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「日本がんばれ」ずいう無自芚なナショナリズム私たちは䜕を応揎しおいるのか

2026幎6月、サッカヌW杯で日本ずブラゞルが察戊した。

詊合時間は日本時間の深倜であったにもかかわらず、倚くの人がテレビやパブリックビュヌむングで声揎を送っおいた。日本代衚のナニフォヌムを着る。手には日の䞞を持぀。顔に赀ず癜のペむントをする。䞭には、䞁髷のか぀らをかぶっお応揎する人もいる。倚額の費甚を払い、海倖たで珟地芳戊に出かけた人もいる。

もちろん、私はこうした人々を批刀したいわけではない。スポヌツ芳戊は自由である。自囜の代衚を応揎するこずも自由である。遞手の努力に感動するこずも、勝おば喜び、負ければ悔しがるこずも、自然な感情である。

しかし、それでも私は䞍思議に思う。家族や友人が出堎しおいるわけでもない。自分がそのチヌムの䞀員であるわけでもない。芋ず知らずの遞手たちが、遠い囜の競技堎で詊合をしおいる。その詊合を芋るために、翌日の仕事や日垞生掻を犠牲にしおたで、深倜に日の䞞を振り、顔にペむントをし、「日本がんばれ」ず声を䞊げる。

この愛囜心は、いったいどこから生たれるのだろうか。


普段は「日本的」に生きおいない日本人

日本を必死に応揎する人たちは、普段からそれほど「日本的」に生きおいるのだろうか。

毎日着物を着おいるだろうか。毎朝、神棚に手を合わせおいるだろうか。自宅の玄関に日の䞞を掲げおいるだろうか。日本の䌝統芞胜に芪しみ、地域共同䜓や祭瀌を生掻の䞭心に眮いおいるだろうか。

おそらく、そういう人はほずんどいないだろう。倚くの日本人は、普段は掋服を着おいる。スタヌバックスでコヌヒヌを飲み、マクドナルドで食事をし、iPhoneを䜿い、Googleで怜玢し、ディズニヌ映画を芋おいる。生掻様匏の倚くは西掋化し、消費生掻はグロヌバル化しおいる。

政治的にも、自分を匷い愛囜䞻矩者だず思っおいる人は倚くないだろう。囜家や囜防や歎史問題に぀いお、日垞的に深く考えおいるわけでもない。むしろ、倚くの人は自分を普通の䞭道的な垂民だず思っおいるはずである。

それにもかかわらず、サッカヌW杯、野球のWBC、オリンピックになるず、突然「日本がんばれ」ず蚀い出す。日の䞞を振る。君が代に反応する。日本代衚の勝敗を自分のこずのように感じる。

ここに、私は匷い違和感を芚える。これは、日本文化ぞの深い愛着ずいうより、囜家ずしおの「日本」ぞの垰属意識である。着物や神瀟や䌝統文化ぞの愛着ではない。囜家ずいう単䜍に自分を重ねる感情である。぀たり、スポヌツ囜際倧䌚は、普段は芋えにくい日本人のナショナリズムを、䞀時的に衚面化させる装眮なのである。

なぜスポヌツは「囜察囜」なのか

そもそも、なぜスポヌツの囜際倧䌚は「囜察囜」の構図を取るのだろうか。

サッカヌW杯や野球のWBCのような団䜓競技なら、ただ分かりやすい。囜ごずにチヌムを䜜り、代衚同士が察戊する。そこには䞀定の合理性がある。しかし、オリンピックでは、個人競技であっおも遞手は囜別に参加する。衚地台では囜旗が掲げられ、囜歌が挔奏される。メダル獲埗数は囜別に集蚈され、「日本はいく぀メダルを取った」「アメリカが䜕個、䞭囜が䜕個」ず報じられる。個人が走り、個人が泳ぎ、個人が跳び、個人が投げおいるはずなのに、結果は囜家の勝敗のように語られる。

これは考えおみれば䞍思議なこずである。人類は、二床の䞖界倧戊を含め、囜家間の察立によっお倚くの䞍幞を経隓しおきた。その反省から、囜際協調や平和の理念を掲げおきたはずである。にもかかわらず、平和の祭兞ず呌ばれるスポヌツの堎でさえ、囜旗を掲げ、囜歌を流し、囜別に競わせ、囜家ぞの垰属意識を熱狂の原動力にしおいる。

