🌈 なぜナイキを育てた日本人は「名前」を奪われたのか|タコの吸盤から始まった4つの逆転
「オニツカタイガーって、おしゃれな海外ブランドでしょ?」
そう思ったあなた。実は、生まれは戦後の神戸です。焼け跡の闇市のそばでした。
しかも、話はそれで終わりません。世界最大のスポーツ帝国ナイキの誕生に、この日本の靴屋が深く関わっていた…。
信じた相手に法廷へ引きずり出され、それでも半世紀後に大逆転する。靴の鬼才・鬼塚喜八郎と、アシックスの物語です。
この記事を読むと、タコの吸盤が世界を変えた理由が分かります。そして、負け続けた会社が復活した「4つの逆転」も。
🐯 結論:ナイキの原点は、神戸の焼け跡にあった
結論から言います。世界最大のブランド・ナイキは、日本の靴を売ることから始まりました。
その靴屋の名は「オニツカ」。今のアシックスであり、オニツカタイガーです。
ナイキ創業者のフィル・ナイトは、1962年に単身で神戸まで来ています。なぜ、わざわざ地球の裏側まで?
目的はただ一つ。オニツカの靴を、アメリカで売らせてもらうことでした。
ふたりは名作スニーカー「コルテッツ」を世に出します。ところがその後、関係は法廷まで崩れました。
例えるなら、住み込みで育てた弟子が、道場の看板ごと持ち出していったようなもの。しかも看板は、そのまま返ってきませんでした。
ではオニツカは、そこで終わったのでしょうか? いいえ。ここから4つの逆転が始まります。
タコの吸盤、奪われた名前、元旦の朝刊、そして「値引きしない」という決断。順に見ていきます😤
🐙 逆転その1|夕食の「タコの酢の物」が、滑らない靴底を生んだ
時代は1949年3月、焼け跡の神戸。闇市が広がり、若者たちは行き場を失っていました。
その光景を見て、ひとりの男が動きます。「スポーツで若者を立ち直らせたい」。鬼塚喜八郎による、鬼塚商会の創業でした。
掲げた理念は、ラテン語をもとにした一節です。「健全なる身体に健全なる精神があれかし」。この頭文字をつなぐと、ASICS(アシックス)になります。
喜八郎が最初に選んだのは、バスケットシューズでした。当時、もっとも製造が難しいとされた靴です。素人集団が、いきなり最難関に挑む——うまくいくと思いますか?
いきませんでした。滑りやすい体育館の床を捉える靴底が、どうしても作れなかったんです。
選手は急に走り出し、急に止まります。アクセルとブレーキを同時に踏んで、なお前へ進め。そう言われているようなものでした。
では、この壁をどうやって破ったのか? 答えは研究室ではなく、夕食の食卓にありました。
1951年の夏、皿に並んでいたのは酢の物のタコです。皿の底に、タコの足が強くへばりついている…。
「吸盤のくぼみを、靴底に移せばいい」。試作品は止まりすぎてつんのめり、そこから1ミリ単位で深さを削り込みます。
こうして生まれたのが「吸着盤型バスケットボールシューズ」。試作に協力した神戸高校が勝ち始め、快進撃はここから動き出したんです🐙
🤝 逆転その2|「コルテッツ」という名前を、生みの親が失った日
オニツカの品質は、やがて海を越えます。魅了されたのは、アメリカのひとりの青年でした。
名前はフィル・ナイト。のちに世界最大のスポーツメーカーナイキを創業する男です。
大学で陸上をしていた彼は、1962年に神戸を訪ねます。なぜ、わざわざ地球の裏側まで? オニツカの靴を売る権利が、どうしても欲しかったからです。
1964年、彼はブルーリボンスポーツ(BRS)を設立します。オニツカの靴は、アメリカで爆発的に売れました。
そして生まれたのが、名作スニーカー「コルテッツ」です。BRS側が設計を提案し、オニツカが作りました。
誰が見ても、固い絆に見えました…。ところが1971年、ナイトは自社ブランド「NIKE」を立ち上げます。
ここから泥沼です。アメリカではBRSがオニツカを訴え、日本ではオニツカがBRSを訴えました。どちらが勝ったと思いますか?
