読書記録|司馬遼太郎 『夏草の賦』
読了日:2026年1月12日
2025年の夏にまとまった時間ができたので、例の如く、本を数冊まとめ買いして一気読みをしようと積ん読した。その本の全てを、これまでに読んでいない司馬遼太郎の作品だらけにして。それらを時代的に内容の古いもの順に読むことにし、最初に読み始めたのが『夏草の賦』であった。ちょうど2024年に初めて四国へ上陸したのもあって(愛媛と香川のみだが)、あの長曾我部元親(一般に「長宗我部」と表されるが、ここでは司馬さんに合わせて「長曾我部」を使わせてもらう)が、四国でどのように生き、どのような最後を遂げたのか興味深く読んだ。
「御手洗」さんや「茂古沼」さんや、他の誰よりもインパクトがある苗字の長曾我部元親の名は、戦国史にまつわる本で何度も触れていた。ただ、詳しい”人となり”はあまり把握していなかった。人物像は司馬遼太郎のイメージが反映されているものではあるが、読むにつれいつもながら文章力にするりするりと引き込まれ、長曾我部元親という血気盛んで躍動感のある若者像に魅了されていった。途中、仕事が多忙になり、ゆっくり読書する時間が取れなくなってしまったため、読了までにこんなにも時間が空いてしまったわけではあるが、2026年が始まって間もない今日、一気に残りを読み切った。本を閉じた後に、運というものは、人がコントロールできるものなのかそうでないのかを考えた。日頃から私は現実的な方で「運」などは殆ど意識しないが、戦国時代の武将たちのような環境下だと”運の良さ”と言うのはとても大事なものになってくる。ボタンのちょっとの掛け違いで生か死が決まってしまうような瞬間瞬間を生きてるのだから。まさに長曾我部元親の人生の終盤は、運に見放されたような虚無感がある。例えが上品ではないかもしれないが、ギャンブルで一度負け込むとそこから抜け出せなくなるような、抵抗虚しく川の下流にどんどん押し流されてしまうような、そんな趣さえある。
四国という”世界”を我が物にしたはずだった元親。ところが海を隔てた向こうには、もっと違う世界が広がっており、自分がどれほど狭い世界で勝者の振る舞いをしていたのか、秀吉に敗北し初めてそれに気がついた。
戦国の世は常に死と背中合わせである。敗者は滅ぶ。唯一、勝者に属せば生き残れることもある。それは現代もそうで、戦争に負ければ相手国に従属することを強いられる。元親の場合も自分の”家”を守るため、秀吉に付き従うことを選んだが、その秀吉の”手抜き”または”驕り”とも言える采配の悪さによってとても無念な余生を送る。九州攻めの戸次川の戦いで、元親親子がいる豊臣軍を率いていた、仙石権兵衛という最悪の判断力を持つ主将によって、儚くも次世代を担う勇猛果敢な元親の嫡男、信親が散ってしまう。豊臣軍は最悪の戦いを強いられ、第三陣にいた元親は信親の死を知らぬまま落ち延びることを薦められ逃れた。
その後の信親は生きた心地のしない余生を過ごしただろう。一度は四国を手に入れた若者が、秀吉を前に圧倒的な力の差に打ちひしがれ、無能な指揮官によって最愛の息子を失い、無念の余生を過ごすことはどれほど苦痛だったか。……そのように生きるのが当時の戦いに敗れた武士の定めでもあった。命を取られなかっただけ幸せだったのかも知れない。いや、武士道としてはそれはまた逆かも知れない。現代は、戦国の世から見ると想像もつかない別世界であろう。道を歩いてても斬られることもない。満ち足りすぎているほどの世の中だが、彼らからすればギラギラすることもない、なんとも退屈な世界なのかもしれない。