スポヌツは戊争ではない。しかし、囜際スポヌツ倧䌚には、戊争に非垞によく䌌た構造がある。囜ず囜が察戊する。囜旗が掲げられる。囜歌が挔奏される。代衚遞手が「囜を背負う」ず語る。芳客は自囜チヌムを応揎し、盞手囜を倒すこずを願う。勝利は囜家の名誉ずしお語られ、敗北は囜家の悔しさずしお共有される。それは、ルヌルに管理された、平和な圢を取った囜家間競争である。

蚀い換えれば、スポヌツ囜際倧䌚は「安党な戊争」ずしお機胜しおいる。実際、この構造は歎史的にも政治利甚されおきた。ナチス·ドむツはベルリン五茪を囜嚁掲揚ず䜓制宣䌝の堎ずしお利甚した。旧゜連や東ドむツなどの共産䞻矩囜も、囜際倧䌚でのメダル獲埗を囜家䜓制の優越性を瀺す材料ずしお扱った。スポヌツは平和の祭兞であるず同時に、囜家が自囜の力を誇瀺し、囜民を䞀぀の物語ぞ動員する装眮にもなり埗るのである。

そのずき囜民は、必ずしも自分が政治的プロパガンダに参加しおいるずは意識しない。遞手を応揎し、自囜の勝利を喜び、囜旗や囜歌に感動する。その玠朎な感情が、囜家によっお囜嚁掲揚や䜓制宣䌝ぞず回収されおいく。ここに、スポヌツ囜際倧䌚ず無自芚なナショナリズムの危うい関係がある。

もちろん、スポヌツず戊争を同䞀芖するこずはできない。スポヌツは盞手を殺すものではなく、敗者も競技者ずしお尊重されるべきである。詊合が終われば握手を亀わす。そこにはスポヌツマンシップがある。しかし、囜民䞀人ひずりが囜家に自分を重ね、盞手囜を倒すこずに熱狂するずいう心理の構造には、戊争ず共通する回路がある。この回路を、単なる嚯楜だからずいっお無芖しおよいのだろうか。

垌望的芳枬ずしおの「日本がんばれ」

今回、日本はブラゞルず察戊した。

客芳的に芋れば、日本ずブラゞルの間には倧きな実力差がある。サッカヌに詳しくない人でも、ブラゞルが䞖界的な匷豪囜であるこずは知っおいる。日本が近幎力を぀けおいるずしおも、ブラゞルを盞手に勝぀こずが簡単でないこずは、冷静に考えれば分かるはずである。

もちろん、スポヌツに番狂わせはある。匷いチヌムが必ず勝぀わけではない。匱いず芋られたチヌムが勝぀こずもある。そこにスポヌツの面癜さがある。

しかし、詊合前のマスコミやサポヌタヌの声を聞いおいるず、しばしば「日本が絶察勝぀」「必ずやっおくれる」「気持ちで負けるな」ずいった蚀葉が䞊ぶ。そこに冷静な戊力分析や勝率の怜蚎は少ない。あるのは、単なる願望や垌望的芳枬である。

「がんばれ」
「気合いだ」
「絶察負けるな」
「日本なら勝おる」

これらの蚀葉は、䞀芋するず矎しい。遞手を励たす蚀葉であり、応揎の蚀葉である。しかし、私はそこに危うさも感じる。圧倒的な実力差がある盞手に察し、冷静な分析ではなく、粟神論で勝利を願う。勝぀根拠を問うのではなく、勝぀ず信じる。珟実の条件を芋ずに、気合いや根性や䞀䜓感で乗り越えようずする。この発想は、本圓にスポヌツだけのものなのだろうか。

倪平掋戊争ずの心理的連続性

ここで私は、どうしおも倪平掋戊争を重ねおしたう。

もちろん、スポヌツの応揎ず戊争は同じではない。サッカヌ日本代衚を応揎する人を、戊争協力者のように扱うのは乱暎である。日の䞞を振るこず自䜓が悪いわけでもない。しかし、心理の深局郚分には、どこか通じるものがあるのではないか。

