美術館に行くとどうしても自分でも再び描いてみたくなる
はじめに
先週、一人旅をした。そこで立ち寄った美術館で数か月ぶりにまとまった絵を見た。こうして静かな館内に展示されている作品をひとつずつ見ていくと、その1枚の絵を仕上げるのに画家が費やした時間が想像される。私とて絵を描くとそれなりに時間を充てる。残された時間でそんなにたくさん描けるわけではないし、絵に割り当てられる時間もそんなに多くはないけれど、それでも描きたくなる。
きょうはそんな話。
(タイトル写真:ニス塗りをミスしてしみをつけてしまった模写、板・油彩)
そんな場所
今回訪れた美術館は丘の上にあった。道すがら坂道の途中から富士山を仰ぎ見ることができる。もちろん街中の美術館にも素晴らしいところはたくさんある。だが、暑いさなかに汗をふきふき坂を上り、ようやくたどり着いた先にある絵には格別の感情が湧く。
画家が苦悶してやっと完成に至った経緯と比べるべくもないが、こうして体力を消耗させる形でようやく絵に近づけて、作品の前に立たせてもらえるといっていい。やっと出会えたという感慨が湧く。
丘の上に
そういえば当時住んでいた街の、丘の上にある美術館でセガンティーニの絵を見たときもそんな気持ちになった。また、同じ館でおこなわれた西洋絵画展は、最終日の閉場時間の間際にたどりつけた。
まだ、大丈夫ですか?と尋ねながら入場。わたしが観覧し終わった部屋では絵の収納や片付けが始まっていたほど。つまりその地でそれらの絵のまとまりを最後に見たのが私。もう生涯2度目を見る機会はないだろうという絵画が一斉に見られるチャンス。一世を風靡した画家達が渾身の思いで描いたエネルギーがこの場所に集約されている。それに圧倒されて帰ることになる。
それだけに
圧倒されるだけでない。やはり触発されるし、自分でも描きたくなる。そんな没頭する状態に至りたいと思う。たいてい、筆を取るのはそんな観覧の後が多い。美術館には時間を割いて向かうから、他のやるべきことを早めに片づけて向かえればよいが、場合によっては後にしわ寄せが来ることもある。
そして、忙しいときほど描きたくなるもの。以前の対象は風景だったが、このところは人物。自画像ならば時間と場所の制限はなくなるが、自分自身を描くことへの興味は薄い。中学の文化祭に展示する絵として自画像を描いたが、そこで自らの心の中を世間にさらけ出すかのように思え、それ以来描きたくなくなった。その心持ちは今も変わらない。専ら対象として他の方、つまりモデルさんをお願いすることになる。
デッサンを通じて
とはいえ、絵画教室やデッサン会に通うのはなかなか時間の融通が効かなくなる。一度そうした大学の先生の講座に参加したが、仕事で土日も休めなくなり、やり繰りがつかず残念ながら途中からほとんど通えなくなった。したがってその後は、知り合いの方でお願いできる方と示し合わせてデッサンするか、やむなく写真を撮らせていただいてそれをモニターの画面で映しながら描く。
やはり継続は力。クロッキーデッサンを続けると、形が掴めるようになれる。何より人物の息づいている様子が見えてくる。
おわりに
絵を描くことはやはり性に合っている。始めたかと思うと中断し、しばらくさまざまな理由でそのままになってしまう。そうして美術館を訪れる機会をきっかけに再開することが多い。趣味で取り組む私にはこれはこれでいいのかもしれない。
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