在のスリランカ、補陀落山はセイロン島がイメージされている)に移し国は栄えたが、やがて外国の侵攻を招き国は滅亡した。

小乗仏教(バラモンのみが成仏)は南伝し、北伝した仏教は大乗仏教(誰でも成仏できる)となり中国、日本に伝わったが、争わない宗教はチベットや日本のみしか生きられなかった。

ここで、ぼくたちは究極の選択を迫られることになる。

  • (A)生存のために、殺しに来る他者は殺生してもやむを得ないとする道

  • (B)たとえ殺されるとしても、いかなる場合も他者を殺生しない道

  • (C)自分を殺しに来る他者に「反撃」はするが、決して「殺さない」道

3.『孟子』に見る、殺生の「質」

ぼくは『孟子』の素読をしている(YouTube動画を公開している)が、その中の一節を思い出す。

梁恵王章句下篇(りょう けいおう しょうく げへん)の第8に、暴君(紂王)を討つことを肯定した箇所がある。

「仁を損なう者を賊(ぞく)といい、義を損なう者を残(ざん)という。
残賊の徒は、もはや王ではない。ただの男に過ぎないのだから、これを誅殺しても、臣下が王を殺すことにはならない」

「孟子」梁恵王章句下篇8

孟子の教えを借りれば、自分を殺生しようとする他者は、人間とが言えないのだから、これを誅殺しても、殺生したことにならない。

4.「非暴力」という究極の挑戦

一方で、自分を殺生しようとする者に対しても、決して剣を抜かないという道もある。

この実例は、インド独立運動でガンジーが貫いた「非暴力不服従運動」だ。
ガンジーは、イギリス植民地政府の暴力に対して、自らの命を賭して無抵抗を貫いた。これは「暴力の連鎖を自分の代で断ち切る」という、人間だけに許された極限の理性の姿であった。

5.ぼくが選ぶ「第三の道(C)」

ぼくは、この三つの中で(C)のスタンスを選択したい。

一見、最も困難で、甘い考えだと言われるかもしれない。
しかし、これこそが「大地を踏みしめる哲学」としての、ぼくなりの誠意なのだ。
その理由は二つある。

① 相手に「殺生」という罪を犯させないための慈悲

ぼくが素読している『孟子』では、暴君を討つことを肯定するが、それはあくまで「仁義」を守るためだ。
これを通俗的な防衛論に広げて考えれば、抑止力や反撃力を持つことは、相手が「殺生」という取り返しのつかない罪を犯すことを踏みとどまらせる、一種の「配慮」であると言える。

力を見せることで、争いを未然に防ぎ、互いの「生の等価性」を結果的に守り抜く。それが反撃(抑止)の真意だ。

② 「殺生」した瞬間に、自分の哲学が崩壊する

しかしもし、生き残るために相手を殺してしまえば、ぼくが大切にしてきた「自分と他者の生存は等価である」という大前提が、自分自身の手で破壊されてしまう。

相手がぼくの生存を無視して襲ってきたとしても、ぼく自身が相手の生存を完全に否定(殺害)してしまえば、ぼくもまた相手と同じ地平に落ちてしまう。

6.「理性」という名の武器:「反撃はするが、殺さない」。

これは生物としての本能を、人間の「理性」で制御しようとする最も人間らしい格闘だ。(動物でも、オス同士が喧嘩はするが、殺さない)

暴力という本能を、理性という力で支配する。相手の攻撃を無力化する知恵と技術を磨きつつ、最後の一線だけは越えない。これこそが、ガンジーが目指した非暴力の精神と、孟子が説いた義の精神を、現代のリアリズムの中で統合する道だと信じている。

7.結びに:納得して選ぶということ

もちろん、この道は険しい。実際の戦場でそれが可能か(専守防衛は攻撃の3倍の備えが必要と言われる)と言われれば、理想論かもしれない。
しかし、哲学とは「どう生きるか」の旗印だ。

  • (A)を選んで、泥臭くとも生を繋ぐ決断

  • (B)を選んで、魂の純粋さを守り通す決断

  • (C)を選んで、現実と理想の間でギリギリの理性を保つ決断

どれもが、その人が自らの足で大地を踏みしめて選んだ、尊い哲学だ。
ぼくは、この「(C)」という、困難だけれども前向きな葛藤を抱えて生きていこうと思う。

(次回に続く)
憲法改正について、ぼくはnoteに記事を掲載しているが、「哲学」が憲法に反映する(反映させる)というのは、このような考えに基づくものだ。