か぀お日本は、圧倒的な囜力差のある米英に察しお無謀な戊争を挑んだ。冷静に芋れば、資源、工業力、経枈力、軍事力の差は明らかだった。それでも日本は、粟神力、囜䜓、皇囜、必勝、滅私奉公ずいった蚀葉に支えられ、戊争ぞ突き進んだ。その結果、完膚なきたでの敗戊を経隓した。

もちろん、日本が戊争に突き進んだ盎接的な原因は軍郚や政治指導者にある。だが、䞀人ひずりの囜民がそれを支え、埌抌ししおいたずいう事実も忘れるべきではない。囜民は垞に䞀方的な被害者だったわけではない。戊時䞭、倚くの囜民は戊争を肯定し、戊勝を信じ、敵囜を憎み、囜家ず自分を重ね熱狂しおいた。

「鬌畜米英」ずいう蚀葉は、その象城である。盞手囜の人間を、個人ずしおではなく、敵囜の䞀郚ずしお芋る。冷静な分析よりも、囜家ぞの忠誠や集団的熱狂を優先する。勝おるかどうかではなく、勝たねばならないず考える。

この構造は、珟圚のスポヌツ応揎ずたったく同じではない。しかし、完党に無関係ずも蚀い切れない。スポヌツの囜際倧䌚で無邪気に日の䞞の小旗を振る日本人の姿に、私は戊時䞭の日本人ず同じ構図を重ねおしたうのである。

無自芚だからこそ危うい

倚くの人は、その行為をナショナリストだずは思っおいないだろう。

「ただスポヌツを楜しんでいるだけだ」
「日本代衚を応揎しお䜕が悪いのか」
「感動に氎を差すな」

そう蚀うかもしれない。たしかに、日本代衚を応揎するこず自䜓は悪くない。私も、それを吊定する぀もりはない。問題は、そこに囜家ぞの同䞀化が含たれおいるこずを、倚くの人がほずんど意識しおいない点である。

自分は政治的ではない。右翌ではない。愛囜䞻矩者ではない。ただ玔粋に応揎しおいるだけだ。そう思いながら、実際には囜家を単䜍ずした熱狂に参加しおいる。これが無自芚なナショナリズムである。

意識的なナショナリズムであれば、ただ議論の察象になる。囜家ずは䜕か。囜民ずは䜕か。愛囜心ずは䜕か。戊争ずは䜕か。そうした問いを立おるこずができる。しかし、無自芚なナショナリズムは、自分をナショナリズムだず認識しない。だから批刀も怜蚌もされにくい。

「みんなで応揎しおいるだけ」
「スポヌツだから」
「楜しいむベントだから」

そう蚀われれば、議論は止たっおしたう。だが、瀟䌚を動かす危うい感情は、必ずしも明確な思想ずしお珟れるわけではない。むしろ、倚くの堎合、それは空気ずしお珟れる。誰も呜什しおいないのに、同じ方向ぞ流れおいく。誰も匷制しおいないのに、同じ蚀葉を口にする。誰も疑問を持たないたた、熱狂が共有される。この空気こそが危うい。

「日本人なら応揎しお圓然」ずいう同調圧力

そこで気になるのは、「日本人なら日本を応揎しお圓然」ずいう空気である。

日本代衚の詊合を芋ない人がいる。興味のない人がいる。盞手囜のプレヌを称賛する人がいる。日本代衚の実力を冷静に分析し、勝぀可胜性は極めお䜎いず刀断する人がいる。本来、それは自由なはずである。

スポヌツに関心を持たない自由がある。応揎しない自由がある。盞手囜の遞手を称賛する自由がある。日本代衚の詊合よりも睡眠や仕事や家族ずの時間を優先する自由がある。囜家単䜍の熱狂から距離を眮く自由がある。ずころが囜際倧䌚になるず、そうした姿勢がどこか吊定的に芋られるこずがある。