決着は1974年。「コルテッツ」という名前は、ナイキのものになりました。
生みの親のオニツカは、同じ靴を「コルセア」と改名して売ることになります。「そんなの、ありなの?」と思いますよね。
例えるなら、一緒に建てた家の表札だけを持っていかれたようなもの。それでも喜八郎は、下を向きませんでした😢
🔥 逆転その3|「負けっぱなしで終われるか。」元旦の朝刊に載った一行
その後オニツカは、総合スポーツメーカーへ脱皮します。1977年7月に3社が合併し、いまのアシックスが誕生しました。
ですが、ここから長い低迷が待っていました。90年代のハイテクスニーカー熱狂の陰で、業績は伸び悩みます。
決定打は、陸上長距離を席巻した「ナイキの厚底シューズ」でした。2021年の箱根駅伝。アシックスを履いたランナーは、ついにゼロ人になります。
同じ大会でナイキのシェアは95.7%。これがどれだけの屈辱か、想像できますか?
「アシックスは、もう終わったのか?」 世間はそう囁きました。ですが、社内はまったく逆だったんです。
創業者・鬼塚喜八郎の「転んだら起き上がればいい」という魂が燃えていました。社長直下で動いていたのが、開発チーム「C-PROJECT」です。
Cは、喜八郎の口ぐせ「まずは頂上から攻めよ」の頂上。そして2022年1月1日、元旦の朝刊。
「負けっぱなしで終われるか。」ライバルの名前も、レース名も一切出さない広告でした。それでも、誰に向けた言葉かは日本中に伝わります。
翌日の箱根駅伝。厚底シューズ「メタスピード」を履いた選手が、大手町を駆け抜けました。結果はどうなったか?
北米ランニング専門店でのシェアは、2022年の8.3%から2024年12月には20%近くへ。2024年12月期の営業利益は1,001億円と、初めて大台に乗りました🔥
👑 逆転その4|なぜオニツカタイガーは「値引きしない」のか
競技用のアシックスが厚底で世界を取り戻す一方、もう一枚のカードが動きます。長く休眠していた「オニツカタイガー」です。
1977年の合併でブランド名は消え、復活したのは25年後の2002年、欧州でのことでした。
火が付いたのは、2003年の映画『キル・ビル』です。主演のユマ・サーマンが履いた黄色い一足、モデル名は「TAI CHI」でした。
ここでオニツカタイガーがとった戦略が、常識の真逆です。2011年に9割以上だった量販店への卸売りを、直営中心に切り替えたんです。
売るのは、ほぼ定価のみ。「値引きしないなんて、殿様商売では?」と思いますよね。
ですが、会社の説明を聞くと納得します。この前買った商品が、次に来た時に安くなっていたら、お客をがっかりさせてしまう——。
例えるなら、一度水で薄めたスープは、二度と元の濃さに戻らない。値札も、まったく同じです。
一度下げた値札は、ブランドの信頼ごと薄めてしまう。だから、下げないという判断でした。
結果はどうなったか? オニツカタイガーの売上高は2025年12月期に1,365億円、前期比プラス43%に達しています。
銀座の店舗では入場規制がかかるほどの人気。国内売上671億円のうち、実に474億円が訪日客によるものです👑
🏃 敗れても、また走れ。
鬼塚喜八郎の人生は、文字どおり波乱万丈でした。病、震災、戦争、ライバルの台頭、そして名前を奪われた日…。
それでも彼は、一度も下を向きませんでした。ここまで見てきた4つの逆転を、もう一度並べます。
逆転その1:夕食のタコの酢の物から、滑らない靴底が生まれた
逆転その2:「コルテッツ」の名を失っても、靴づくりはやめなかった
逆転その3:箱根で着用ゼロの屈辱から、営業利益1,001億円へ
逆転その4:値引きをやめたら、世界が定価で行列を作った
共通点は、たったひとつです。転んだその場所から、もう一度立ち上がったこと。
「一度負けたら、もう終わりなのか?」 この物語は、その問いに力強くノーを突きつけています。
あなたにも、途中でやめた挑戦があるはずです。今日、そのひとつを机の上に戻してみませんか?
敗れても、また走ればいい。その精神は、いまも一足の靴のストライプに宿っています。
この記事が面白かったら、ぜひ「スキ」とフォローをお願いします。あなたの足元のスニーカー、その遺伝子はタコの吸盤かもしれません🐙
