新月でいつもの川がたっぷりの水を湛えながら流れている
はじめに
早朝、川沿いに散歩に出かけた。自然な風にあたりたくてこの川岸にやってくる。台風が立て続けに近づいているので、このところずっと下流の海のほうから風が吹いている。こんな場所が家からすぐのところにあるのはいい。
きょうはそんな話。
外に出る
川の堤防の上の片側は人道。ここでは正面からたまに来る人だけ避ければいい。車が通らないだけで気持ちを緩めて歩ける。道の両側の草花をいろいろ眺めながら歩く。たいてい何種類か花をつけていて、既に実をつけているものもある。
普段はそんな野の花たちだが、私には特別な存在。何もこちらで水やりしたり世話をしたりするわけではない。言ってみればじつにお手軽な鑑賞の対象と言える。とはいえこの夏の暑さはそんな屈強なはずの草花たちでさえ過酷なようで、かなりの範囲で茶色く立ち枯れしている。
やはり普段以上の暑さにやられ、適応する間を与えられないまま枯れたらしい。その傾向は近くのビル横の植栽も同じ。ここの植栽は春にはきれいな花をつけて楽しませてくれていたが、木々の下葉がかなりの範囲で枯れている。
見渡すと
川の流れを真横に見ながら上流に向かって歩く。ちょうど新月でいつも訪れる以上に水かさが増して、こんなに水量の多い川だったかなというほど湛えている。ゆったり気味で歩いていると、水が完全に止まって見える。ときおりボラか何かの大きめの魚影が見えて立ち止まる。すると川はしっかりたゆたゆと下流に向かって流れていたとわかる。再び上流に向かい歩くとやはり池のように水面が止まって見える。立ち止まると確かに流れている。
人間の目はこんなふうに錯覚に囲まれていると気づかされる。普段と変わりなく海に向かい流れているのに、上流に一定の速度で歩くと止まって見える。多少早足でもそのまま。なかなか興味深い。
誤解を生む
そうか。人とのやり取りでもそうかもしれない。私自身が相手の方に印象で見えているだけなのかも。しっかり立ち止まって目を見ながらじっくりお話を聞き、ご意向をしっかり確かめつつ先へ進む。そうしないとこちらは把握できずに誤解を生み、場合によっては私は「そんな人なんだ。」と捉えられてしまう。
何も意向を知ることは急がなくても、早合点せずともいい。じっくり聞いて気持ちをしっかり把握してからでいい。生半可な理解のままだとそのうちお互いの考えや意向が乖離してしまう。
おわりに
ちょうど満潮の時刻のようで、年間通じてこんなに川の水面が高いのも珍しい。そんな水面と堤防をはさんで反対側、住宅地に面した地面に目をやる。ほとんど川の水面と道路の路面の高さに違いがない。
ここはおそらくめったに起こらないだろうが、る浸水の想定される地域。ふだん頻繁に利用するエリア。行政の地図上でそんな区域が色分けされている。大昔に思いを馳せる。まだ堤防を築いていない頃はきっとまだ川幅は広く、埋め立てされていない海岸はもっとこの近くだったのは間違いなく、低地は何度も洪水に遭っていたかもしれない。
このあいだ大正の頃の地図と写真をたまたま目にして、このあたりの海岸沿いはずっと松の木が生えていたようだ。その名残はわずかに川向うの公園のあたりに痕跡程度に残る。この近くに「松」の文字の入る地名が多いのも頷ける。
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