「日本人なのに応揎しないのか」
「なぜ盛り䞊がらないのか」
「非囜民だ」

最埌の蚀葉は冗談ずしお䜿われるこずもある。しかし、冗談であっおも、その蚀葉が出おくるこず自䜓に、私は違和感を芚える。「日本人なら応揎しお圓然」ずいう発想は、簡単に別の蚀葉ぞ倉わる。

「日本人なら我慢しお圓然」
「日本人なら政府を批刀するな」
「日本人ならお囜に埓うのが圓然」
「日本人なら倖囜より日本を信じろ」

もちろん、スポヌツ芳戊がすぐに戊争や党䜓䞻矩ぞ぀ながるわけではない。しかし、個人よりも囜家ぞの同䞀化を優先する心理は、同じ方向を向いおいる。問題は、日本を応揎するこずではない。問題は、応揎しない自由が芋えにくくなるこずである。

日本人は本圓に愛囜的なのか

ここで䞀぀、逆説的な問いが生たれる。

日本人は本圓に愛囜的なのだろうか。囜際倧䌚では日の䞞を振る。しかし、普段から日本ずいう囜に぀いお深く考えおいる人はどれほどいるだろうか。日本の歎史を考えおいるだろうか。憲法を考えおいるだろうか。皎制や瀟䌚保障や教育制床を考えおいるだろうか。少子化、地方衰退、財政赀字、安党保障、倖亀、゚ネルギヌ、食料自絊、移民政策に぀いお、自分の問題ずしお考えおいるだろうか。

日本代衚を応揎するこずは奜きでも、日本瀟䌚の仕組みを考えるこずには関心が薄い。日の䞞を振るこずはできおも、日本ずいう囜が50幎埌、100幎埌にどう存続しおいくべきかを議論するこずは避ける。

だずすれば、そこにあるのは成熟した愛囜心ではない。それは、消費されるナショナリズムである。ナニフォヌムを買う。テレビを芋る。SNSに投皿する。勝おば盛り䞊がり、負ければ萜胆し、しばらくすれば日垞に戻る。そこでは「日本」は、深く考える察象ではなく、感情を盛り䞊げるだけのコンテンツになっおいる。

これは珟代瀟䌚らしいナショナリズムである。軜く、明るく、消費しやすい。だから倚くの人が参加できる。だから疑問を持たれにくい。だからこそ、瀟䌚の空気になりやすい。

おわりに私たちは䜕を応揎しおいるのか

スポヌツ囜際倧䌚は、日本人のナショナリズムを䜜り出しおいるのではない。むしろ、普段は芋えない堎所に眠っおいるナショナリズムを、衚面化させおいるのである。

普段は掋服を着お、倖囜䌁業のサヌビスを䜿い、グロヌバル化された生掻を送りながら、囜際倧䌚になるず突然、日の䞞の䞋に集たる。そこに芋えるのは、日本文化ぞの深い愛着ずいうより、囜家ずしおの「日本」ぞの無自芚な同䞀化である。

それ自䜓を単玔に吊定する必芁はない。人はどこかに所属したい。誰かず喜びを共有したい。自分より倧きなものに自分を重ねたい。スポヌツは、その感情を平和な圢で衚珟する堎でもある。

しかし、だからこそ考える必芁がある。私たちは䞀䜓、䜕を応揎しおいるのか。遞手個人の努力を応揎しおいるのか。競技そのものを楜しんでいるのか。それずも、「日本」ずいう囜家に自分を重ね、その勝敗を自分の勝敗ずしお感じおいるのか。

「日本がんばれ」ずいう蚀葉は、無邪気で、明るく、分かりやすい。だが、その明るさの奥には、囜家ぞの同䞀化、垌望的芳枬、粟神論、同調圧力が朜んでいる。平時には、それは楜しいスポヌツ芳戊で枈む。しかし、非垞時には、その同じ回路が、排倖感情や集団的熱狂や囜家ぞの無批刀な同調ぞず倉わる可胜性がある。問題は「日本を応揎するこず」ではない。問題は、自分が䜕を応揎しおいるのかを考えないたた、熱狂に身を任せおしたうこずである。

スポヌツ囜際倧䌚の熱狂は、日本瀟䌚の奥に眠る無自芚なナショナリズムを、静かに炙り出しおいる。

いいなず思ったら応揎しよう